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均しき絆 作者:奇伊都

第19回   噂がもたらす影響は……

 屋敷の門をくぐり、辺りを見回すと関羽は眉をしかめた。
 おかしい。
 空気がなんとなく浮ついているように感じる。
 劉表から劉備が与えられたその屋敷は広く、その場で見回しても、全てをみることは到底かなわない。立派な構えをもち、庭も広く橋の架かる池まである。劉備に従ってきた何人もの武将達が、それぞれ部屋をあてがわれるほどだからそれもわかるだろう。
 見える範囲では何ら変わりもないように思える。だが関羽は長年戦場を行きぬいてきた自分の、その理論を越えたところにある感覚に自信をもっていた。
 何か異変があったに違いない。
 横を歩く劉備に一度目をやってから、また辺りを見回す。
 とにかく劉備の安全を確保するのが自分の役目だ。
「平はいるかな?」
 近くにいた家人を呼びとめると、彼は一度礼をし、素早く奥に消えた。
「関平を呼んでどうするんだ?」
「留守中、何か変わった事がないか聞くつもりで……」
 張飛の問いに対する関羽の答えを聞いて劉備が笑った。その反応に戸惑って関羽が彼をみると、微笑んだまま首を振った。
 心配要らない。とでもいうかのようだ。
 まるで根拠がないように思えるが、その笑みはそれでも納得しそうになる何かがあった。劉備は本気で何の心配もしていないようだ。
「俺が玄徳兄貴の側についているのだから、そんな心配すんなって。」
 心配性な義兄を慮ってか、張飛がそう言った。
 張飛の後ろでは、趙雲が同意するように大きく頷く。
「……子竜殿がいるから、安心か。」
「ひでぇ、雲長兄貴。俺は信用ねぇのか。」
「お前は考えが足らないところがあるからな。」
 張飛がこれ見よがしに嘆く様をみて、関羽は苦笑した。
 この義弟にはすこしまわりに甘えているところがある。自らの短気を自らで制するつもりが全くない。それさえ直せば、もっといい武将なのだが……
「雲長。借りたい書物があるのだが、邪魔してもいいか?」
 そんな義兄弟間のやりとりに、劉備は笑いをおさめてからそう言った。
 めずらしいこともあるものだ。
 関羽はそう思った。
 自分は時間があれば読書をするので、書物もいくらかは持っている。だが劉備はどちらかというと、読書をするよりも練兵(兵の訓練)を行うほうを好んでいるため、これまで本を貸してほしいといわれたことなどなかった。
「それはいいが、兄者は練兵をせずともいいのか?」
「今日は孫乾殿に、練兵場には糜竺殿と張飛が行くといってある。なぁ益徳?」
「えっ!」
 劉備の言葉に対するこの張飛の反応からすると、彼も初耳だったらしい。
 孫乾とは糜竺と同様に、以前劉備が徐州にいたときに傘下に入った者で、今回の襄陽入りも先触れの使者として先に荊州に入るなどと、何かと能力が高く、口の立つ男だった。
 劉備の信も厚く、兵の育成に関しては、今は孫乾にその任を与えている。
 彼にそう言ったということは、張飛と糜竺の部下の兵の鍛錬を、より強めるということだろう。
 関羽はなんとなくわかった気がした。
 古城攻めで、張飛と糜竺は共に戦い、見事に落城せしめた。
 兵を任せられる将は一人でも多いほうがいい。戦をするための作戦に幅が広がる。だが張飛一人では心許無いため、糜竺と組ませて、より心強く使えるようにしようと考えたのだろう。
「兄貴が言うなら従うけどさ……」
 釈然としないような口ぶりで、張飛は下がっていった。
 彼は別段糜竺を嫌っているわけではない。だがそれよりも劉備の側で警護しているほうが好きなのだろう。彼はこういうふうに素直に感情を表すことが多い。
 だがそれは戦場での判断ミスにもつながる。
 沈着冷静な糜竺となら、張飛も自分の感情に振り回されて、実力が発揮できないような場面に陥ることはないに違いない。
 では、ということで劉備と趙雲をつれて、関羽はあたえられている棟に向かって歩き出した。だが関羽は進む足が増えるにつれ、やはり辺りの空気がおかしいことが間違いないように感じられた。
 普段サボるところなど見たことがない(実際はサボっているのかもしれないが、そういうところを屋敷の住人である劉備や関羽にはみせない)家人達が、いたるところで立ち話をしている。バタバタと足音をたてて走っている者たちもいれば、ぼんやりと魂がぬけたように空を見上げている者もいた。
「やはり何かあったのか……?」
「まあ仕方がないだろう。今日はな。」
 関羽は今気付いた。言葉の端々のニュアンスだけなのでわかりづらいが、微妙に劉備も浮かれているように見える。
 今日は何か祭りでもあったか。
 その浮かれぶりに関羽はそう考えたが、該当事項がまったく思い浮かばない。
「父上。」
 劉備に問いかけてもはぐらかされていたとき、目の前にやってきた青年がそう関羽を呼び止めた。
 彼は関羽の養子である関平という。劉備に勧められ養子にしたが、関羽自身も彼の聡明さを買っていた。
 関羽の後ろに続いている二者に気付き、礼をする息子が再びこちらを見るのを関羽は待った。
「平。何があった?」
 ようやく疑問に答えてくれそうな人物に出会え、関羽は少しほっとしていた。が、次の関平の言葉によけい困惑を深めた。
「私が聞きたいです。あの方は……その………」
 はっきりと語尾までいわない関平を関羽は怪訝に思った。
 彼らしくない。いつもならこんな言い方はしないのに。
「なんだ? 言いたいことがあるんだったら、さっさと言え。」
「雲長殿にお客人なのです。」
 微かにかすれたような声が、そう告げる。見るともう一人、壮年の男がこちらも困惑した顔で立っていた。
 彼は周倉。古城に滞在中、関羽の武勇を聞き、ぜひ部下にしてくれとやってきた男で、それまでは盗賊の頭などをやっていたようだが、その挙動は礼儀作法にのっとったもので、落ちぶれたどこぞの名のある家の者ではないか、と関羽は思っている。
「その、ですから……お部屋のほうにお通ししてあります。」
 何とか関平が口にだすことに成功した言葉を聞きながら、関羽はなんとなく関平の、この何かに心奪われている反応を、どこかで見た覚えがあるような気がしていた。
 どこ、だったか……確か許都で……
 その疑問はそのままで、劉備と趙雲を連れて示された部屋へ関羽はむかった。



 陽凛は屋敷をでてから市場へむかった。
 今日は久しぶりに純が実家に帰ってくるのに付き従って、久しぶりに襄陽へ来ていた。純は両親と共に過ごすので、陽凛はしばらく骨休めをしておいでと言われ、気のむくままに外出してきたのだ。
 まるで妹のような存在である主を考え、陽凛は頬を挙げた。
 最近はあの物思いにふける姿をまったく見ない。それだけのことが、ただ嬉しかった。
 友であるという、あの男装を常とする奇妙な女性のおかげもあるだろう。だがそれ以上に純への気配りを忘れない亮への感謝があった。
 彼ならば可愛いらしいあの主にふさわしい婿だ。陽凛にはそう思えていたし、実際純も亮を嫌ってはいないようだった。
「栗ね……。」
 ふと店先にあった商品をみて、陽凛は足をとめた。
 そろそろいい時期だ。甘くて実もぎっしりつまっていそうだ。
 土産にいいかもしれない。
 喜ぶ主の顔が思い浮ぶと、それ以上の思考は無意味だった。陽凛は店の者に声をかける。
「いくらかしら?」
「おや、べっぴんさんだね。安くしておくよ。」
 愛想のいい男が、満面の笑みで答える。
 交渉の末、その言葉通り量にしては安価だった。
 栗を包んでもらっている間に、後ろを通りすぎた人々の言葉が陽凛の耳に入った。
「予州殿は今日も州牧に呼ばれたらしい。」
 予州殿とは劉備のことだ。昔予州の州牧に任命されたことがあるため、左将軍の他にそうとも呼ばれている。
 最近、純は亮が劉備のことを気にしているみたいだと陽凛に言った事があったので、ついその名前を耳が捉えたのだ。
「ここのとこ連日だな。」
「これまでの武勇伝について、いろいろ聞かれているという………」
 雑踏に溶け込んでいったその会話のする方向を、陽凛は知らず見ていた。
 そんな陽凛に気付いて、店主は思いついたように言った。
「予州殿といえば……その義弟、関羽の噂を知ってるかい?」
「はい?」
 陽凛が振り返ると、手に包んだ栗をもった店主が聞きたいとも言っていないのに話し出した。



 息がとまる。
 意識しないと、呼吸ができなかった。
 その姿がどれだけ見たかったか。その声がどれだけ聞きたかったか。
 忘れたことなど……なかった。
「均実殿……。」
 その部屋に到着した関羽は、辺りの空気をおかしくしていた原因の名を呼んだ。
 ゆっくりと振り向いたその女性は、別れてからもずっと気にかかっていた人。
 横髪を少したらして藍の紐で結び、同系色の花がいくつも頭に散らされている。風もないのに衣の袂がなびくように、さわやかな色で全体的にまとめられていた。
 微笑んでいる顔も化粧が施されているが、それがなくともどことなく大人びた感じがするだろうと思った。背は変わっていないように思うが、全体の雰囲気が以前より柔らかい気がする。
「来られていたのか。」
 関羽は自分が今どんな表情をしているのかわからなかった。うまく笑えているのか、顔の筋肉がどのように動いているのか。
 ただ嬉しかった。
「お久しぶりです。」
 弾くような張りがある若々しい声。関羽の耳はそれをとらえた。以前と何も変わってはいない。
 そのことに緊張がとけたようだ。ようやく彼の頭が冷静に働き始めた。
 すると関羽は思わず口元に笑みを浮かべた。
 均実は静淑な動きをしているように見える。だがそれは別に意識してのことではなく、単に女装では動き難いからだろう。
 そのことが微笑ましく思えた。
 きっと自分と別れてからは、ずっと男装で過ごしていたに違いない。
 そう思いつつ関羽が古城で別れた時の姿を重ねて見ると、どこか違和感を覚えた。
 彼女がいるなら、家人達がざわめいているのも仕方がない。関平の奇妙な言動にも納得できる。そう思えるほどの美しさは変わらない。ただ……
「すこし痩せられたな。」
「……徽煉殿にもいわれました。」
 均実は微笑を顔に乗せたまま、そう返答した。
 どうやらそう見えるらしい。あまり意識はないが、最近の猛勉強のせいかもしれない。
 下手に動くとどこかにひっかけそうな格好に辟易しながら、均実はゆっくり礼をした。
「今日は奥方様のお見舞いにきたんです。雲長殿がすぐ帰られると聞いて、すこしご挨拶をと思って。」
「そうか……無事で何よりだ。」
「雲長殿も。」
 均実の言葉に関羽が頷いた。
 懐かしい空気がそこにはあった。
 初めて会ったときからなんら変わらない。
 対等な目線で話し合える。
 そう。初めて出会った時も、彼女のこういうところが嬉しかったのだ。
 関羽はそう思って破顔した。
「この方が均実殿か。」
 後ろからそういう声が聞こえ、関羽はハッとして後ろを振り返った。
 そこには劉備と趙雲がいる。均実のことだけで頭がいっぱいで、関羽はすっかり彼らのことを忘れてしまっていた。
 ……しまった。またからかわれる。
 そのことを関羽が考えついた時はもう遅い。
 きっと古城で散々からかわれたときのように、しばらくはだんまりを決め込むしかないだろう。
 一方、均実は劉備をみて一瞬表情を強張らせたが、息をはくと笑みをみせた。
「劉玄徳様ですね。」
 紹介されるまでもない。その大きな耳は見間違いようがなかった。
 実はうまくいけば関羽だけに会って、劉備には会わずに隆中に帰ろうと均実は思っていたが、会ってしまっては仕方がないだろう。
「お目にかかれて光栄です。」
 均実の言葉に劉備は一瞬眉をあげたが、嬉しそうに笑ってみせた。
「こちらこそ。美しい方に名を覚えていただけているというのは嬉しいものだな。」
「ははは……」
 こちらの世界の人は目が悪いらしいと思っている均実は、そんな乾いた笑いを口から発した。そしてそうしながらも冷静に劉備を観察している。
 遠くからは街中で見たが、こうやって近くで見、実際に話してみるとまた印象が違った。
 確かに曹操ほどの鋭さがないのは確かだが、頼りない感じに見えたというのは訂正せざるをえない。しっかりとした体つきに、ハキハキとするしゃべり方。人好きするようなその笑顔は、思わずこちらも微笑んでしまう。
 大きな目に、紅の唇。くっきりとしたそれぞれの顔のパーツが、美男とはいわないが魅力的な顔立ちにしているようだ。こうなってくると、耳はこれぐらい大きなほうが、合っているように思える。総合した感想では、立派な顔。そう言えるだろう。
 妻が死に瀕している男の顔には見えないな。
 均実は皮肉のように浮かんだその考えを、即座に打ち消した。劉備が非情の人間であるという話を聞いたことはない。それよりも情が深く、溢れるほどの仁愛をもつ人であるといわれているのをよく耳にした。
 なら自分の感情を常に隠しているのか。
 均実はそう考えた。
 人としてはあまり嬉しいものではないが、将として自らのプライベートのことを引きずらないのは、この乱世では必要なことかもしれない。
 だから糜夫人も彼を支えなくてはいけないと思ったのだろうか。けして弱みをみせてはならない立場である劉備を。
 そう思うとそれなりに好感が持てた。彼からにじみ出ている人徳のためもあるだろう。
 均実の知らない情報を補足しておくと彼、劉備玄徳に関しては「喜怒を色にあらわさず」という誉め言葉がある。
 将たる者、一々感情を表面にださず、どのような問題にも淡々と公正な判断が求められる。そんな劉備だからこそ、たとえ地盤とするような土地を持たなくても、彼の部下はついてきたのかもしれない。
 劉備の後ろにいた趙雲とも、再会の礼を交わす。劉備と話している間、趙雲はかなり呆れたような目で均実をみていた。
 彼とは以前会っているが、その時均実は男装だった。
「こうも変わるものか……」
 男装した状態でしばらく共に旅をしたこともある。そのギャップに改めて驚いているのだろう。
 なんとも言えずに苦笑していると、次の話題に均実は虚をつかれた。
「は?」
「襄陽でもそういう噂があるのだ。」
 関羽がそう言ってため息をついた。
「襄陽の中を兄者が進む時に景升殿と、均実殿の話をしていたのだ。
 どうやらそれを民草が聞いていて話が膨らんだらしい。」
「いや、誇大表現ではないと思うぞ。問題ないだろう。」
 劉備は関羽に反論するようにそう言った。
 彼にとっては問題なくても、均実にとっては大問題だった。
 襄陽の民がいう噂とは……
 関羽が曹操にくだった下邳の街に、天から舞い降りし美しき姫がいた。その天女の美貌、千里先の城まで届くほどの輝きを放つほど。数多の宝石を集めても、匹敵するに及ばず。それこそまさに誰もが心を奪われるという関羽の想い人である。だがその清浄さゆえに、長きに渡って穢れ多き戦場にはいられない。天に戻ろうとするその天女を、関羽は泣く泣く手放したのだという。
 と許都と同じく、均実の話が一人歩きする現象が起こっていたのだ。
 ……どこであろうと、人というのは噂が好きらしい。この世界にはテレビやラジオといった情報源がない。だから余計かもしれないが。
 この噂のせいだろう。関羽をこの部屋で待っている間に何人もの家人が均実を見ようとしたのか、大した用もないのに部屋にきていた。ほぼ珍獣扱いである。
 まったく劉備も劉表も厄介なことをしてくれたものだ。
 均実はとりあえず劉備に面と向かって文句をいうのは、もう言っても仕方がないので止めたが、代わりに深〜くため息をつく。
 家人達は今日、現実を知った。どうせそのうち、その噂は彼らが鎮火してくれるだろう。均実はそう思った。
 それが自分の容貌に対する正しい認識ができていないための、甘い予想であることを均実はわかっていない。
「来るとは聞いていたから、やはり見に来て正解だったな。」
 劉備が楽しそうに言う。
 均実は今日、見舞いにいくことを徽煉に連絡していた。それが劉備の耳に入っていたのだ。
 正しい認識ができていないからこそ……
「……噂と現実の違いが勉強できたからですか?」
 均実はこう言った。
 劉備はそれに心底不思議そうな顔をしたのだった。
 そんなこんなで劉備はかねてからの望みであった均実に会うことができた。そのまま書物を数冊関羽から借りるとさっさと帰っていったし、趙雲は彼についていった。
 糜夫人のところに劉備は行くのだろうか。
 そうならいいなと思いつつ、均実はその後姿を見送った。
 すこしでも長い時間を、彼女と過ごしてやってほしい。
「均実殿? どうかしたのか?」
「え……あ、いえ。」
 関羽がいつまでもつっ立っている均実に、怪訝そうに声をかけた。
 均実はいつの間にか思考が糜夫人のことになっていて、その言葉を聞くまで座ることなど考えに浮かばなかったのだ。
「いつまで……ここは平和でしょうか。」
 促されついた席に座り、しばし沈黙を関羽と共有した後、均実はそうつぶやいた。
 戦を常に意識し、夫である劉備をいつも気遣う糜夫人が、戦のないここ荊州にやってきたのは、きっといいことに違いない。
 だが、誰もが言う。
 この平和も長くない。
 左将軍は荊州を乗っ取るだろう。
 あの時平和に見えた許都と、この襄陽がかぶるだけ余計にその不安は大きい。
 関羽がとまどったように顔をしかめているのが見え、均実は苦笑した。
 劉備の配下である彼への問いにしては、愚問でありすぎるのはわかっている。
「……冗談です。」
 そういって均実は微笑んだ。
 死の影がちらつくあの寝顔が、頭から離れない。
 きっともう彼女は長くない。
 そんな確信にも似た考えが、均実の心を住処にしていた。
 もし糜夫人が失われれば、劉備は嘆くのだろうか……。
 誰にも心の支えは必要だ。自分がここにいることを絶望しないのも、日本に帰ろうという目的があり、それを実行するための手段があるからである。
 亮にも妻として純がいるように……
「あ、そうだ。友人になんとか再会できたんです。」
「友人というと……あの許都での夢のか?」
 均実が純のことを思い出して突然話題を変えると、驚いたように関羽は言った。
「はい。その節はご迷惑をおかけしたんで、一応ご報告しときますね。」
 均実は少し気まずそうな顔をした。
 その表情すら愛おしく思いつつ、関羽は許都でのことを思い出していた。
 均実が見たという親友が死んでしまうという夢。夜中に飛び起きてしまうほどのその悪夢を見て均実が庭で泣いていた時、関羽は彼女が落ち着くまで側にいた。なだめるように、あやすように……どうかその涙を止めてほしくて。
 それが正夢とならなかったことには安心した。均実がその悪夢を見ることはもうないだろう。
 だがそれにしては……
 関羽は眉をしかめて、均実の顔を見つめた。
 何かが変わったように思える。さっきは痩せたから違和感を覚えたのだと思ったが、もっと違う根本的なところが変わった。
 以前より脆く頼りなげにみえる。
 形容しがたいその影に、心当たりがある関羽は何とも言えない。ただこう思った。
 まだ……何もかも背負い込もうとしているのか。
 薙刀を教えることを渋ったのは、均実が自分よりも周りを大切にしようと、何からも守ろうとしすぎるきらいがあるのを感じたからだ。だから守る手段すらなければ、守ることを諦めるのではないか。そう思ったのだ。
 しかし均実は守りたいものを守れなければ、自分まで破滅させるに違いない。ならば守るための手段が一つでも多いほうがいいだろう。
 徽煉に薙刀を教えるよう説得された時、結局折れたのはそう思ったからだ。
 こう徽煉には言われた。
『女は雲長様が思っておられるほど弱い生き物ではありませんよ。』
 そう、弱くなどない。
 守れないなら、諦める……という選択をしてくれるわけがない。薙刀を教えなかったことで、守れないものができたとしても、諦めるような弱さを均実はけして持っていない。
 強いからこそ弱い……か。
 関羽は均実を見つめたまま、そんなことを考えていた。
 どうか彼女が壊されるほどの問題が起こらねばいいが……
 均実は見つめられていることに居心地の悪さを感じているのか、少し身じろぎをすると笑みを浮かべて先を続けた。
「その娘、純ちゃんっていって、この前亮さんの奥方になったんですよ。」
 ………
 関羽の思考が一瞬止まった。
 諸葛亮……の奥方、つまり妻?
 以前均実が亮のことをどう思っているのかを、劉備の奥方達は推理して関羽に言ってきたことがある。
 話を聞いている限り、それは確定しているようではなさそうではあったが……
 その後均実は隆中に戻った。
 もちろん糜夫人の快方を祈りながら……

 数日後。均実に届いた徽煉からの書簡には、糜夫人の訃報が書かれていた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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