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均しき絆 作者:奇伊都

第12回   変わって…いない

 どうやら純は均実と話がしたくて仕方がなかったらしい。
 まあ一年もあっていなかった親友なのだ。それも当たり前だろう。
 一人になりたかったが、純もなれない環境で大変だろうし……と、均実が折れることにした。
 均実はそんな彼女に、この一年間どうしていたかを一から話すことになった。
 戦場になるであろう下邳という街に行き、それから関羽達と行動を共にして許都にむかい、一段落したので隆中に帰ってきた云々……
 日本にいては味わえない日々だったと、均実は思う。作者も思う。
「そんなことがあったんだ。私なんか一日中、書物に埋もれてたのに。」
 純は言った。
 この表現はけして大げさではなかった。
 兵法、つまり戦争の方法として有名な書物だけでも六韜・三略・遁甲といった全てを読み通した上で、何度も書写したりもした。簡単に三つ上げたが、一つ一つがそれなりの量があるし、全てもちろん漢文だ。均実はそれを聞いただけでも頭が痛くなりそうだったが、純がやったのは兵法だけではない。
「天文に地理、思想とか。後、政治についてもかなり勉強させられたなぁ。」
「……よく堪えれたね、純ちゃん。」
「ん、何度持ってる書物、燃やしてやろうと思ったか。」
 ひょうきんにそういう純をみて、均実は噴き出した。
「まあ小さいころに一度やってるからね。」
 まだこちらの世界にいた幼いころ、そういう厳しい教育を父である承彦から純がうけたことは聞いている。長い月日を日本で過ごす間に、ほぼ抜け落ちていたらしいが。
 日本での学校の成績はそれほどよくなかったのに、と思っていると純は笑った。
「下手にXとかYを弄くるより、よっぽど向いてるんだろうね。」
「そういえば特に数学苦手だったね。」
「見ただけで寒気が走ったよ。」
 本気で嫌そうにいう純は言った。
 向き不向きが人にはあるという実証例だろう。
 逆に圭樹に薦められたほぼ英和辞書ほどの厚さはある『三国志演義 上』を、純が一週間で読みきれたのも、この時代の書物に慣れていたせいかもしれない。
 そこで純はいたずらを思いついたかのような顔をした。
「そうだ、その傷見せてよ。」
「ちょ、ちょちょっと、純ちゃん!」
「……うわ、ほんとだ。縫ってある。」
 ほぼ脱がされるかのようにして、着物を剥がれた均実は慌てて止めようとしたが、純の行動は速かった。場所を説明するまえに、許都に行く途中にあった沛という町で負った傷痕を純は見つけた。
 驚きで純はそのまま固まった。
 浅いが刀傷で、周りに比べて色が黒く、縫ったあとは凸凹している。
 確かに傷があることにも驚いたが、純は違うことにも驚いていた。
 同じバレー部で部室で着替える時、均実の体をみることもあったが、あの時と比べてかなり痩せている。不必要な皮下脂肪が全て落ちたような印象だが、といってガリッとしているわけではなく、程よく筋肉が引き締まった体になっていた。
 薙刀をやっているとは聞いていたが、ここまで変わっているとは……。
「……純ちゃん。状況が違ってれば、間違いなく痴女だよ。」
 呆れたような声でそういわれ、純はやっと均実から離れた。
 顔をあげると、悠円はあさっての方向を向いているのがわかった。陽凛は目を見開いてこちらをみていた。だがその表情はどこかホッとしているようだ。小さくても確かにあった均実の胸をみて、均実が女であることが確信できたのだろう。
「ま、命があっただけ良かったよ。」
 純が自分の体を凝視していた理由が、傷痕が考えていたよりはっきり残っていたせいだと思った均実は着物を直しながら、困ったように笑みをみせる。
 純も均実の言葉に同意した。
 無事に終わったから話せるのだが、もしその場面にいたら怖くて仕方がないだろう。
 そう言うと、均実はすこし唸った。
 正直言うと、それほど沛で怖いとかは感じなかった。それはこの世界が三国志演義に沿って進んでいたので、本当に死んだりはしないだろうとタカをくくっていたからといえるのだが。
 とそう考えたとき、均実は思い出した。
「そうだ、純ちゃん。ここって三国志演義の舞台になった時代だよね。」
 根本的な質問である。こちらにきて数日で均実はそのことを自覚した。それならもともとこの世界の住人である純が、自覚していないわけがないだろう。
 そういうと、純はすこし考えてから頷いた。
「多分ね。確証はないけど、三国志演義にでてきた地名とかがあるし。史書……歴史のことね?を見ても、結構聞き覚えのあることが書いてあったりするから。」
 純は三国志演義を読んだ時、元いた世界だとは思わなかったが、なんとなく懐かしい気はしたらしい。
 肯定されて、均実は一度頷いた。やはりそのことは、自分の思いすごしとかではなかったらしい。
 ならば、と均実はずっと抱いていた疑問を聞いてみることにした。
「あのさ、その三国志演義にでてきた関羽の五関突破の話覚えてる?」
「うん。あ、ヒトが丁度読み終わったところだったよね。」
「さっき関羽と一緒に許都に行ったっていうのは、あそこらへんのことみたいなんだ。」
 眉間にしわを寄せ、純の眉が綺麗にハの字を描く。
 もう一年も前に読んだ物だからか、純は均実の一年間の話が三国志演義にでてきていた話とつながらなかったようだ。
「うそぉ…だってヒトは、別に三国志演義にでてきてなんかなかったでしょ?」
 どうも信じがたいようなので均実は、自分の経験と三国志演義との共通点を挙げた。
 曹操に攻められた関羽は、劉備の妻を守るために降服した。そして曹操の拠点、許都に向かう。許都でしばらく過ごした後、関羽は白馬の地で曹操とともに戦った。
 これらは共通していることだった。
「そういわれればそうかも……」
 しぶしぶながらも認めてきた純に、続けて均実は共通していないことを言った。 
 例えば沛で暴漢に襲われ均実が怪我をしたこと。これは三国志演義では書いていない事件だ。
「そっか。そうだね。そんな事件は読んだ覚えないや。」
「まあ、地位もないような人間一人が怪我したところで、書かないとは思うし、その沛でのことは、周りに秘密にしてあったからかもしれないけどさ。」
 色々事情があり、大事にならなかったから書かれていないという考えでも、通ることは通るのだが……。
「でもその後なんだ。問題は」
「何?」
「許都に行ってから、関羽は袁紹対曹操の戦に出陣することになった。これは合ってるんだけど、その後の五関突破。五つも関所を突破なんかしなかったんだ。」
 小さな検問所のようなところはあったが、関所なんてものはなく、その検問所にしても特に問題なく通ることができた。
 それにそんな五つもの関所を、関羽一人で夫人らを守って突破できるほど余裕があったとは思えない。大きな問題がなかったからこそ古城まで無事についたが、そんな大立ち回りを演じられるほど関羽はきっちり休憩をとってなどいなかった。
 三国志演義どおりの展開になっていたら、きっと彼は過労で倒れたに違いない。
 均実の考察付きでそう説明すると、純は感心したように頷いた。
「そうなんだ。」
 そういわれれば、現実的にはありえなさそうな話だ。いくら後の世で神様にまでなっている関羽といえど、そんな悪条件下での無理難題は果たせないだろう。
 そこまで言っても一向に均実の考えを理解しない純に、均実ははっきりいった。
「だから…つまり、歴史が変わってきてるんじゃないかってことなんだけど。」
「へ?」
 なんとも間抜けな声をだし、純は均実の顔をみた。
 突然の言葉に純は意味が理解できなかったのだ。
 だがそんな純の様子に、均実はすぐに言葉を継いだ。
「へ? じゃなくてさ。真面目な話。
 私の怪我なんて小さな事件だから、三国志演義に書かれてなくてもおかしくないけどさ、そんな五関突破なんて大事件がなくなっちゃったなんておかしくない?
 こうなるとさ。歴史が変わっちゃったんじゃないかって思うほうが、自然でしょ?
 でも……こんなことってありえるのかな…?」
 均実は結構このことを必死で考えていた。もしかすると自分がこの世界にきたせいで、歴史が変わったのではないかとさえ。
 だが純はやはり真剣そうな顔にならず、ぽりぽりと頭をかいた。
「あのさぁヒト。何だか大前提が間違ってるみたいだね。」
「え?」
 今度は純の言葉の意味がわからず、均実が間抜けな声をだした。
「三国志演義って本当に起こったこと、書いてるわけじゃないんだよ?」
 はい?
 均実は一瞬耳を疑った。
「え、え、だってほら実際に関羽も曹操に降服したし……」
「あのねぇヒト……圭くんの話聞いてなかったの?」
「え?」
 純から圭樹の名前がでるとは思っていなかったので、均実は思わず聞き返した。
 何の感慨もないように純は繰り返す。
「図書館で圭くんが言ってた事……ってまあ一年前だしね。覚えてないか。」
「……なんて言ってたっけ?」
 別に圭樹の名前をだすことが、純にとっては苦痛ではなさそうである。それをみて、均実は心の水面が波立ったように感じたが、それはよい事のはずだと思い、心を落ち着けてから尋ねた。
 一瞬の沈黙に気付かなかったようで、純は楽しそうにいう。普段均実が教える立場なので、逆転しているこの状況が嬉しいのだろう。
「三国志演義っていうのは、もともとは『三国志』っていう歴史書にかかれたことを、後の時代の人が面白くて読みやすい物語風に書き換えたもの、っていってたよ。
 つまりね面白く脚色してる部分が、かなりあるんだって。」
 純の言葉に均実は数秒考え込んだ。
 脚色……それは自分の許都での噂や、純の容貌に対しての噂などに用いられたもので、ないモノをあると言い切ってしまう恐ろしい人間の能力。似た意味で、でっちあげという言葉もある。
 三国志演義を書いた人は、関羽と共に許都から古城にむかった人であるわけがない。ので五関突破のシーンでは、その能力がきっとふんだんに使われたに違いない。
「……つまり三国志演義に書かれたことが起こらなかったとしても、歴史が変わったというわけじゃないってこと?」
 純の言った言葉を自分の疑問の答えになるように、おきかえるように均実は言った。
「そうとも言えるね。だって別に五関突破しなくても、関羽は劉備に会えたんでしょ?
 大筋は変わってないじゃない。ということは歴史が変わったわけじゃないんでしょうね。」
 純のその言葉を聞き、均実はフニャフニャフニャァと机に突っ伏した。
 一気に力がぬけた気がする。
 冷たい机の面に頬をあて、息を吐き出しながら言う。
「なんだぁ、本気で心配していたのに……」
「ヒトったら冷静そうで、どっか抜けてるんだから。」
 そう純は言うが、前作から延々と心配し続けていたのだから、均実の脱力は仕方がないだろう。
 関羽自身にまで、直接このことについてではないが相談したのだ。
「だいたい三国志演義に載ってたとか考えること自体……」
 純がさらに言い募ろうとしたとき、言葉をとめた。
 奇妙に思って均実は顔を上げる。
「純ちゃん? どうしたの?」
 均実の呼びかけにも反応しないで、純は顔をしかめていく。
 そのまま大きく息を吸ってから、吐いた。
「……ヒト。『孔明』って亮の字よね。」
「今頃、気付いたのか。私、最初に聞いたとき、三国志演義にでてくる名前だってすぐわかったよ。」
 そうなのである。
 均実が読んだところまでの三国志演義では、孔明という名前はでてこなかったが、純と圭樹の話でその後に出てくることは知っていた。諸葛亮孔明が、劉備という将の下につくことも。
 純は口をおさえたままで、言葉を発する。すこしくぐもった感じできこえるのが、認めたくないような気持ちを表している気がする。
「この世界が三国志演義の時代だとしても、私には直接関係ないことだと思ってた…。」
 だから今まで亮が諸葛亮孔明であることに気付かなかったのだ。
 この時代を生きる大多数の人間は確かに、あれに書かれていた戦争や謀略は無関係だろう。
 均実の冒険など特殊な例だ。
 だが諸葛亮孔明のもとに嫁いできたかぎりは、純も無関係ですまなさそうだ。
 純的にはかなりショックな事実から、彼女が立ち直ってきたのを均実は確認してから話を続けた。
「ねぇ純ちゃん。このあとって三国志演義ではどうなってるの?」
 完璧にそれに沿うわけではないのだとわかっているが、だが大筋は変わらないというのなら聞いておいて損はない。
 純はう〜んと唸った。
「これから……劉備は荊州にくるはずでしょ?」
「うん。それは前にも聞いた。」
 こちらの世界に来る前に、均実がすでにわかっていたことの最後のことだ。
「そうだなぁ……私たちに関係あるとしたら『三顧の礼』かな?」
「『三顧の礼』って?」
「劉備がかわいそうな話。」
「は?」
 均実はその単語の意味がわからず、説明を純に請うた。が純の説明はかなり主観がはいったものなので、代わりに作者が説明しておこう。
 『三顧の礼』とは劉備が諸葛孔明を配下にと望んで、孔明の住む屋敷に三度通ったという三国志演義の中にある話だ。なぜ三度も通ったかというと、二度とも孔明が出かけていて会えなかったからだった。三度目にしてようやく会えたのだが、孔明はその時昼寝をしていて劉備になかなか気付かない、という劉備の忍耐の話ともいえるだろう。
 もちろん均実は、そのことが書いてあるところまで三国志演義を読んでいないため、知らなかったのである。
「じゃあそのときに亮さんは、劉備に仕えることを決めるんだ。」
「ん〜……、その前に単福っていう人が劉備に仕えるんだけど……」
 とそこまで言って純は口を閉じた。
 しばらくそのままかたまっていたが、どこか呆けたような顔をして均実を見た。
「誰それ?」
 聞いたことない名前だ。
 だが純はその反応に笑った。
「ヒトも知っている人だよ。」
「……知らないよ、そんな人。」
 こちらの世界に来て確かにたくさんの人にあったが、そんな名前の人にあった覚えはない。
「じゃあヒント。本の通りなら、その人が劉備に亮のことを紹介するはずなんだ。」
「……誰?」
 ヒントになっていない。
 均実が不服そうにいうと、純はまた笑った。
「教えちゃったら面白くないじゃない。」
 答えてくれるつもりはないらしい。
 自分の知らない、亮の友人だろうか?
「本の通りか……」
 追究をあきらめるため息とともに、均実はそうつぶやいた。
 それは均実がこの一年よく思ったことだ。
 三国志演義は脚色されているために詳細に欠けるが、それの大筋が変わっていないというのは、歴史通りともいえるのだろう。
 歴史の中に……私が日本に帰る方法があるのかな……。
 何か答えがでそうで、出ない。早く一人で考え込みたい。
 それなのになかなか帰ろうとしない純は、時々こうやって、話すことを約束させてからようやく部屋から出て行った。去り際に純から何か耳打ちされていた悠円にもさがってくれるように頼むと、やっと一人になれた。
 だがやはり答えに行き着くことができず、そして何かのどの奥でつっかえているような息苦しさを感じる。
 この日一番大きなため息の音と共に、均実は目をとじた。



 ここの見晴らしはいいほうだろう。
 視界をさえぎるようなものは、自分達が姿を隠している木ぐらいだ。それ以外は皆少なくとも三メートルは遠くにある。
 息をひそめる。ターゲットはこちらに気づいていない。ここまで近づいているのに、気付かないとは思わなかったが、それはそれ。
 目で合図をして、相棒は待たせておく。彼がいてはばれてしまう可能性が高い。
 より近づくと棒が地面に転がっているのがわかった。相棒に落ちていた棒を見せるように持ち上げると、彼は頷いた。
 どうやら見た覚えがあるものらしい。
 それを確認してから、再び歩みだす。
 辺りの柔らかな草は足音を消してくれていた。
 ターゲットはこちらに背をむけ、地面に座り込んでいる。
 あたりを警戒しているようすはない。
 このままいけば、目標地点まで気づかれず到達できるだろう。
 音を立てないように息を吸った。
 あと四歩。
 あと三歩。
 あと二歩。
 あと一歩。
 ……今だ!
「すきありぃっ!」
「うわっ!」
 声の主を確認すらせず、気配だけで横に転がった均実の判断は見事だった。
 渾身の力で振り下ろした棒は、そのためにターゲットには当たらず地面をたたいた。
「ちっ、外したか。」
「ちっ、って何やってんですか、庶さんっ!」
「何って均実殿をぶったたこうと思っただけだ。」
 悪気はまったくなく、庶は持っていた薙刀の練習用の棒を自分の肩に立てかけた。
「何でぶったたこうとか思うんですかっ、今本気だったでしょう? 下手したら大怪我じゃないですか。」
 地面に転がったままこちらを呆れたような顔でみてくる均実に、庶は持っていた棒をむけた。
「手ごろな棒がそこに落ちていたから、つい。」
 均実はその棒から気まずそうに目をそらした。それは均実が使っている薙刀の練習用の棒だった。
 ここには均実は薙刀の練習をしにきていたのだ。
 なのにその棒を放り出して、人の気配に気付かないほど、ぼーっと座っているのはおかしいだろう。
「……ちょっと休憩していただけです。」
「にしては長かったな。」
「…いつから見てたんですか。」
「さてな。」
 庶が口元に笑みを浮かべたのをみて、均実はため息をついた。
 本当に長い間庶が座り込んでいる均実を見ていたかどうかはわからないが、そういわれれば長い間、座っていたような気がする。
「悠円、出てきていいぞ。」
 庶はそう言って、木の陰に隠れていた悠円を手招きした。
 均実がいつも、薙刀の練習場にしているここを庶は知らなかったはずだ。教えたのは、悠円なのだろう。
 庶はけして軽いわけではない棒をくるくる回しながら、三歩歩いた。
「一応幼いころ、剣を習っていたからな。」
 目を見張っている均実にあっさりそう言うと、ピタリと棒の動きをブレもせずにとめた。思ったより筋力がある証拠だろう。
「潁川にいたころですか?」
「まあな。」
 彼は結局母を潁川に残したままで帰ってきた。徐康という弟が世話をしているのだが、その弟もいまだどこにも仕官していない。なら戦争からもより遠い、隆中にこないかと誘ったのだが、やんわり断られたらしい。
 仕方がないから諦めようかと思っている、と亮に話しているのを均実は聞いていた。
 気が済んだのか、庶は棒を均実に返した。
「何か私に用でもあったんですか?」
 悠円にわざわざ自分の居場所を聞いてまで、庶がここにくる理由は思いつかない。
 頭をかいて、均実の側に庶も座り込んだ。
「用は悠円に聞いてくれ。」
 意味がわからず均実が悠円をみると、おずおずと彼は発言した。
「……均実様、元気ないから。襄陽に先生と行ってからだけど、最近もっとひどくなったよね?」
 悠円のその言葉に均実は目を見張る。
 誤魔化せたと思っていたが、やはり変に思っていたらしい。
「僕が子供だから話せないなら、元直先生になら相談できるかなって……。」
 悠円にとって、均実は優しいお姉さんだった。
 確かに女であることを隠したり、ときどき日本にいたときの習慣なのか、妙なこともする。
 だがこちらにきてから細々とした世話をする悠円に、必ず礼をいってくれた。大した問いではないのに答えると、悠円は凄いと誉めてくれた。笑ってくれて、頭を撫でてくれた。家人に自分の世話をやらせて当然という、亮の弟という立場なのに、そんな風な態度をとったことは一度もなかった。
 それに何より、まるで自分のことを弟のように親しんでくれた。
 だから悠円は均実のことが大好きだった。
 だが均実は悠円にはけして何を考え込んでいるのかは、教えなかった。それは無意味な心配をかけたくなかったからだが……
「悠円。ありがとう。」
 結局、心配をさせてしまっていたのだろう。
 悠円には言っておくべきだったのかもしれない。自分の普段の様子を一番間近でみているのだから、均実の様子の変化にはすぐ気付く人間であるのは当然だった。
「孔明の奥方は、均実殿の日本での友人だったのだろう? 悠円から相談をうけて、それ関連だろうと思ったから、均実殿が屋敷にいない今を狙ってきたんだ。」
 庶の推理は当たっている。
 この二人は均実が女であることを秘密にしてくれている。口の堅さは折り紙つきだろう。秘密にすることを頼めば、亮や純の耳にはいる恐れはなさそうだ。
 均実は『門』の話をした。
 その方法では日本に帰ることはできないことも。
 もう一人で考えるのは疲れていた。だから素直に話したのかもしれない。
 二人にとっては信じがたい話だったようだが、それは均実も同じだ。だが実際その『門』を通って均実や純はこちらの世界にきているのだから、否定のしようがない。
 均実の話を理解しようと黙り込んだ二人に、均実は背を向け立ち上がった。
 空をみあげた。白い雲がいくつかまとまっては、青の中を流れていく。
 昼間の空は日本とさして変わりないように見えるのに、何故夜になるとあれだけ星がでるのだろうか。
 星空……といえば一年前、亮と話したあの夜を思い出す。
 あのとき「亮より先にけして死なない」と約束したのは、均実なのか、均なのか。
 自分が誰なのか、自信がない。辻本均実は本来この世界にいない。ここにいるのは諸葛均。だが均は本当は死んでいるのだ。
 自分が死者であるような、存在が極めてあやふやなもののような気がした。
 亮にはもう純がいる。守るべき対象は、弟の自分ではなく、妻である純になっただろう。ならば、守るべき対象を失いたくないという、亮の想いから発せられたであろうあの約束は、本当に交わしたのかどうかすら確かに思えなくなっていた。
 それでも亮にこれ以上心労をかけたくなかった。
 その理由は……
「均実様って、どうしてそんなに先生に気をつかうの?」
 悠円は均実の背中にそう声をかけた。
 均実が日本に帰りたがっていることもよくわかった。
 それなのに帰れない理由に、亮への気遣いがあることも。
 世話になった恩返しをしたいと、均実が考えているのも知っている。だがもともと均実と亮は赤の他人だ。ここまで強く気を使うだろうか。
 どこまでも真っ直ぐなその問いに、均実はある種の心地よさを感じた。
 ここまで話しておいて、黙秘をするわけにはいかないだろう。それにこの数日のドロドロと不毛に繰り返された考えを、全て吐き出してしまいたかった。
「似てる、からかな。」
 均実はそう言って地面に寝転がった。
 目に映る空は空。あちらでも、こちらでも。ただすこし違うところがあるだけ。
「均実殿と均がか?」
 庶はそんな均実にそう問いかけた。
「……庶さん、怒りませんか?」
 返答になっていない答えの意味を庶は理解できず、何も返してはこない。
 均実は空に向かって手をかざした。
「話しても怒らないと約束してくれますか?」
「……約束しないとしゃべるつもりはなさそうだな。」
 庶はそういうと、了承の意味をこめて頷く。
 均実は拳を額に落とした。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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