数週間後、純は亮の屋敷に引っ越してきた。 色々な都合の下、延び延びになりつつもようやくこぎつけられて、承彦はほっとしていたようだ。 引越しというか、まあ輿入れというやつだろう。当日は結婚専用の軒にのって、屋敷までやってきた。 宴は小さなものが開かれたが、それほど大騒ぎはしない。酒を飲んでバカ騒ぎするやからも居なければ、ケーキ入刀ももちろんなかった。まるで屋敷に純が遊びにきたから、食事会でも開いたというような感じだった。 それもつつがなく終わり、何事もなかったかのように日常が再会した。 結婚の前と後で変わったことなど、純が家にやってきたことぐらいだ。 自分仕えの侍女として、純は陽凛も一緒に連れてきていた。他にもそういったふうに家人がすこし増え、屋敷はにぎやかになっていたが、そんなことは均実にとってどうでもいいことである。 均実も変わらずに毎日畑にでていた。薙刀の練習もかかすことはなかったし、亮の友人たちと話をしたりもする。徳操の塾に行っては勉強もしていた。 特に面白いことがあったとすれば、徐庶や崔州平は純に会うと、とりあえず平謝りで謝ったことぐらいだ。あの黄綬=醜女という噂は、純が家人にすら滅多に顔を見せなかった(日本に行っていたのだから見せれないだろうが)ために起こったものだったのだろう。 何も変わりはしない。 やはり鬱々と考え込むことも変わらなかった。 日本を諦めることはできない、だが帰れない。 繰り返される考えを、それでもやめることはできなかった。 そうやって今日も畑から帰ってきて部屋で考え込んでいると、純が尋ねてきた。 「ヒト? 今いい?」 ヒョコリと入り口から中を覗き込むようにして、純は聞いてきた。 均実は一瞬誰がきたのかと思った。 「……ん? あれ? 何でここまで出て来てるの?」 純はこの世界ではお姫様……は言い過ぎでも、名家のお嬢様だ。現在も、諸葛家という一応名家の奥さん。そういう人は基本的には出歩いたりしない。よって畑にでたり、塾に行ったりと何かと外出しまくっている均実は、純を久しぶりにみた。 家事をしている家人達を見回ったりして、純は時折屋敷内は歩き回ったりしているらしい。だが均実がいる離れにまでくることは今までなかった。 いや、来たとしても均実がいなかったのかもしれない。 「来ちゃ駄目だった?」 「そういうわけじゃないけど……」 「せっかく同じ家にいるのに、輿入れの日からほとんど顔を合わせてなかったでしょ?」 「……そうだったね。」 来てはいけないわけではないが、できれば会うのを控えておきたかったのは事実だった。意図的に避けるつもりはなかったが、実際均実はあまり屋敷にはいなかった。 彼女の見る『門』で日本に帰りたいとは言えない上に、一緒にいては嫌でも日本への思いが募る。 均実の微妙な物言いに気付かず、胸に綺麗な布の小さな包みを抱いて、純は部屋の中に入ってきた。後ろから陽凛もついてきている。 控えていた悠円が、慌てて純の席を用意する。 それを待ちきれないように、純は均実に話しかけた。 「それにしても久しぶりだよね。」 「え……うん。」 「ヒトと再会してから、すぐに輿入れっていわれてたのに、準備が長引いちゃったもんね。こっちに来てからも会う機会って思ったよりなかったし。」 均実は肩をすくめた。 用意された席に座ると、純は均実の姿をじっと見た。 そろそろ暖かくなってきていて、着物も薄物に変わり始めていた。最初のころは戸惑ったこちらの服装も、いい加減慣れてきていた。今日着ているのは柔らかな生成りの色の上下で、長くなった髪も上に上げ布で結んである。こちらの世界では、特に変わった服装ではない。 頭から足先までじっくりと降りてくるその視線を、均実は不可解に思った。 「何?」 「う〜ん、前も思ったけど、ヒトの男装って結構似合うよね。女の子なのにさ。」 「純ちゃんっ」 均実が今この部屋に家人としては悠円と陽凛しかいないことを、慌てて確認すると、疲れたような声をだした。 「うん? 何?」 まったく悪気がない。そこが純の性質の悪いところでもある。 そんな軽くポロリとこぼさないでほしい。 何故かを聞かれたので、均実はため息をつく。 「陽凛は知ってるから、問題ないでしょ?」 教えてやがったのか、このアマ。 まあそうでなければ、純が仮にも年が同じ男の(と思われている)均実のところにくるのを、陽凛が許可するわけがないのかもしれない。新婚早々、浮気をさせたくはないだろう。 日本でのことを話していたというから、まあ均実と出会う前にすでに陽凛は知っていたのかもしれないが。 今回はここにいたのが悠円と陽凛だけだったのが、不幸中の幸いだった。 頭痛を覚えつつ、均実は口を開いた。 「せめて小声で言ってよ。そんな声でいったら、私のことを男だと思ってる家人の耳にもはいるかもしれないでしょ? ここでは悠円と庶さん以外は、私のこと男だと思ってるんだから。」 「庶さん? あ、そっかそっか、元直殿のことね。」 平謝りされたときに、純は一度徐庶と会っている。 それを思い出したのだろう。 「というか悠円はヒトの身の回りの世話をしてるからわかるけど、何で元直殿は知ってるの?」 「成り行きっ! とにかく今みたいに普通の会話の大きさの声で言わないでよね……」 庶にはいの一番にばれたのだ。まあばれた時は、男として振舞おうと思っていなかったから、ばれるのも当然だったのかもしれない。 それを一々説明するのも面倒に感じたので、均実はそう言った。 「わかった。亮に対してだけじゃないんだね。ごめん。」 不思議そうな顔をしたが、すぐに舌を出してそういう純から、均実は口をつぐみ、顔をそらした。 それを怪訝に純は感じたようだ。 「ヒト? どうしたの? 私、亮以外にも言わないって約束するよ?」 亮……か。 その呼び方に均実は、心の中だけで笑った。 純は本当に幸せそうだった。嫁いできて数日はぎこちなくしていたが、今では亮とも仲良くしているようだし、何ら問題もない仲の良い夫婦。ときおり亮と共に談笑している純の声は、部屋にいた均実にも届いていた。 幸せになってくれた。 だがそれを願ったはずなのに、それが嬉しいはずなのに。心の中に何かモヤモヤがあるのを均実は感じていた。 それはきっと日本へ帰りたいということを、一番日本へのつながりがある純にいえないからに違いないだろう。 体調が悪いのかと純が言うので、均実は許都にいたころ発明?した『扇風機もどき』のことを話し、新しい工作物の構想を練っているのだといった。 もちろん口からのでまかせである。別に何も作ろうとは思っていない。 だがその話を聞き、純は顔を輝かせた。 「ちょうどいい。ならさ。これ、使えない?」 そういって持ってきていた包みにおき、その結び目を解いた。 均実はそこに現れた物質の一つが、この世界ではありえないものであることに息をのんだ。つるつるとした表面に、鈍い光沢。形を変えるたびにクシャと音がたつ。 「ビニール袋?」 そう、それは買い物したらついてくる白い袋。日本にいたころは一週間に一回は、どこかで必ず目撃したものだ。緑色のインクで印字されていたようだが、すでにほとんど剥がれてしまっていて、何と書いてあるかはわからない。 純は袋の中に手を突っ込むと、そこからいくつもの品をとりだした。 「えへへ、懐かしいでしょ。前、実家に来てくれたときは、かなり厳重に隠してたからすぐ取り出せなくて見せれなかったんだけど、絶対ヒトに見せようと思ってたんだ。」 今まで忘れてたんだけどね、と純は笑った。……忘れるなよ。 こちらの世界にないもの、つまり日本の物を純がもっているのを見れば、承彦はきっと取り上げていただろう。だから隠していたらしい。ときおり日本をこれらを取り出しては、日本を思い出していたのだという。 次々と目の前にならぶのを、均実は口をポカンと開けて見ていた。 小型のカッターナイフ、ボールペン、セロハンテープ。それと小さなメモ帳。どれも新品だった。 その横にはどこかで見たことがある明るい革の財布と携帯。純のものだ。 「……これって、どうしたの?」 「ヒト。私こっちにくる直前、コンビニで買い物してたでしょ?」 そういわれ、ヒトは一年前のことを思い出す。 朝練のランニングの道を変更してまで買いたいものがあると、コンビニに寄らされたのだ。その後にこちらに来てしまったのだから、そのときの買い物の分を純が持っていてもおかしくはないだろう。 「あの時ね。これ買ってたんだ。 実はお菓子も買っていたんだけど……食べちゃった。ね?」 陽凛に笑いかけるようにして純は言った。陽凛も笑って頷く。 「変わった味でしたが、とても美味で……」 この時代、甘味料は貴重である。何の菓子を買ったかは知らないが、おそらくこの世界にはないものに違いない。 「だから残ってないの。ごめんね。」 純がそう言って笑った。 ……まあ食べてなくても、賞味期限が来てるだろう。 均実も苦笑した。 残っているのは、日本では珍しくもないただの筆記用具だ。だが均実は日本を感じさせるものを久しぶりにみた気がした。 自分がもっている日本から持ってきたものは、あのとき着ていたジャージと、今も二の腕につけているGショックだけだ。しかもジャージは破れていたりするから、こちらで一回もきたことはない。 携帯のほうに手を伸ばすと、純が笑った。 「さすがに充電切れてるよ?」 確かに折りたたみ式のそれを開くと、画面は真っ暗なままだ。 「……電池あっても、電話局もないし、使えないだろうね。」 この文明の利器が時間を越えて、日本につながるとも思えない。 財布の中身も、学生証にいくらかの紙幣と硬貨だけ。もちろんこの世界では使えない。 「使えるとしたら、この文房具類かなぁ……」 「ね? 何かに使えそうでしょ?」 「う〜ん……? 一応預かっといてもいい?」 「うん! どうせ私は使わないし、全部持ってていいよ。」 純はそれらをビニール袋にもどし始めた。 携帯と財布なんて日本では必須アイテムだ。本当にもう帰る気はないんだな……。 思い切りのいいその言葉と行動に、均実が小さくため息をついたことに、純は気付かなかったようだった。
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