すっかり雪も解け、少しぬかるんでいる田んぼのあぜ道を歩きながら、青年は自分の耕した畑を見回した。 今年はそれほど寒さも厳しくなかったので、うまい春野菜ができるだろう。 独りごちて満足そうに頷く青年は年は二十の眉目秀麗。鼻筋の通った顔立ちは近くの村に下りるたびに若い娘達の噂の的になっていた。背も高く、同年代の友人とは服の丈が子供と大人の違いぐらいあった。 いや、あれは除庶の体が小さいからか。 青年は友人と背の高さを比べたとき、その違いを指摘されて憤慨していた友人を思い出しながら、顔に笑みを浮かべた。 その表情を盗み見ていた村娘数人が嬌声をあげていたなど、青年には知らぬことだった。 と、畑を出たところから手を振っている小さな人影があった。 青年はその人影が自分の家に奉公に来ている少年であることを認めた。 「悠円。どうしたんだい、そんなに焦って。」 手を振りかえそうとして、少年が必死な形相をしているのに気付いてそう声をかけた。 「先生!大変、大変!」 悠円は動転しているように見える。 急ぎ駆け寄ると、少年の肩に両手をおいてしゃがみこみ、目線を合わせた。 「落ち着きなさい。……熊でも出たのかい?」 自分が畑仕事をしている間、悠円は山に入って春の山菜を探すと言っていた。それなのに山菜をいれる籠ももっていない。 冬眠から寝ぼけて目覚めた熊が、人の住む近くにまで下りてきてそれに悠円が出会ったという推理がこの慌てようからみて、一番簡単に推理できる状況だった。 だが悠円はぶんぶんと首がとれそうな勢いで首を横に振った。 そして肩におかれた青年の手の手首を掴み、ぐいぐいとひっぱった。 「おいおい、悠円。いったい何があったんだい?」 「ドンて音がなってっ、というか目の前をバキバキーって」 要領を得ない擬音が言葉の中に連続して、青年は訳がわからない。とりあえず熊ではないらしいが、この極度の興奮状態にある悠円から詳しい話をきくのは無理そうだった。 青年は説明は諦めてしかたがなく、悠円にひかれるがまま歩き出した。 かなり急いで屋敷への道を戻っていく。少し山に埋もれるかのような場所に居を構えているために、いつもこの道を徒歩で戻るときは汗を拭きつつ行くのだが、今日はそんな余裕はない。 そうしばらく歩いたあと、悠円は少し落ち着いたらしい。 「おいら、先生がお出かけになったあと、部屋を片付けて山に入ったんだ。」 順序だてて説明するよういうと、いまだぐいぐいと青年をひっぱりながらしゃべりだした。道を途中までいったところで道端の藪を掻き分けて進み始めた。 足元は悠円が慣れた様子で小枝などを取り除いてくれるが、やはり頭の上にまで気は回らないらしい。青年は自分の顔の高さの蔦を取り払いながら、悠円の話に耳を傾けていた。 「持ってった籠が半分ぐらい埋まったぐらいになって、木に登ったら少し高い崖の上にうまそうな山菜がいっぱい生えてたのが見えて、それでちょっと遠回りしてその崖に上ることにして……あ、あの別に木に登ってたのは遊んでたわけじゃなくて」 「それで崖に上ることにしてどうしたんだい?」 話がそれそうになったのを感じて青年は、悠円の話の軌道を修正した。 以前、悠円は木に登って遊んでいるうちに時間を忘れ、かなり暗くなってから戻ってきたのを青年は叱ったことがあった。その弁解をしようとしたのだろう。 だが今はそんなことを聞いているのではない。 悠円もそれがわかったのか、話を元にもどした。 「えと、崖に沿って登れそうなところ歩いているうちに、凄い音がして、おいら、なんだろうって思って音のしたほうに行ったんだ。そしたら……あっ」 悠円はそこで青年の手を離して、まっすぐ走り出した。 目の前は小さいが緩やかな坂になっている。悠円はモノともせず走りあがると坂の頂上で立ち止まった。 「あれ……?いない……」 青年が追って坂を上りきると、足元に山菜がはいった籠が転がっていた。 だがそんな物に目も止めず、悠円はあたりを見回している。 「音のほうに行ってどうしたんだい?」 いい加減苛立ちながら、根気強く話の続きを促すと、悠円は振り返った。 「ここについたんだけど、何も無いなぁと思って引き返そうとしたら、上から人が振ってきたんだ。」 言いながら周りをまだきょろきょろを見回している。 「人が?」 「本当だよ!枝がその時何本も一緒に折れたから、バキバキってすごい音したんだから。」 青年が悠円の話に疑わしそうに眉を寄せると、悠円は勢い良くそう言い添えた。 確かに悠円の目の前には、いくつもの枝が折れて落ちている。中には悠円のような少年では折れそうにないほど太い枝もあり、青年が上を見上げると、そこだけ木々の枝がなかった。 いたずらのための小細工にしては細かい。 「ふむ……。確かに上から何かが落ちてきたのは確かなようだな。」 「だから人がっ」 「人だというなら、その人はどこに行ったんだ?」 枝の散らばった箇所にしゃがみこみながら青年はそうつぶやいた。 悠円はごにょごにょと口の中で何事か言った。 彼にもわからないのだろう。 別に今のは悠円に向かっていったわけではないのだが…… 青年は苦笑をしながら、立ち上がった。 「あの……先生?」 青年が黙って歩いていくのを、いたずらだと思って怒っているのだと勘違いした悠円は恐る恐るついていく。 ここに来たのとは逆に今度は青年が先頭を歩き、藪を払いながらじっと地面に目を落としたままで黙って歩いていた。 「あのっ」 「しっ静かに。」 沈黙に耐え切れなくなった悠円が話しかけようとすると青年はそういって、耳をすました。しゃがみこみ、地面とすぐ横に生えている木の表面を見るとその木に沿って少し歩くと、足を止めた。 「悠円。君が見たっていうのはこの人かい?」 その言葉に慌てて、青年の後ろから飛び出そうと悠円が動くと青年が止めた。 「ここは結構急な崖になっている。下手に動くと落ちるぞ。」 「あ、あの人で間違いないけど、何でこんなところに……」 悠円は青年の足につかまったまま、目の前の崖を覗き込むと結構な高さがあり、その崖下にはさっき見た人間が倒れていた。 「奇妙な衣を着てるな……ここで待っていてくれ。」 青年は悠円を崖上に残したまま崖から飛び降りた。 悠円からみれば、高さのある崖であったとしても二十歳の、しかも背の高い青年が降りてみれば、胸より少し低いぐらいの落差だった。 奇妙な衣といったが、デザインどころか布地からしてみたことない。所々破れている。おそらく悠円が見つけた場所から歩いて動いているうちにこの崖に落ちて気を失ったのだろう。 青年は倒れている人間のそばに座ると、とりあえず息をしているか口に耳を近づけた。 「……一応、生きてはいるようだな。……足をけがしている。」 呼吸を確認すると、全身のケガの有無をみたが、ざっとみて右足がはれ上がっているのがわかった。 青年は自分の衣をためらいも無く破ると、とりあえず右足を固定した。 他には目立った外傷は見当たらないが、少し息が荒い。熱でもあるのかもしれない。 「先生、その人どうするの?」 「ここに放っておくわけにもいくまい。」 青年はその人間を抱き上げた。薄汚れた顔を見ておそらく十三、四といったところか、と見当をつけた。青年より背は低いが同世代と比べれば、かなり高いほうに入るだろうと思われた。 そう思ったとき、青年は一瞬顔をゆがめた。 「先生?」 怪訝そうな声がして青年は我に戻った。 「なんでもない……とにかく家に連れ帰ろう。」 青年は崖の上にいる少年に声をかけた。
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