朝、進軍を始め、まもなく白馬についた。 関羽は兵をまとめ、張遼と徐晃に合流すると、まずは相手の陣をみた。 すでに具足をつけ、義兄劉備にもらった深緑の陣羽織を着込んでいる。手には青竜偃月刀を携え、すぐにでも戦場にでむけるような格好だ。 白馬につくまでは散々張遼は関羽を質問攻めにしたのだが、さすがに戦場だからか、もう張遼が関羽をからかうことはなかった。 「大軍だな。」 「確かに。だがそれでも袁紹はいないようですね。どこにも旗がたっていない。」 関羽の感想に徐晃は冷静な観察もくわえた。 黄河からすこし離れた地点で、袁紹軍は陣をはっている。その兵数は多い。 すこし高いところに陣をとっていた先陣に合流し、見下すと報告どおりの軍容だった。 だが徐晃の意見も本当のことだ。将がいるのなら己の旗を陣にかかげるのが普通だが、袁紹のそれはない。 「これは本陣ではない、ということか?」 「よっぽどその顔良という将が信頼されているんだな。ほらあそこに顔の旗がある。」 張遼の指摘をうけ、彼が指す方を見ると確かに顔と描かれた旗が風になびいている。 後ろからの視線を感じ、関羽は振り返る。 蔡陽だった。 「蔡将軍。お久しぶりです。沛以来ですか?」 「ええ、そうなります。この度はわしが不甲斐ないばかりに、関将軍にお手数をわずらわすことになりまして、本当に申し訳ない。」 沛での事件のことを匂わしたのだが、蔡陽はその無表情をかえずに返した。 関羽は気に食わないとばかりに鼻を鳴らしたが、それにも蔡陽は何もいわなかった。 「それで関将軍はどう攻めるおつもりですか?」 蔡陽はすっと前にすすみ、敵陣を見下ろして言った。 彼は何日も前からここに陣を止めて、何度も攻めている。それでも攻め落とせなかった。 その姿を胡散臭そうに関羽はみたが、敵陣を並んで見下ろすことにした。 「陣形としては特に変わったものではないようだな。」 「ええ、広がりすぎず、まとまり過ぎず。攻めることは簡単なのですが、落とせない。」 「それが顔良とやらのせいか。」 関羽の言葉に蔡陽は無言で肯定した。 関羽が今敵陣の様子をうかがっているのは、蔡陽の進言を曹操が聞き入れ、関羽にこの陣を落とすことを命じたからだった。 顔良という武将がこの陣の責任者らしい。かなりの武勇を誇る将のようで、蔡陽がなんど攻めても彼が陣を建て直したという。 この将を斬る事ができるのは関羽だけだろう、と蔡陽はいったらしい。 うまく兵を使う将というのは、戦場では兵力を補うといわれる。 ただでさえこちらは兵の数が少ないというのに、そのような将がいるというのなら攻めにくいのは確かだろう。 「ならば話は簡単だ。一点を攻めればよい。」 関羽は張遼と徐晃に陣である一点を指し示した。 「ここを両将軍で崩していただき、顔良への道を開いていただければ、わしが彼の者を斬ってみせよう。 将を斬れば兵は浮き足立つ。特にこのような平凡な陣では、守りようがあるまい。」 「だがそれは危険すぎるだろう。」 「単騎で敵陣中央に斬り込むというのですか?」 張遼と徐晃が渋るのをみて、関羽は蔡陽をみた。 「主はわしなら顔良を斬れるというたらしいな。ならこの作戦、不服はあるまい。」 挑戦的にいったのだが、蔡陽は薄ら寒いような笑みを顔に浮かべた。 「ええ。張・徐将軍が顔良への道を切り開くのに精一杯なようでしたら。私が戦場で関将軍を補佐いたしましょう。」 「……では頼もう。」 関羽はそう答えて、蔡陽の印象がますます悪くなるように感じた。 こやつはわしを戦わすために、本隊が来るまでこの陣を落とさなかったのではないか。 踵をかえし、戦闘の準備を整え始めた蔡陽をみながら、関羽はそんな風にまで思えてきた。
戦場というのはうるさいものだ。 洪水のように、それぞれの威勢のいい声が混じりあう。 それこそただの一兵卒にしても、声をあげて刀を振るう。 その中でも一際響く声がだせるというのも、良将の条件でもあるだろう。 その点、関羽は見事に満たしていた。 「敵を打ち払え、深追いをするな。」 関羽が声を発すると共に、味方は士気を上げるように突進する。 兵は拙速を聞く。という言葉が兵法にはある。 策をめぐらしてゆっくり進むのではなく、勢いを持って素早く進むのがいいということだが、まさに今はそれだった。 突然の襲撃に浮き足立っているのは、最初のうちだけである。 張遼と徐晃が左右にわかれ、よく敵を抑えているようだが、相手の陣がまとまりだすまえに、関羽は将である顔良の元にたどりつかなければいけない。 こちらかっ 青竜偃月刀を振るいながら、兵を押しのけ顔良の帷幕を目指す。 さきほど丘からみた陣形で、だいたいの目星はついているが、こう兵の中にはいると、方向感覚がおかしくなりそうになる。砂煙であたりの景色もよく見えないのだ。 関羽はふと右後ろをみた。 二馬身ほど後ろに、つかず離れずといったように蔡陽がついてきている。 下手に気を許すことはできない。 関羽がそう思っていると、蔡陽はさっと弓に矢をつがえた。 「関将軍!」 蔡陽の声と共に矢は放たれ、関羽のほうに飛んできた。 関羽は一瞬青竜偃月刀をかまえようとしたが、向きが微妙に自分から外れている。 「ぐぁっ」 関羽のすぐ横で断末魔の声がした。 いつの間にか横に敵がつめていたらしい。 「油断めされるな。」 「あ、ああ……感謝する。」 蔡陽はそう淡々と言った。別に恩に着せるつもりもないらしく、関羽の礼を聞くこともなく、剣を構えなおすと辺りの敵を倒した。 蔡陽は確かに優れた武将だった。 部下の兵たちにも信服が厚く、また本人もなかなかの武芸者だ。 本人の宣言通り、関羽を補佐して確実に顔良へ近づきつつある。 関羽は前にいる兵を薙いでは、次々現れる馬に乗った兵をも倒す。 そろそろか……と考えたころ、声が聞こえた。 「我こそは顔良なり。命の惜しい者は道をあけよ!」 この声の主が進めば、彼の前にいた兵は怖気づいたように後ずさる。 あれが顔良か。 恰幅のいい体づきをしている。持っている薙刀を一振りすれば、こちらまでそれの風を切る音が聞こえてくるようだった。 関羽は馬の鼻先を声に向け、走った。 良い馬だ。この赤兎馬は一人や二人、目の前に立ちふさがったところで、ひるまずに突っ込んでいく。 身を低くし、飛んでくる矢をさけながら、関羽はそう思った。 一騎で突っ込んでくる関羽の馬に気付いたのだろう、顔良もそちらに馬首をむけた。 「この命知らずがっ」 「その言葉、そのまま返そう!」 一気に距離を縮め、関羽は顔良と同時に打ち合った。 大将が自ら戦い始めたのを、誰も止めることはしない。というか下手に手を出せば、自分が死んでしまう。それほどの覇気が二人から発せられていた。 あちらの薙刀が関羽の頭上に下ろされる。が、即座に動きよけると、逆に横向きに薙刀が振るった。 慌てて顔良はそれを防ぐために薙刀を横に構えると、関羽は青竜偃月刀を回転させ、柄柄のほうで顔良の体をつく。 さすがに耐え切れず、顔良は落馬した。 「わしの勝ちだ。」 刃を突きつけ、馬上から関羽はそう宣言した。 顔良は逆光になるので、敗北した相手の顔を眩しそうに見上げた。 「……早く殺せ。」 眩しい。 死ぬことへの覚悟はできている。 だが、どうしてこれほど今日の太陽は眩しいのか。 顔良は手を額にあて、太陽の光をさえぎった。 「投降せよ。わしには敵わなかったとはいえ、主の刀に迷いはなく、よく鍛錬されているものだというのはわかった。」 「情けをかけるか? ……わしも落ちぶれ」 目の前の男がかけてきた言葉に、顔良は反駁しようとしてその顔をみて止めた。 深き緑の陣羽織、肌の色は棗のように黒く、そして何よりその髭の長さ。 「……主はもしや、関雲長か!」 顔良が自らの名前を叫んだので、関羽は驚いた。 「何ゆえわしの名を知っておるのだ。」 「話に聞いておった。 その身の丈九尺五寸、髭の長さ一尺八寸、顔はくすべた棗の如く、眼は切れ長。緑色の陣羽織を着用した、青竜の大薙刀の使い手。それすなわち関雲長だと。」 まさに自分のことを形容したに違いないその言葉に、関羽は青竜偃月刀を下ろす。 顔良がそれをみて、倒れたままの体を起こした。 「まさか本当に曹操のもとにおるとはな。」 「誰がわしのことを?」 赤兎馬から降り、顔良のもとに駆け寄ろうとする。 「それは」 顔良が問いに答えようとしたとき、一瞬顔を強張らせた。 そしてそのまま地面に倒れた。 「顔良殿っ?」 関羽が彼に駆け寄ると、彼の背中には一本の矢が刺さっていた。 「関将軍。戦場にて将が自ら、馬から下りられるとは裏切りと疑われても文句はいえませんぞ?」 蔡陽がそういいながら、駆け寄ってきた。 「主が……この矢を撃ったのか。」 「左様。関将軍を補佐するのがわしの役目。 敵将の前で馬を下りられた将軍をみて、危険と判断した。」 関羽は蔡陽を睨んだが、彼は涼しい顔で見返した。 「とにかく敵将は討ち取りました。味方の軍にそれをお知らせください。」 ぎりっと奥歯をかみ締める音が、関羽は妙に大きく聞こえた。
……部屋の中に人質は二人。犯人は四人、内一人は人質に刃物を突きつけている。 それが今、わかる状況だった。 「なんでこういうことになっているのですか……」 疲れたような声を小声にして甘海は言った。 均実の部屋を出て、奥方様がいるだろう部屋に向かったは良かったのだが…… 部屋が見えてきたとき、ちょうど柱の影のところで、この部屋から数人が武器を持って出て行くのがみえた。 不穏なものを感じて、徽煉と甘海は庭園に下りた。 二人には気付かなかったようで、そいつらはどこかに行ってしまった。あのまま普通に部屋に入ろうとしていれば、徽煉も甘海も捕まってしまっていただろう。 「私が知るわけないじゃないですか……、あの男。確か曹丕殿についてこられていた警護の方だったはずです。としたら曹丕殿がこの場の真犯人ということでしょうか?」 曹丕をもてなしていた部屋が庭園に面していたのが、不幸中の幸いだった。 窓から中の様子を見ているのだが、徽煉が示した男は確かに隊長格なのだろう、甘夫人に剣を突きつけ、糜夫人と何やら話していた。 部屋の中には女官たちはいないようだ。もしかすると違う場所に連れて行かれたのかもしれない。そうなると犯行グループの人数が予想がつかない。少なくともあと一人か二人は多いはずだ。 「曹丕というのは曹操の息子でしたよね?」 「ええ」 「なんでここに?」 「……香を贈りにきたんですよ。」 甘海のはぁ?という顔を無視して徽煉は窓の中を覗いている。 「それにしても奥方様に刃物を向けるとはなんと無礼な……」 「徽煉殿、徽煉殿」 「なんですかっ?」 「あれは曹丕ではないのですか?」 トントンと肩を叩く甘海にイライラしながらふりむくと、彼は部屋のなかの床を指差していた。 そこをみると確かに一人男が倒れている。 なんとなく着ている服が見覚えのあるもののように見えるし……。 「……そういわれれば、そうかもしれませんね。」 つまりどういうことだろう。 曹丕があんなところで寝ているのが自発的行為なわけがない。 ……ということはあの刃物を突きつけている男が、本当にこの場の責任者ということか。 徽煉は計算した。 武器を持った男が四人、内一人は人質に刃物を向けている。 こちらは自分と甘海……彼を戦力として使うことは既定事実とする。でどうやってこの場を乗り切るか。 強行突入という文字が頭にまず浮かぶ。均実を呼んでくるか、いや均実の薙刀の腕では足手まといにはなっても、役には立たない。部屋の中なので、薙刀をふりまわすことも不可能だから、自分も素手で戦うことになる。彼女を守ってられる余裕はないだろう。 部屋の中の空気が緊迫しているのはわかっているが、今すぐ夫人達が傷つけられるということはなさそうだ。 徽煉と甘海は目立たないよう庭の茂みに隠れ、犯人の隙を窺い続けた。
自分がここにいることで、本来の流れが変わってきている? 均実は徽煉と甘海が部屋を出て行ったあと、一人考えていた。 その危険があると思い、均実は亮が後々有名になることを、隆中でいうのをためらった。 だがそれは確実に起こっているのかもしれない。 ……だからなんだっていうの。 均実は息を吐き出した。 帰りたくても帰る方法は今、わからないのだ。責任をとれ、と誰かがいったとしても、自分のせいじゃない。不可抗力だ。 それに未来がわからないのは、日本でもおなじこと。ただここには戦があって、目に見える死人が多いってだけじゃない。 なんだかサッパリしてきた。 色々悩むが、思い切れば均実は実に決断力がある。 すこし行動を慎重にする、それぐらいしか均実にできることなどない。 思案しても仕方がないことだ。なら考えるだけ損だろう。 均実は腕を組み、伸びをした。 そういえば庭園から部屋に戻ってきてから、寝台に倒れこむようにして寝ていたのだ。微妙に肩が凝っている。 その凝りをほぐすため、肩をまわしていると、数人が走り回っている音が聞こえた。 何? その足音はまったく落ち着きがなく、まるで…… 均実はその考えに背筋が寒くなった。 下邳で夫人らの部屋にいたときに聞いた、あの部屋を探し回っている足音のようだ。 どういうこと? そういえば曹丕が来てるんだっけ。……でなんでこうなる? 繋がりを推測するには、手がかりが少ない。 だがとりあえず本能がここは危険だと告げている。 この部屋をでるにしても、もう足音はかなり近くまできている。 均実は部屋を見回して、寝台に上って、上から吊るされている布の裏にうずくまる様にして隠れた。 ここが一番隠れやすそうだったし、寝台を調べるために布をめくられない限り、見つかることはないだろう。 隠れ終わるとほぼ同時に、数人が部屋に入ってきたのがわかった。 さぁて……何なんだろう。 「ここにもいなさそうだな。」 「ああ……ったく、あのババァどこにいやがんだ。」 ババァといわれ、思いつくのは徽煉だ。 いや別に均実が徽煉のことをそう思っているというわけでなく、基本的にこの屋敷に人は少ない。ババァといわれそうな年代の女性といえば、徽煉ぐらいだからだ。 読者には、ばらしておこう。今いったことが徽煉にばれれば、おそらく地獄をみるであろう彼らは、秦 の部下である。彼らは夫人達のいる部屋にいなかった家人たちも集めて、一室に押し込むつもりだった。 だがあの部屋から退室した徽煉の姿がどこにもない。 当然知っておられるだろうが、彼女は今甘海と共に庭園の茂みに隠れている。 かなり見当違いなところを探しているといえるだろう。 読者の方々とは違い、こちらの均実はそんな背景まったくわからない。 徽煉殿……? 何か失礼なことでもしたとか? だがその予想はほぼありえないだろうと均実は思った。徽煉は何年も夫人付きの侍女をやっている、いわばベテランさんだ。これほど屋敷中を探してまで、姿を探すほど失態をするとは思えない。 彼らは一通りざっと部屋の中を見回すと、部屋を出て行った。 「……どうしたもんかなぁ」 寝台からでて、彼らの姿が本当に部屋の中にないのを均実は確認した。 布でしっかり見えなかったが、彼らがどうやら徽煉を探しているのは確かだ。 何故か……特に理由が思いつかない。家人ではなかったから、もしかすると強盗でもはいってきたとか? っていうかこんな真っ昼間からそんなやつらはこないか。曹丕もいるんだから、護衛だって何人も…… 均実はそこで思考を止めた。 さっきの声はどうやら下っ端のようだ。誰かに命令されて、徽煉を探しているのだろう。 もしかして……曹丕が、夫人らを という考えも廃棄した。以前曹丕と会った時の印象は、確かにそれなりに頭は良さそうだったが、そんな大それたことをやりそうには見えない。 う〜ん……じゃあ、あと残る可能性は……護衛が勝手に、になるかな。 均実はそこまで推理を終えた。曹丕がそんなことやらないだろうとはいえ、沛での事件は犯人がわかっていない。曹丕の護衛としてそいつがついてきていたとしたら、きっとやるだろう。 ……夫人らが危ない、っていっても私が今夫人らの部屋にいったとしても何の解決にもならないだろうな。 かなり事態は逼迫しているのは理解したが、どこまで均実は冷静だった。 とりあえず何か武器になるようなモノがいるかな? 目的が決まれば、あとは行動あるのみ。 均実は慎重に部屋をでると、モノを調達できる場所にむかった。
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