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均しき望み 作者:奇伊都

第38回   ピ〜ンチは続く〜よ〜

「静かねぇ……」
 ぽつりと庭園に甘夫人の声がした。
 いつもどおりの談笑の時間。
 均実は男装をして庭園で薙刀の練習をしているし、徽煉もそれをみて時々形が崩れていると注意する。
 なんら変わらないはずなのだが、どうも景色に活気がないような気がした。
「雲長殿は今頃白馬に着かれたでしょうか……」
「いくらなんでもそれは早いわ。まだ途中でしょう。」
 糜はそういいながら、果物に手を伸ばした。
 関羽が許都を発ったのは三日前。
 徽煉ら他、家人達は皆一様に驚いていたが、夫人達は彼女らを一室に集め、関羽は白馬にむかったこと、よって関羽がここにいないことは他言無用であることを命じた。
 だがそんな中で、一人、あまり驚いていない者がいたことも二夫人は気付いていた。
 視線を均実にやる。
 棒の動きは最初に比べると軽やかになってきている。だがそれでも徽煉から見ればまだまだのようで、時折何かを言っては同じ動作を繰り返させる。
「雲長殿は邦泉に会いにいったのかしら。」
「行ったでしょうね。」
「気持ちは告げられたのかしら?」
「……言ってないでしょうね。」
 糜は均実の姿をみながら、そう言った。
 均実は関羽が白馬にむかったと知らされたとき、驚きはしなかったが、それ以後特に変わったところはない。
 関羽が均実に自分の気持ちを告げていれば、もうすこし変化があるだろう。
「まったく何のために邦泉に想い人がいるといったのか……」
 糜はそういいながら手にとった果物の皮をむき、口に一口含んだ。
 もちろん何のためといわれれば、関羽をたきつけるためだ。思ったより関羽はふがいないようだ。
 甘も同意見のようで、はぁと空を見上げた。
 より関羽が均実を好ましく思うように、徽煉に均実を着飾るのを遠慮するなとは命じた。それは予想以上にうまくいった。関羽が均実に見惚れたのを見て、夫人らは心の中でほくそ笑んだ。
 だがそれでも告白をしないとは……
 娯楽の無い日々で確かに面白がっているといわれれば否定はしないが、それでも一応自分達は本気であの二人を応援しているのだ。
 ……徽煉はもちろん前者の割合のほうが強いことを見抜いていたが。
 とその時ビュンと音がして、思いっきり何かがぶつかるような音が続いた。
 棒を振り下ろした時、手に力がはいっていなかったのか、均実が棒を離してしまったらしい。勢い良く飛んだ棒は屋敷の壁に当たった。
 当然徽煉に叱られ、均実はしゅんとしている。
「いまだとて、ほら、あのような格好をして……まるで少年のようだわ。」
 せっかく着飾れば綺麗だということはわかったのに、均実は自分がそうだと全く気付かない。
 そろそろ二夫人達にもわかってきた。
 均実は他人のことには敏感だが、自分のことにはかなり鈍感なのだ。
 そういうところがますます面白……いやいや心配なのだが。
「奥方様。今先触れの使者が参られたのですが……」
「先触れ?」
 だいたい他人の家をある程度身分のある人間が訪れるときは、「今から行きますよ」といいにくる使者を立てる。
 日本では全くの無駄だが、それ相応の手順を踏まなければ人に会えないのはこの時代当たり前だった。
「誰のですか?」
 糜は考え付く人物がおらず、小間使いに問い返した。
 曹操も関羽と共に白馬にむかったと聞いているし、それ以外でこの許都での知り合いなど……張遼も確か行軍しているはずだ。
 甘も訝しげに首をひねった。
「それが……曹丕殿です。」
「曹丕殿……といえば曹操殿のご子息だったか。」
 ますますわからない。
 二人は顔を見合わせた。
 まったくの通常時であれば、面識の無い人物が面会を申し込んでくるのも特におかしくない。
 だが今はまがりなりにも戦時だ。
 何か用があるに決まっているのだが……
「とりあえず、もてなす準備をしましょうか。」
 糜夫人はそういうと、薙刀の練習をしている二人を呼び寄せた。
 練習用の棒を片付け、こちらにやってきた二人は何かあったのだろうかと疑問顔である。
「曹丕殿がこちらにこられるらしい。」
「子桓殿が?」
 徽煉も驚いたようだが、均実も驚き思わずつぶやいた。
「……邦泉、あなたいつ曹丕殿にお会いしたの?」
「え? この前の宴の席でお会いしただけですけど。」
 それを聞いて、糜がなんとなく曹丕が何故来るのかわかったような気がした。
 好敵手登場……ますます目が離せなくなってきたわね。
 甘に目をむけると同様のことを考えたらしい。
 だがとりあえず自分達は関羽を応援しているのだ。
「そう、邦泉。あなたは部屋にいなさい。曹丕殿が帰られるまで、けして出ぬよう。」
 ここで曹丕と会わせるのも楽しいのだが、一応関羽を応援するという立場上、曹丕の恋路は邪魔してやら無くてはいけない。
 糜はそう考え均実に命じた。



 目鼻立ちがはっきりしている。そこから感じる知能的な光の中に、若さを隠し切れていない。
 曹丕と会って糜はそう思った。
 甘は下邳で一度挨拶した曹操と、これが親子かと思った。
 確かに似ているが、どことなく落ち着きが無い。曹操は冷徹そうな顔の下に、溶岩のような熱さを秘めているように感じたが、そうではなく、全面的に活発な印象をうける。
 歳を聞けばまだ十四だという。
「そうですか……ぜひもう一度、邦泉殿にはお会いしたかったのですが。」
「残念ですね。丁度用を申し付けたところで、すぐに帰ってくるとは思うのですが。」
 丁重にもてなしながら、糜はそう言った。
 まあ紛れも無く嘘である。
 均実は今自室にいるはずだ。
 だがとりあえず均実を彼にあわせるつもりは無い。
「良い香が手に入ったので、それをお渡ししたかったのですが……」
「まあそれはそれは……。一旦お預かりして戻りましたら、お渡ししておきますね。」
 曹丕の持ってきたいくつかの贈り物を一瞥して、糜は社交的に必要最低限な笑顔を顔に乗せた。
 徽煉はその会話をききながら、心の中で苦笑していた。
 曹操からも香をもらったことは均実から聞いている。均実が香を苦手としていることを親子揃って見抜けなかったのだから、滑稽なものだ。
 そう考えていると後ろに、いつの間にか見慣れた小間使いが立っていた。
「どうかしたのですか?」
 彼女はいつも玄関付近にいる。だいたいの客の対応などは彼女がやっており、庭園で姿をみるのは言付かりを持っているときなどだけだ。
 会話を邪魔しない程度の小声でたずねると、小間使いは徽煉に近づいた。
「あの、徽煉殿にお会いしたいといわれている方が今いらっしゃっているのですが。」
「私に?」
 誰だろう。
 そう思いつつ、自分は別につなぎをつけても得のある人間ではない。それで徽煉のことを知っているというのは……
 沛での暴漢達とか……
 嫌な予想がたったが、それは次の小間使いの言葉で消えた。
「甘海だと言ってくれればわかるとおっしゃられていましたが。」
「おお、甘海殿か。このようなところまでこられるとは……」
 放っておくわけにもいくまい。
 徽煉は奥方に耳打ちをし、とりあえずその場を退いた。
「どうかされたのですか?」
「いえ、あの者の同郷の者が今しがたここに訪ねてきたらしく、すこし退室する許可を与えただけです。」
 糜は曹丕の疑問にそう答えた。
 甘海という名は以前聞いている。
 均実が隆中にいたころ、馬の乗り方を教えてもらったとも言っていた。
均実の身を案じて訪ねてきたのだろう。
 甘も甘海の名前を聞き、納得したようだった。
 それからしばらく談笑を続け、
「それにしても、今日の用件はこの贈り物の件だけでしょうか?」
 甘は曹丕に問うた。
 別に贈り物なら贈りつけるだけでいい。使者を一人たてればすむことだ。
 曹丕自ら動くとなると、それ相応のめんどくさいものがある。
 腐っても曹操の息子である。今だって曹丕の後ろには秦という将が立っている。大きな体をじっと動かさず、家人達が動くとそちらをぎろりと睨む。どうやら護衛の役を仰せつかっているらしい。
 甘が彼をみると、非礼にあたらない程度の簡単な礼をして、また直立不動の体勢に戻った。愛想もないらしい。
「ああ、彼のことは気にしないで下さい。屋敷をでるとき、無理やりついてきたのですから。」
 その態度に不満だった甘の顔が曇るのをみて、曹丕は慌ててそう言った。
 他に用件がないわけではないのだが、一目、均実を見てからにしたいと思っていたので、長々と曹丕は話し続けていた。
 これを言えば、きっともう均実には会えないだろうから。
 だから父が許都を発ったあと、すぐここを訪ねることができなかった。
 宴で見たとき父への怒りにかられ、部屋に乱入したはずなのに、一瞬我を忘れて見入ってしまった。
 こんな美しい人がいるのか……
 自分の今までの世界がなんと狭いものだったのかと思うと同時に、一瞬で彼女に淡い恋心をもった自分を感じた。
 柔らかな声で耳に届いた優しい謝罪も、父に怒られへこんでいた気分を簡単に浮上させる力をもっていた。
 今の状況からみて、自分の側にいてもらうことはできないだろうと思っていた。だが一言、ただの一言だけでいい。もう一度だけ声が聞きたかった。
 だが……いないのでは仕方が無い。
 曹丕は考えに区切りをつけた。
 そして二夫人達に向きなおす。
「今日、こちらにお邪魔させていただいたのは、あることをお知らせしなくてはと思ったからです。」
 本題にはいったのだと二夫人は心持ち姿勢を整えた。
 だがそれはすぐに崩れた。
「劉予州殿は、袁紹殿の下におられる。」
 予想しないニュースに二夫人は息が一瞬止まった。
 食い入るように曹丕の瞳をみつめ、その言葉に嘘がないことを知る。
「殿が……殿は生きておられた……。」
「よかった……」
 甘が涙を流しながらいうのに、糜がこぼすよう一言いったとき、彼女ははっとした。
「袁紹殿の下に、と言われたか? それでは雲長殿は殿と戦うことになるではないか!」
 糜の言葉に甘も息を呑んだ。
「はい……私は父がこのことを話しているのを偶然耳にはさんだのですが、父は雲長殿には知らせぬつもりのようでした。
ですがそれは父の評判を貶める行為。三条の約束を知らぬものなどおりませぬ。黙ってなどおれず、こちらにこさせていただいたのです。」
「ほんに、よう知らせてくれた。心より礼を申します。」
 このまま関羽が劉備と矛を交えるようなことにでもなれば、関羽はもちろん劉備の元に還ることなどできず、曹操につくしかなくなるだろう。
 こうなれば一秒でも早く、関羽にこのことを知らせなければいけない。
 誰ぞ早馬を……と糜が声をあげかけたとき、甘が悲鳴を上げた。
「な……」
 そちらをみて糜は絶句する。
 甘の喉下に自らの刃をあてて、秦がこちらを睨んでいた。
「奥方様、曹丕様、そして館の者たちも騒がぬよう。」
「秦、お前っ!」
「黙られよ、曹丕様。
見損ないましたぞ。殿の策をご子息である曹丕様自ら、崩そうとなさるとは。」
「どれほどの策だっ! これほどの下策。私は聞いたことがない。」
「ちっ……」
 秦は後ろで控えていた配下に目配せをする。配下の一人が速やかに飛び出て、曹丕の腹を殴った。
「ぐっ……」
 続けて後頭部に肘をいれられ、曹丕はうめき声をあげて地に伏した。
「きれいごとのみでは戦はできぬ。この孺子が。」
「……自らの主の息子に孺子とは、いいすぎではありませんか?」
 目の前でおこったことに声が震えそうになるのをこらえて、糜は言った。
 孺子とは乳飲み子のことだ。つまり秦は曹丕をかなり馬鹿にしていったのだが、少しでも相手の気勢をそぎたかった。
 それを役目とする徽煉がこの場にいないのだから。
「事実を言ったまで……。
さて糜夫人。この状況で落ち着いておられるところはさすがと申しましょう。しかし打つ手はございますまい。」
 糜の言葉を痛くもなんとも感じていない様子で、秦は糜を見下ろした。
 糜は秦をにらみつけた。
 彼の片腕には甘が人質というふうにとられ、騒げばすぐに殺すことができるよう、首元で剣が煌いている。
 甘も動けなければ、自分も動くことができない。
 彼の言葉に間違いはなかった。
「……沛での一件と同じ者ですか。」
「実行したのは異なりますが、命令をされたのは同じ方ですよ。」
 秦は瞳に獰猛な光をうかべたまま、そう言った。

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