それから関羽は慌しそうに過ごしていた。 談笑の時間にも来ず、宴でもないはずなのに曹操の館にいくのをみて、二夫人は不安そうな顔をしていたが、何もいわなかった。徽煉は夫人らに落ち着いて関羽のことを信じるよう言ったが、二夫人はそれに対して静かに首を横にふっただけだった。 均実はその態度に奇妙なものを感じていたが黙っていた。 その理由がわかったのはそんな日が二日続いた夜だった。
いつものように自室で濡れた布で体を拭いていた。 香を焚くようになってからも、この習慣を均実は直そうとしていなかった。 まあ昼間、薙刀の練習をするせいで汗をかくので、別におかしなことではない。 関羽が教えてくれたところの復習をしていた。徽煉は新しいことを教えてくれるつもりはないらしく、均実が自主練をしていると時々口を挟んでくるぐらいだった。 ほどよく筋肉がついてきた腕をぬぐい、水に布をもういちど浸してから胴をふく。 あいかわらず小さい胸から腹、そして均実は一瞬だけ手をとめた。 左わき腹の傷痕。 下邳でのあの傷だった。 綺麗に塞がってはいるが、その斬られた部分だけ肌の色がすこし濃くなっていて、触ると微妙なデコボコがわかる。 日本に帰って、兄達がこの傷痕を見つけたらなんというだろう。 刀傷など今の日本にいてつけれるものではない。 まだ帰る手段すらみつかっていないのに、均実はそのときのことを考えてため息をついた。 「邦泉殿?」 「わっ!」 そのとき関羽の声がした。 慌てて着物を着ると、関羽が入り口から顔をだしたところだった。 「悪い。体を拭いていたのか。」 「い、いえ。もう終わるところでしたから。」 均実が少し乱れた薄衣一つを羽織った状態であるのに、関羽は少し気まずそうに目をそらした。 均実も慌てて他に着物をとり、上に羽織る。 そして布や水桶をすこし部屋の隅によせて、入り口に立っている関羽を部屋にはいるよう勧めた。 というかこんな時間に何の用だろう。 すこし勧められて困惑したような顔を関羽はしたが、部屋にはいってきた。 「話があったのだが、忙しくてこのような夜分にすまんな。」 「いえ……別にいいんですけど、話って?」 「……明日の早朝、わしは曹操殿に従って白馬へ向かう。」 均実は息を呑んだ。 白馬という地名は二日前の宴で曹操が口にしていたのを覚えている。 それはつまり……戦をしにいくということだろう。 「……人が……死ぬんだ。」 均実がポツリと小さくいったのを、関羽は聞き逃さなかった。 「そうだ。おそらく下邳のとき以上の死人がでるだろう。」 袁紹との戦いの火蓋が切って落とされるのは、黄河をはさんだその白馬という地だ。 袁紹は名門の出であるため、曹操よりも強大な兵力をもっている。それは十倍ほどもあるのではないかといわれていた。 だから容易にこの戦の死人の数が、下邳でのそれを上回るのは予想がついたのだ。 隠すこともせず淡々といってのけた関羽を均実は見返した。 だがこちらをじっと見ていた関羽の視線に耐え切れず、目をそらす。 「今回邦泉殿は戦場にいくことはないだろうが、あまり戦場のことを考えすぎぬようにな。戦での死者はおぬしのせいではけしてないのだから。」 「私は、大丈夫です。……すみません、心配してくださったんですね。」 以前の夢の内容を均実は関羽に話していた。 下邳の墓場でのあの夢を。 それで均実のことを心配してくれたんだろう。 関羽はため息をついた。 「何度謝るなといっても、邦泉殿は謝るのだな。」 「すみません……っと……あ〜」 「もういい。無理するな。」 均実が言葉を見つけられずにいると、関羽は笑った。 その笑顔をみて均実もほっとしたように笑う。 関羽の笑みは好きだ。いつもピンと背筋をはって歩く彼は、ときどき近づきがたい空気をだすが、それでも話したときにふいに見せるこの笑みは、均実を落ち着かせた。 「奥方様には出陣のこと、すでに報告されているのですか?」 「ああ。だが曹操殿は情報がもれることを極端に嫌うから、誰にも言わないように口止めしているがな。」 「なるほど……」 それがここ数日の不安そうな夫人達の姿の理由だろう。 彼女達は関羽が曹操に寝返ることを心配していたのではなく、本当に関羽自身を心配していたのだろう。 「邦泉殿にも本当なら何もいわずに許都を出発するつもりだったのだが、一言いっておきたくてな。」 関羽の言葉に均実は首をかしげた。 戦場で死ぬ気などさらさらない。 だが、だからといって死なぬとはかぎらない。 誰も死にたくて死ぬわけではないのだ。 だから話をしたかった。 「ありがとうございます。」 均実はただの侍女だ。そこまで気をつかってもらえるというのは、過分な気がするが、礼をいった。 関羽はその言葉をうけて、一瞬笑おうとしたように顔をゆがめたが、視線を落とした。 そして目を上げる。 均実の姿を見据える。 「雲長殿?」 均実の顔をみつめて黙り込んでしまった関羽に均実は声をかけた。 「……わしは邦泉殿を」 やっとの思いで喉からだした言葉は、そこで止まってしまった。 何をいうつもりなのか、均実はわからないままその続きをまつ。 腹が立った。 ここまできて言葉をつむげない情けない自分に。 だがそれでも言葉は続かない。 糜夫人が均実には好きな人がいるといったとき、心の奥底で何かが火をつけ燃え始めた気がした。熱い、熱い、この火は関羽の心を蝕む。 その人物がこの国の者だというのなら、なぜ自分が最初に均実にあわなかったのか。そうすれば均実の心にはその者を好む気持ちすら、生まれなかっただろうに。 これが嫉妬だということぐらい関羽にはわかった。 苦悩して何度、均実に自分の気持ちを言おうとしたか。 だが均実は自分のことをそういうふうに見ていないのもわかっていた。 拒絶の言葉が怖い。だがそれ以上に、関羽が傷つくことを恐れて拒絶できず、均実がただそれだけの理由でうけいれてくれるのも怖かった。 「……」 「……」 「……」 「……?」 「……」 「……っくし!」 関羽はハッとして均実をみた。 「す、すみません。ちょっと寒かったみたいで。」 均実は気まずそうにして、口をおさえていた。 さっきまで体を拭いていたのだから、体が冷えているのは当たり前だ 「大丈夫か? もっと上に何かは羽織ったほうがいい。」 関羽はそういいながら、とりあえずというふうに自分の上着を渡した。 くしゃみをしてしまい、関羽が話をやめてしまったのを感じ、均実は小さく謝った。 「すみません……何か重要なこと話されていたのに、話の腰をおっちゃって。」 「いや……、こっちこそすまない。夜は冷えるというのに、気付かなかった。」 関羽の服を借り、羽織ると彼の匂いがした。 関羽も香を焚いている。 いつもは夫人らの近くで会うので、彼女らの匂いのほうが強く、何も匂わないが、以前庭園で夜会ったときは、仄かなその香を初めて感じた。 抱きしめられたとき、そして今のように彼の上着を借りたとき、その香りは均実を落ち着かせた。 いい匂いだと思う。香は嫌いだが、この香はいいと思う。自分の香もどちらかというとこの匂いに近い。というか香を決めるとき、なんとなくこの匂いに近いものを探した。 つい均実は服の袖に顔を近づけた。 「……雲長殿の香っていい香りですよね。」 均実のその行動に驚いたのか、一瞬動きをとめた。 「邦泉殿は香が苦手なのではなかったか?」 「雲長殿のは……好きですね。」 「そうか……」 均実の言葉に関羽は嬉しそうに笑った。 「あの、話の続きなんですけど……」 均実が袖から顔を離し、そういうと関羽は小さく驚いたようだったが、肩の力をぬきすこし眼を閉じた。 「わしは邦泉殿を……守りたいのだ。」 「私を、ですか?」 「ああ、今のように寒さからも。そして危険からも。ずっと邦泉殿の側で。 ……もう下邳でのようなことは起こしたくない。」 均実は無意識に自分の傷痕に手を添えた。 関羽は均実が下邳で目をさましたあと、何度も謝った。 もうすこし自分がつくのが早ければ……と。 関羽のせいではないというのに、均実が何度も平気だといっても謝りつづけるので、沛からの道、馬に乗せられてもあまり強く拒否することはできなかった。 まだ彼は自分を責めているのだろうか。誰も責めてなどいないというのに。 この申し出をうけいれれば、彼の心は軽くなるのだろうか? 「……ありがとうございます。」 均実は関羽の目を見据えそう答えた。
馬が道を歩くのは、これほど速いものだったか。 許都の方角を振り返りつつ、関羽はそう思った。 もう見えないのはわかっていたが、それでも振り返ってしまう。 我ながら女々しいな。 そう思う。 屋敷内の人間で関羽が昨日の早朝、許都をでることを知っていたのは夫人らと均実だけだった。 見送りはしないように言い含めておいた。 蔡陽が真犯人である可能性は高い。だが証拠は今のところないという。 それならばあまり関羽が許都を離れることを、おおっぴらに明かすのは得策ではないと思ったからだ。 「雲長殿、馬の進みが遅いな。」 前から見知った男がこちらにやってきた。 「文遠殿か。」 「奥方様が心配なのもわかるが、今は戦場にむかっているのだ。 心を整えられよ。」 張遼は年下だ。だがそんなもの戦場では関係ない。 だから別にそう当たり前の注意をされても、関羽は怒ることなどなかった。 むしろ心ここにあらずといった状態で戦場にむかう自分を、気遣ってくれたのだから、感謝するべきだろう。 関羽が何もいわないのをみて、張遼は眉をしかめた。 「どうかされたか? いつもの覇気がない。」 「いや、別に」 「もしかして……女か?」 張遼が鋭いのか、それとも自分の顔にでてしまっているのか。 関羽がその問いに一瞬反応したのをみて、張遼は笑った。 「なに。殿が数日前、噂の主の妻とやらを宴に招待したというのは皆知っておるぞ? 『噂に違わぬ美姫だった』と殿が機嫌よくおっしゃるから、雲長殿は殿にその美姫をとられぬかと、さぞかしひやひやしているだろうなと皆言っておる。 心配はいらぬ。殿はそんなことをする方じゃない。」 「……なんだ、そういうことか。」 顔に書いてあったわけではないらしい。 安堵したようにいう関羽を張遼は訝しげにみた。 「違うのか?」 「……一応訂正しておくが、彼女はわしの妻ではない。 邦泉殿だ。文遠殿も一度下邳で会っておるだろう。」 関羽はため息をついた。 一体何度、この否定を繰り返しただろう。 張遼はああ、あの。といい均実のことを思い出したようだ。 馬を並べて二人は話しているが、周りには徒歩で歩いている兵もいる。 下邳での事件のことを、ここで話すわけにはいかないだろう。 「邦泉殿を殿は美姫といったのか? 確かに醜女ではないが、まだ幼いといった感じが抜けぬ娘と思ったが?」 それほどしっかり観察したわけではないが、張遼は均実のことをそう思っていた。 曹操の審美眼は定評がある。感受性が強いのか、芸術も好むし、自ら詩も作る。 均実は知らなかったが、それは彼の息子らにも確実に受け継がれているようで、曹丕、曹植といった曹操の息子である彼らも詩人として後の世では有名なのだ。 張遼の言葉に関羽は苦笑した。 関羽も実は驚いた。 均実はどうも女らしいことが苦手なようで、刺繍やら化粧やらといった物事は避けていた。よって普段も、張遼が均実とあったときも、化粧などまったくしていない。 だがあの曹操の宴のときはそれを徽煉が許さなかった。 嫌がる均実を無理やり連れて行き、支度ができたと関羽を呼びにきたときは驚いた。 唇には紅をさし、頬には白粉をのせ、髪もきちんとまとめられた均実の姿は、ここまで化粧でかわるのかと思えるほど見違えた。気だるげそうに閉じかけの目も、妙な色香を感じさせる。 もともと背は高いので、立っているだけで凛とした涼しげなものをもっているが、それが滑らかな絹で織られた着物を着ることで、全身が流れるような美しさを持ったようにも見えた。 関羽がその姿をみて唖然としていると、均実は顔を曇らせた。 「どうせ似合ってませんよ。」 否定したのだが、均実は聞き入れなかった。 曹操も曹丕も素直に誉めたが、どうやら本人は本気で似合ってないと思っているようだった。 その様と容姿の落ち着きのギャップが可愛らしいと思える。 「目が良くないようだな。わしも彼女は美しいと思うぞ。」 「……どうやら邦泉殿のことが原因のようだな。」 その均実の姿を思い出し、自然と口元が笑っていたようだ。 張遼の指摘に関羽はハッとして顔をもとに戻したが、遅い。 「妻というのは嘘だとしても、沛から雲長殿の馬に乗っていたのは邦泉殿だろう。 殿すら美姫と認めた娘と色恋とは、天下無双の武将である雲長殿といえども、男だということだな。」 「文遠殿、わしは…」 「まあ照れずとも良い。心通わした女子のことが気になるのは万民共通のことであろう?」 「だからそうではなく、邦泉殿はわしのことを何ともっ……!」 思わず大きな声をだし、関羽はだしたあとに気がついた。 ……周りには兵士がいるのだ。 ちらりと見ると、こちらを盗み見ながら苦笑している何人かの兵士と目があった。彼らは慌てて目をそらし、黙々と行軍を続ける。 「……噂、助長決定。」 張遼が笑いながらそういうので、持っている青竜偃月刀を彼の首に突きつけたいという欲望を関羽は必死に抑えた。 「何を騒いでらっしゃるのですか?」 後ろからもう一人の将が駆けて来た。 彼も関羽は見たことがある。以前曹操の宴に呼ばれたときに、紹介された。 名を徐晃。字は公明。 同じ河東郡出身といわれ、それなりに親交を深めていた相手だ。 追記すると張遼とはいい友人らしい。 「公明殿もおかしいと思わんか。 殿すら認める美姫、しかも一つ屋根の下で暮らしていたというのに、相手は雲長殿のことを何とも思っていないなんて。」 関羽が止める暇もなく、張遼は徐晃にそう言った。 「美姫……ですか? あの噂の?」 「妻ではないらしいがね。」 丁寧な口調で徐晃はそういったのを、関羽でなく張遼がすこし訂正した。 もともと何かに熱くなることなどはなく、いつも落ち着いたトーンでしゃべる徐晃と、結構おせっかいで単純な張遼は凸凹コンビとして仲がいい。 「よく話がみえないのですが……」 均実と一回も面識もない徐晃では、そう思うのは当然だろう。 「ま、白馬につくにはまだ時間がある。じっくり雲長殿に聞けばいい。」 戦場にいくのだから、心を整えろっていったのはどこのどいつだっ! 関羽も心底からそう思ったが、また声をあげて兵たちに笑われるのでは格好が悪い。 長く続く行軍の列をみて、関羽はだんまりを決め込むことにした。
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