その後は許都の生活に不自由はないかとか、まあ大した話はしなかった。 少なくとも、彼らが口にだした「戦」や「戦場」という単語はでてくることはなかった。 それでも均実にはわかったような気がする。 曹操はこれから袁紹を攻めるはずだ。 その戦いのことを彼らはいっていたのだろう。 だがこの場でそれ以上、そのことについて話すつもりはないようで、自然と話は均実と関羽とが出会った時のことへと移った。 「そのてこの原理≠ニやらは面白いな。」 均実の長々とした説明を聞いた後、曹操はそう感想を述べた。 以前、てこの原理≠ノついてそのうち説明することになっていたのだが、その後なんやかんやとあったので、下邳にいたときのことを曹操に話すまで、均実も関羽もすっかり忘れていた。 「確かに色々と応用ができそうだ。」 関羽も感心するように言った。 「雲長殿が、友人として語り合いたいと思ったのにも頷ける。なかなかその知識は馬鹿にできん。」 「それほどでもないですよ。」 均実は困ったように言った。 この国では日本のように義務教育が確立していない。だが、日本の小学校をでたらこれぐらいの知識はしっていて当たり前だろう。 「……ふむ……。あれを……いや……」 曹操はぶつぶつと独り言を言い出した。 均実は関羽をみたが、彼は別になんとも思わないようだ。 どうやら曹操が独り言をいうのは珍しくもないことらしい。 「……では邦泉殿。地中より敵がやってくるとなればどのような策があるかな?」 思案が一段落して曹操はそう言った。 均実のいうてこの原理≠使って一つユニークな武器を思いついた。それがあれば弓などよりも強力な攻撃ができる。 そう確信して曹操はあえて、質問を続けた。 そんな知識をもっている均実から、どういう答えが返ってくるのか興味があったのだ。 「地中から、ってことは地面にぬけ穴を掘ってくるということですよね?」 「ああ、例えば籠城戦などで相手を攻めあぐねた時は、そのようなことが行われたりするのだが……」 「穴を塞げばいいじゃないですか?」 そのままである。 均実は特に考えず言った。 だが 「なるほどな……」 この答えにも曹操は考え込んだ。 ……ていうかほんと小学生でもわかるようなことじゃないのか? 均実がそう思っていると曹操は笑った。 「いや、本当に邦泉殿と話すのは面白い。物事の見方が素直というか。それでいて、わしすら知らぬことを知っている。その差が激しい。」 「はぁ……誉められているんでしょうか?」 「もちろん。」 どうやら均実は曹操に気に入られたようだった。 屋敷に帰ることになったときも、なにやら様々な種類の布地やら香やらをお土産だといわれもたされた。 とにかく礼をいい、帰路につくとしばらく行って曹操の屋敷がみえなくなったころ、関羽が突然笑い出した。 「雲長殿?」 「いや……邦泉殿に香を贈るとは……、曹操殿も読み違えることもあるということだなと思ってな。」 関羽にはわかっていた。 自分が今までそうだったように、曹操は相手が喜ぶようなものを調べ、そしてそれを贈ることを。 自分とて赤兎馬をもらったときは喜んだ。まあ「殿がみつかったとき、これで馳せ参ずることができる」といったら、露骨に顔をしかめられたが。 曹操が均実に香を贈ったということは、均実が香を喜ぶと思ったからだろう。 だが均実は香を見たくもなかった。 あてが外れ、均実が香をみたとき一瞬顔をひきつらせたので、曹操は変な顔をした。 それを思い出したのだった。
客人を送り出したところで、曹操は自室に戻っていた。 「待たせたか?」 「いえ」 もうすっかり暗くなってしまったので部屋の隅にある燭台の光が、部屋に一人の男が立っているのを照らしていた。 「雲長殿は帰られたのですか?」 「愛しの姫を連れてな。」 「は?」 「こちらの話だ。」 手を振って話を終わらす。 困惑した空気が伝わってきたが、別に気を配ってやる必要はない。 「機嫌がよろしいようですが?」 「ああ。面白いことを思いついてな。」 「どのようなことでしょうか?」 曹操はそういって先程の宴の席での話を説明した。特にてこの原理≠重点的に。 男は感心するように何度も頷いた。確かにおもしろい話だ。 人払いがすんでいることを確認すると、曹操は表情を消した。 「わかったか?」 「証拠はありませんが、殿のお考えどおりのようです。……しかしいいのですか? 蔡陽殿は良い将ですのに。」 声はすこしため息混じりに答える。 「よい。それよりも沛での一件の真相を暴くほうが先だ。」 蔡陽にはもっとも危険な先陣を任した。本隊が到着するまで、ただでさえ少ない兵力で、黄河をはさんで向き合う袁紹軍とにらみ合わなくてはいけない。 配下の兵たちも統率がよく取れており、また曹操への忠義も篤く、確かに蔡陽は良将といえる。そのような配下は曹操にとって何よりも今必要なものだ。だが何故そのように人材を配置したのかというと、蔡陽が沛での事件の首謀者なのではないかと関羽が疑っているからだった。 もともと関羽を擁護することへの反対派の将の筆頭といえる蔡陽は、沛で関羽を足止めしようと曹操が沛にいないことを隠していた。 そのような将をこの許都においておくことはできない。特に関羽を心から下そうとしている今は。 だが首謀者である証拠も無い。蔡陽に直接事情を聞くと、曹操はすぐ下邳に戻ってくると思っていたと言ったのだ。 蔡陽を許都から遠ざけ、ばれぬよう蔡陽の身辺を調査していたのだが、やはり証拠が挙がってくることはなかった。 目の前の男にその調査をすることを命じたのは自分だったが、その命令をうける前に彼は調査を始めていた。だがそれでも証拠は無い。 「では予定通りに白馬では動きましょう。」 「……張良もそのような気をまわし続けたのかな?」 曹操はそう言うと、男は苦笑をした。 張良というのは、漢帝国をつくった初代皇帝劉備の名参謀だ。 頭の働きがはやく、重用しているこの男を曹操はよくそう比喩するのだが、本人はあまりにも恐れ多いことだといっていた。。 「関羽殿は?」 「今日聞いてみたが、許都を離れることは了承してもらえた。……釘は刺されたがな。」 沛での一件を均実が言おうとしたとき、関羽はそれを止めようとした。 一応もう真犯人が発覚しない以上、彼は曹操の不祥事であるその事件を掘り下げようとはしないつもりのようだった。 その心意気は嬉しく感じたが、そういうわけにもいかない。 曹操が均実に謝ってみせることで、そんな気をつかう必要がないということを示して見せると、やはり関羽は犯人として一番怪しい蔡陽の処遇を聞いてきた。 そして今回の戦に関羽がでても、蔡陽が奥方達を狙う心配はないことをしめした。 武将として名高い関羽を手に入れても、使わなければ意味がない。 奥方を案じて戦場にでることを渋っていた関羽は、ようやく了承してくれたのだ。 「実力を発揮させるためには、真犯人を見つけなければな。」 曹操の言葉に男は同意した。 「劉備の居場所も隠す必要がありますね。」 「わかったのか?」 「はい……袁紹のところに身を寄せているそうです。」 「よりによって……」 その言葉に曹操は舌打ちした。 これからその袁紹と戦おうというのに、自分の主が敵陣営にいるとなれば関羽はさっさと曹操の元を去るだろう。いや、下手をすればここぞというところで、裏切る可能性もある。 曹操はまだ関羽を自分に心酔させることができていないことをわかっていたのだ。 「……隠せ。」 「はっ」 男が頭を下げるのをみてから、曹操は窓の外に視線を移した。 今日は三日月、月よりも星の光がつよく庭を照らしている。 「小さき星も、月の力が弱まるのを待てば、輝くものだな。」 誰にいうでもないその言葉。 一瞬、目の端で木々の陰が動いた気がした。 目を凝らそうとすると、耳元を風が吹きぬけ、近くの草が揺れているのがみえた。 曹操は風のせいか……と窓から離れた。
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