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均しき望み 作者:奇伊都

第34回   一難去って次、二難?

 きっつ……
 均実は持ち上げた棒を支える腕に、懐かしい痛みがまとわりついているのを感じた。
 正真正銘、筋肉痛である。
「ほらまた先が下がっている。」
 関羽の声に無理やり腕に力をいれなおし、棒の先をあげる。
「そうだ。その姿勢は基本になるのだから、何時間でもしていられるようにならねばならんぞ。」
 足に力をいれしっかりと地面をふみしめたまま、練習用のその棒をずっと宙で支えていた。これは構えの姿勢らしい。
 甘海の馬術講座のときもスパルタだ〜…とか思ったが、関羽のはもっときついような気がした。
 徽煉がどういう説得をしたのか教えてもらえなかったが、均実は関羽に薙刀を教えてもらえることになった。
 だが結構武術を甘く見ていたらしい。
 関羽があの夜、軽々振るっていた棒もかなりの重さがある。今使っている棒はそれより軽いものだが、それでも数分持ち上げていると筋肉が震えだすほどの重さはあった。
 実際徽煉がつかっている薙刀も触らしてもらったが、優美な外見とは裏腹にこれが結構重い。
 そんなもの初めから使えるわけがないので、練習用の棒を使っているのだが、それでも散々注意された。
 はあ、私、むいてないのかな……
 もともと均実は武道すらやったことがない。実戦向きの武術が使えるようになるのはいつのことだろう。
 薙刀の練習の際は、動き難い普段の女物の着物ではなく、李哲に頼んで用意してもらった男物の着物を徽煉が許したので、それを今は着ていた。だがもしこの許都で突然、暴漢に襲われたとしたら、女物の着物で相対しなければいけないだろう。そんなこと今は不可能に思える。
 均実が練習後、少し落ち込んでいると、関羽が笑った。
「一朝一夕でできるわけがない。やめるか?」
「やめません!」
 やりはじめたことを途中で投げ出すのは、性格上できない相談だった。
 均実の反応に声をあげて笑ったのは関羽でなく、その後ろで練習を見物していた夫人達だった。
「まあやる気があるのね、邦泉。心強いわ。」
 甘が楽しそうにいうのを聞いて、均実は力が妙にぬけた。
 関羽が薙刀を教えると決めたとき、ならば庭園でやってくれと甘夫人は言った。
 余興のようなものと考えているのだろうか?
 実際教えてもらえるのは談笑の時間だけで、それ以外のときはけして関羽は教えようとしなかった。
 均実は夫人ら気に入られている侍女である。その均実に薙刀を教えるのであれば、当然夫人らも近くにいることとなる。臣下である自分が、あまり劉備の奥方様と一緒に長く時間を過ごすのは、失礼に当たると関羽は考えているようだ。
「それにしても……」
 関羽はそういいながら、均実の腕を掴んで引き寄せた。
 その場にとどまることもできず、均実はバランスを崩し、関羽にむかって倒れこんだ。
「わっわ、な、なんですか?」
「……やはりな。邦泉殿、香を焚き始めたのか?」
 均実が倒れこんだところで、関羽がビクともするはずがない。慌てて離れる均実に関羽はそんなことを聞いてきた。
 さっきから気になっていたのだが、ふいに均実が動くたびにいい香りがする。
 確かめるために抱きしめてみたのだが、確かに均実の髪から微かな香の香りが漂ってきた。
 関羽の問いに答えたのは均実ではなかった。
「やっと決まったのです。まったく邦泉は好き嫌いが激しい。」
「以前からさまざまな香を試させていたのですが、気に入ったものがないと、いままで焚かなかったのですがね。」
 二夫人が笑いあいながらそう言った。
 均実はその言葉にはあとため息をついた。
 実は徽煉が関羽のところに行っている間、均実はこの二夫人に香攻めにあったのだ。
「今日こそは決めてもらいますからね。」
 と断言されては、今までのらりくらりと避けてきていたというのに決めざるえない。
 下邳にいたころから言われていたのだから、かなり待ってくれたといえるだろうが、均実にとっては香をたくのがどうも性にあわない。
 なんとか今回もうまく逃げようと思ったのだが、無理だったのだ。
「ほう……いい香りだ。」
「雲長殿もそう思われますか?」
「はい。邦泉殿によくあうと思います。」
 仕方が無く決めた香は、甘ったるい匂いはほとんどしないもので、どちらかというと草原の匂いといった感じのする清々しいものだった。
 関羽がこちらを見つめて微笑むのに、なんとなく気恥ずかしさを感じて均実は顔をそらした。
 自分の体の匂いのことなど、話題にしないで欲しい。
「雲長殿……あまり誉めないで下さい。奥方様たちの新しい香を試させられるのは、もうウンザリですから。」
 均実は香攻めがどうやらよほどトラウマになっているらしい。
 その言葉に関羽が苦笑していると、曹操からの使者がきたという知らせがあった。
「宴の誘いでしょう。それでは私はこれで失礼します。」
 関羽は夫人らにそういうと、庭園を出て行った。
「まったく歯がゆいこと。」
「もっと積極的に行けばいいのに……」
 その後姿を見送りながら二夫人がつぶやいた言葉は、均実には届かなかったらしい。
 着物を着替えてくるために一礼をし、夫人らの前からもう姿を消していた。
 どこまでも鈍感な均実に、徽煉は呆れを通り越して感心していた。
「あれほどまでに自分を好いてくれている殿方がすぐ側にいるというのに、邦泉はなぜ気付かないのかしら?」
「私には雲長殿が憐れで憐れで……。」
 夫人らも徽煉と同じ感想をもっているらしい。
 机に新しい菓子をもった器を徽煉がおくと、そんな会話をしていた。
 関羽の苦悩は均実にはいわなかった。
 だがこの二夫人に隠せるわけもない。
 隠しておいてやりたかったが、徽煉には不可能な努力だった。
「他に想う方でもいるのかしら?」
 甘夫人が名案を思いついたというように声をあげた。
 それに糜夫人は首をかしげる。
「そうねぇ……。あまり邦泉の性格上、なさそうだと思うのだけれど……。
徽煉、心当たりはないのかい?」
「わたしにはありませんが……」
「では普通の会話を装って、聞いてみてくださいな。」
 拒否不可の命令形で糜夫人がいうのに、徽煉は気が進まないが歯向かえなかった。
 だが徽煉もそういわれれば、その可能性もなきにしもあらずであることに気付いた。
 たぶんいないと思うけれど……
 徽煉から見れば、均実には恋をしている女性独特の色気が微塵も感じられない。
 しかし命令を実行しなければ、夫人らは納得しないだろう。
 しばらくして着替えた均実がこちらにやってくるのを見計らい、まず徽煉は夫人達に話を振った。
「関羽殿も独身を貫き続けていますが、誰かと結婚されるつもりはないのでしょうか?」
「さあねぇ……誰かいい人がいればいいのだけれど。」
「こればかりは関羽殿ご自身が決めることですしね。」
 あたりさわりのない返答を夫人らは返す。
「邦泉はどう思う?」
 均実が机にたどりついたのを確認して、徽煉は均実にも聞いてみる。
 均実は困ったように笑った。
「私にはわかりかねます。」
 おいおいおいおいおいおい……本気で雲長様の気持ちに気付いてないのか……。
 改めて感心しながら質問を続ける。
「意中の人もおられないかな?」
「う〜ん……。いないんではないですか?」
 いや、いるから。目の前に。
 本気で突っ込みたくなるが、ここはこらえる。
「そうだ。邦泉は好きな方はいないの?」
 今思いついたかのように言ってみせた。
「いませんね。」
 即座に答えを返してくる均実に、夫人らは顔だけで苦笑した。
 まあそのように返ってくるだろう、と半ば予想がついていたからだ。
 均実は日本にいたときも、男の子とはただの友達関係だけで、恋人になったことはなかった。それは均実が特別に誰かを好きだと思うことがなかったからでもある。
 というかどういうのが「好き」なのか、均実には理解できなかったのだ。
 本やドラマではその人のことを恋焦がれるように思い続けたり、また気になって仕方がなかったりというのを「好き」として描いているのをよく見る。
 そういうのが「好き」というのなら、均実は全く思い当たるものを感じたことなどなかった。
「気になる方も? ほら、誰か一人ぐらいいるでしょう?」
 徽煉の執拗な質問に均実は一瞬眉をひそめた。
「何かあったんですか?」
 さすがにおかしいと気付いたのだろう。
 徽煉はそこで言葉をとめ、夫人らのほうをみた。
「そうねぇ……。徽煉からあなたが先ほどのような格好を好むのだと聞いて、気になる殿方がいれば、そのようなこともないのではないか、と話していたのですよ。」
 糜がそういうと、甘も同意するように頷いた。
 まあそれならわからなくもないか……。
 均実は納得した。
 こちらの女の人は今均実が着ているような、ずるずるとうざったい格好(均実談)をまったく苦には思っていないらしい。
 それでは均実の考えも理解できないだろう。
「とりあえず邦泉の周りの殿方を一から考えてみませんか?」
 均実が徽煉の態度への不信感を解いたころを見計らって、糜はそう言った。
 今一番近くにいるといえば、関羽だ。
「そうねぇ……。まずは雲長殿のことはどう思いますか?」
「優しくて頼りがいのある方だと思いますけれど……特別に好きかといわれると、よくわかりません。嫌いではないのは確かですけれど。
 ……それにしても恋愛対象にするには、歳が離れすぎていませんか?」
 考えるようにして上に視線をやりながら、均実は言った。
 一緒にいて心臓が破裂しそうなほどのドキドキというのはない。どちらかというと落ち着いた気になる。泣いているのをみられたせいか、それほど一緒にいるときに気をはっていないからかもしれない。
 均実の答えに年長三人は顔を見合わせる。
「そうですか? 離れているとはいえ二十程度でしょう?
 その程度の年齢が違う夫婦などいくらでもいますよ。」
「え、そうなんですか? へえ……、まあ日本でもいないことはないですね。」
 すこし文化の違いに驚いた均実だが、納得できなくもないようだ。
 その言葉に糜は黙って頷いていた。
 好きになる可能性が無い、というわけではなさそうだ。
「他には? この屋敷内で邦泉と関わった殿方といえば、李哲殿か?」
「ははは、李哲殿ですか? そういえば男性でしたね。」
 結構失礼なことを言っているのだが、均実は気にしていなかった。
 李哲とは屋敷内で出会ったときなど挨拶をしたりする。いろいろと用意を頼んだりして世話にはなっているが、均実は仕事上のつきあいとしか考えれていなかった。それに彼は仕事に対してはしっかりしているが、性格の面では少々頼りないところがあり、均実にとっては余計そういう対象にはならなかった。
「甘海殿というのはないでしょうね。」
 少し笑って徽煉がいう。
「ないない。ありえませんね。」
 歳が離れている結婚が珍しくないとはいえ、甘海は均実にとってはお祖父ちゃんぐらいだ。恋愛感情というものをさすがにもつことはない。
「甘海殿とは?」
「ああ、邦泉のことを連れてきた私の知人です。」
 聞いたことがない名前がでてきたので、夫人らは尋ねた。
「諸葛家の執事のはずですよ。ねぇ、邦泉?」
「はい。私を拾ってくださった方が甘海殿に頼んでくださったので、私は徽煉殿にお会いできたんです。」
「ああ、隆中でのことですね?
 そうだ。荊州で出会った殿方はいなかったのですか?」
「荊州で……ですか?」
 荊州の中の一つの街である隆中では、均実は基本的に畑仕事と乗馬の練習と、あとこちらにきてすぐのころ、怪我のため安静にしていたぐらいである。
 出会った男性といえば亮に悠円、庶とか州平などの亮の友達であるが……
 あちらでは悠円と庶以外の人物には男だと思わせていたので、そういうふうなことを考えることはなかった。
 だからといってその例外である二人も恋愛対象ではなかった気がする。悠円は弟のような感じだったし、庶も冗談の言える兄のような関係だった。
 すこし思い出した人の数が多かったから黙りこんでいた均実に、甘が目を輝かせて言った。
「誰か気になる方がいるのですね?」
「いませんよ。皆、よい友人ですし。」
 均実が隆中で男として暮らしていたことなど、甘は知らないのだから納得しない。
「いるのでしょう? 隠さないでくださいな。」
「いや、ほんとに隠してなんか……」
「確か今荊州の諸葛家で当主をされているのは、二十歳を過ぎたか過ぎないかという若旦那だと聞いたことがありますよ?」
 亮のことだろう。どこから聞いた噂かは知らないが、正確な情報であるため均実も否定できない。
 煽るようにいう徽煉に、実際煽られた甘がより誤解をふかめた。
「では邦泉とほとんど年も変わらぬではありませんか!」
「ですから……」
 勝手にヒートアップする甘のテンションに、歯止めを利かせることなど均実には無理だ。
 助けを求めるように糜をみる。
 苦笑する糜は甘に落ち着くように言った。
「邦泉は否定しているではありませんか?」
「ですが……」
「ねえ? 邦泉。
その方のことはどうとも思っていないのでしょう?」
 未だ食い下がろうとする甘を放っておいて、糜は均実に言った。
「どうともっていうか、私を拾ってくださったことに感謝してますけど……」
「ああ、そうね。それは当たり前だわ。それ以上にということよ。」
「それ以上……ですか?」
 亮のことを思い出すと、隆中を旅立つときのあの琵琶の音が耳に戻ってくる。
 そしてあの星空の下で話したこと……
「少し……苦しいです。」
「え?」
 均実が言った言葉に糜は聞き返した。
「亮さん……ああ、日本では敬称に様のかわりにさんとつけるんです。初めて会った時からそう呼んでいたので、変えるのに違和感があるんでこう呼んでるんですが……。
亮さんは誰よりも優しくて、それでいて自分をおさえることができる強い人なんです。こちらのことがまったくわからないような私を、彼は家族のように受け入れてくれました。その上、私のわがままにも付き合ってくれて……」
 懐かしむようにいう均実の言葉を誰もさえぎらなかった。
「私は亮さんを尊敬しているんです。でもその優しさが優しすぎるような気がして……、彼のことを考えると少し苦しいような気がします。」
 あの星空のしたでの彼の表情。あれは……優しすぎるがゆえの痛みに耐えている顔なのではないのだろうか。
 そんな風に今となっては思えていた。
 あの痛みを自分があたえたのではないかと思うと……苦しい。
「まあ恋愛感情ではありませんけれどね。」
 均実は自分の話で周りが暗くなったのを感じて、慌てて明るくそう付け足した。
 話を聞いた三人はしばらく黙っていたが、糜が口を開いた。
「邦泉……あなた」
「失礼します!」
 突然割り込んできた声にふりむくと、関羽が慌てたようにこちらにやってきていた。
「雲長殿、どうかされたのか?」
「実は……邦泉殿にも宴に参加していただきたいのです。」
「はぁ?」
 突然のわけがわからない要請に均実は思わず変な声をだした。
「さきほどの曹操殿からの使者が『沛から関羽殿の馬に共に乗っていたご婦人も、ぜひご一緒にいらしてください』と言われて。」
「な、なんで!」
 曹操は均実が関羽の馬に乗っていたことなど知らないはずだ。
 関羽は列の後ろのほう、曹操は前のほうをそれぞれ歩いていたし、沛からは関羽は曹操に呼び出されることもなかったのだから。
「許都の民の噂のせい……ですね。」
 徽煉がそういうと関羽が黙って頷いた。
「それが曹操殿の耳にも届いてしまったらしい。」
「ええええ、だ、だって私はただの侍女なのに!」
「邦泉殿には申し訳ないが、わしは敗将の身。曹操殿の言うとおり行動するしかない。」
「一緒に行ってさし上げなさい、邦泉。雲長殿のお立場を悪くするようなことはできません。」
 そう関羽と糜にいわれ均実はうっと詰まった。
 曹操の命令を関羽は拒むことができない。
 夫人らのことを考えると曹操の機嫌を損ねさせるわけにはいかないのだ。
 均実が迷っているのをみて、関羽は頭を下げようとした。
 それをみてまた均実は慌てる。
「や、やめてください。いきます。一緒に行きますから!」
「すまぬ……」
「やめてくださいってば!」
 均実がそういうのを見て夫人らは徽煉に支度を手伝うようにいい、二人を下がらせた。
「邦泉殿には迷惑をかけるつもりはなかったのですが……」
 関羽がそういうのに二夫人は困ったように目を見合わせた。
「雲長殿……邦泉はもしかすると好きな方がいるのかもしれませんよ。」
「え?」
 驚いたように顔をあげた関羽に糜は思案しながら言った。
「雲長殿が使者に会われている間に話していたのです。どうやら邦泉も自分の気持ちに気付いていないようですが……」
「……誰なのですか?」
「荊州が隆中に居を構える諸葛家当主、名を亮というらしい。」

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