手にしている書物の文字を目に映していた。 書物といっても竹に文字が書かれたものだ。紙は高価なので公式な文書や、すぐに破棄できるような密書に用いられている。 ずっと同じ竹を持っていたので、体温で竹が温まってしまっている。 それでも関羽はそれを持っていた。 何度読んでも内容が頭に入らない。 昨日のことばかり思い出されて、読書に身がはいらない。 いっそやめてしまおうかと何度も思ったが、少しでも気を晴らしたいと竹簡から手を離すことができなかった。 均実が泣いているのを見るのはあれが二回目だった。 以前泣いていた時とはまた違う夢をみたのだろう。沛で彼女が自分を呼んだ名前はこちらのもののようだった。均実はこの国にきてからそう長くはないと言っていたのだから、彼女の親友とは日本という国の者だろう。その名ではおそらくない。 悩みを外にださぬのに、なんとも悩みの多いことか…… 関羽はそう思い目を閉じた。 涙が綺麗だと思った。だがそれを流す悲しげな顔を見たくなくて抱きしめた。 香を焚いていないのか、抱きしめても何の香りもしなかったが、やわらかく華奢な体は今にも壊れそうに思えた。女にしては背が高いはずなのに、自分の腕でも彼女の体はすっぽりと覆うことができた。 守りたい。 そう思った。 命令も何も無い。それでもそう思えたのは初めてだった。 体も心も、彼女の全てを。 だが彼女は自分が一瞬落ち込んだだけでも、それを察知するほど鋭い。 そして外に出せない悩みをまた増やすのだろう。 昨日、均実がこちらを期待にあふれた目で見つめてきた姿を思い出す。 彼女はわかっているのだろうか、いやわかるまい。何故自分が武術を教えるのをこばんだのか。 関羽は目を開き、窓から入ってくる風に吹かれながら大きな空気の塊を吐き出した。 「雲長様?」 いつの間に入ってきていたのか、徽煉が部屋の入り口付近に立っていた。 「何かあったのか? 今日は庭園にはいかぬといっただろう。」 「……まあ。」 関羽に見られ徽煉は曖昧に笑みを浮かべると、机にむかっている関羽に近づいた。 「読書をされていたのですか?」 机におかれている竹簡の束をみてそういったが、すぐ怪訝そうな顔をした。 その竹簡は何巻にもわたる長篇のものだが、関羽が持っているそれが始まりの物だとわかったからだ。 自分が訪ねてきてからかなりの時間が経っているというのに、一冊すら読めていないのだろうか? 「そのつもりだったのだが……。集中できなくてな。」 徽煉の表情に気付いたのだろう。関羽はごまかすようにそういって、持っていた竹簡を机に戻した。 そして気付かれないように小さく息を吐いたのだが、徽煉はそれに眉をあげた。 「……何か気にかかることでも?」 徽煉は関羽のすぐ横に立ったまま、彼の返答をまった。 だが関羽は答えない。 ただ窓の外から入ってくる風に目を細めた。 耳を澄ませば屋敷の前を行きかう人々の喧騒が聞こえてくる。 何もいわないまま、しばらく時が流れた。 関羽は席を立ち、窓に寄った。 「……徽煉殿はここに何をしにこられたのだ?」 さきほどの問いに関羽が答えるつもりがないのだと、徽煉にはわかった。 それならそれで聞き出すまでだが。 「……感謝していただきたいですね。」 「何?」 「本当なら奥方様がこちらにこられるおつもりだったのです。なんとか止めましたが。」 苦笑を含みながら言う徽煉の言葉に、関羽は絶句した。 「……何故?」 「雲長様の心が乱れる原因と、深い関連があると思いますよ。」 まっすぐにこちらを見つめる徽煉から、つい関羽は目をそらした。 自分より年上のこの侍女は、全てを見通しているのではないかと思えた。 そんな関羽の様子をみて徽煉はふ、と笑みを浮かべた。 「そのような表情をしていると、まるで少年のようですね。」 「……わしはもう子供ではない。」 「歳の上では。体だけが大きくなったようですよ。」 「徽煉殿にはかなわんな。」 武芸の上では自分が師であるが、この弟子は人生の師である。どちらかというと姉のように感じることがある。自分より長く生き、そして劉備の奥方つきの侍女などをやっているのだから、いろんなものを自分などより多く見てきたのだろう。 何故徽煉が自分を再度訪ねてきたかなど、とっくにわかっていた。 自分が庭園にいかないと言ったからといって、徽煉がいかないわけではない。 そこには均実がいるのだから。 「邦泉殿はどうしておられた?」 「今の雲長様とあまり変わりませんよ。考え込んでは自分の世界に入り込んでいます。」 関羽がそのことを問うとわかっていたのか、徽煉はすぐに答えをかえした。 「奥方様はその邦泉の思案するものの答えを、雲長様に聞いてくるようにと私をここによこしたのです。」 「……薙刀のことか……?」 「雲長様の想いに邦泉は気付いていませんからね。」 ぎょっとして徽煉をみた関羽に、徽煉はころころを笑った。 「もしかして気付かれていないと思われていたのですか? 奥方様たちも知っておられます。知らないのは邦泉ぐらいです。」 「あ、ああ……そうなのか。」 どうもこういうことには慣れていない。 暇があれば武芸を磨き、書物をよむ生活をしてきていた。 色恋沙汰はまったく疎い。 「許都の民ですら気付くほど、雲長様は邦泉をかまっておられる。これで気付かない邦泉のほうが私には驚きです。」 徽煉の言葉に関羽も苦笑した。 自分以上に、意中のあの娘はそういうことに疎いのだ。 だがそのようなところにすら愛しさを感じる。 「教えていただけますか?」 徽煉が笑みを収め、そう言った。
「徽煉殿は邦泉殿をどういう女性だと思っておられる?」 しばしの沈黙の後、関羽はそう言った。 何を言い出すのかと一瞬怪訝に思ったが、関羽の表情が至極真面目だったため、徽煉は答えを返すために考えた。 徽煉と均実は甘海の紹介で出会った。 だから均実のことをどれほど知っているかといわれれば、知らないことのほうが多いというのが正しい。日本から来たこと、諸葛家に拾われたこと。そういったことはここに着いてから初めて知ったのだ。 性格を言えというのなら一番に思いつくのは、かなり変わっているということだ。 均実は自覚がないようだが、彼女の行動は奇妙なものばかりだった。 例えば特に外にでるということが無いような屋敷の生活だというのに、必ず毎日、丹念に濡れた布で体を拭く。均実は日本にいたころ、毎日シャワーか風呂に入っていたのだが、入浴という習慣はここにはあまりない。とはいえ体に染み付いた習慣というのは消えないもので、一日が終わるころには体が綺麗でないと落ち着かず、仕方なくそうしていたのだが、これが徽煉には潔癖症かと思えるほど綺麗好きに見えた。 だがそうかといって汚れたものに触れるのに均実は何の躊躇も無い。以前作っていた扇風機もどきのときなど、手が油まみれになっていて徽煉は眉をしかめたものだ。 それに機会あらば男装に着替えようとしているのも知っている。 徽煉が目を光らせているし、夫人らの前では女の格好も仕方が無いと思っているのか、しっかり女物の着物を着ている。だが下邳から共にやってきている李哲が、ここでも屋敷内の物品の管理をしているのだが、彼に頼んで男物の着物を数着そろえさせているということも徽煉の耳に入ってきていた。 いつまで経っても女物の着物には慣れるつもりがないようだ。 「一言で言えば変な子ですね。まあ違う国から来たからということが大きいでしょうが。そのわりにはこちらの風習を受け入れ、生活できているので順応性はかなり優れていますね。それでも自分がやりたいことや、考えは貫こうという強さというか、頑固さをもっていると思います。」 別に諌めようとは思わないが、それでも時々その行動に驚くことがある。 「それに度胸もありますね。頭もいい。沛では丸腰だというのに、武装した男五人に向かって啖呵をきっていましたよ。」 その思い切りの良さには徽煉も感心するところがある。あのとき均実が五人に示した「じいしょっく」なるものに殺傷能力はまったくないらしい。 だがあそこで均実がはったりをかまさなければ、今頃夫人達が無事だったかも危うい。 それをあの緊迫した場面で察知し、行動に移せるのだから大したものである。 「そうか……それが徽煉殿から見た邦泉殿なのだな。」 関羽はそういい、視線を床に落とした。 「雲長様はそうじゃないと思われているのですか?」 「度胸があるとか、頭がいいというのは認める。変わっているというのも確かだろう。」 それらは、特に最後の点は激しく同意できる。 「それでは何が違うのですか?」 「……邦泉殿は強いだろうか?」 続きを促す徽煉に、関羽は首を横に振った。 「強くなどない。いや確かに強さを持ってはいる。だがそれ以上に……わしは邦泉殿が脆く感じる。」 そう言って自分の両腕を少しあげてみた。 この腕につつまれた均実を、あの時あと少し力をこめるだけで壊れそうだと感じた。 どれだけ彼女は他人のことを気遣うつもりだろう。 順応性があると徽煉は言ったが、それは周りのことを考えているから。周囲の人間に心配をかけずに背伸びをするから。だからではないのか? 気付かなければ良いことにまで気付くほど鋭く、また頭が良いから、余計危なっかしく思える。 そんな本人ですら気付いていない無理を、そしてけして心が無傷ではすまないだろう無理を、続ければいつか……。 その前兆が彼女のみる悪夢なのではないのか? 「彼女が武術を覚え、今以上に強くなればどうなるか? 背伸びをやめられないのなら、これ以上強くなってはいけない。彼女が守ることができるものを増やしてはいけない。 自分の限界を超えても、きっと邦泉殿は気付かない。そしていつか彼女は…壊れる。」 「それが邦泉に薙刀を教えない理由ですか。」 徽煉の言葉に関羽はうつむいたまま頷いた。 「邦泉殿に危険がせまったなら、わし自らが彼女の側に行き、助ける。 だから無理に強さを手に入れる必要はない。わしは邦泉殿の心を守りたいのだ。」 本当なら教えてやりたかった。 彼女の望みなら何でもかなえてやりたいと思った。 だがそれが彼女を壊す原因になるかもしれないと思うと、教えることなどできなかったのだ。 徽煉が何も言わず黙っているので、関羽は彼女がどういう表情で自分を見ているのか気になりだした。 そっと顔を上げると…… 「……何故笑っている。」 徽煉の顔を見て、関羽は憮然としていった。 何もいわないと思ったら、声を殺して笑っていたらしい。 口元に手を当て、こらえようとしているのだろうが、目がそして体全体が笑っている。 「いえ……なんと不器用な、と思ったもので……」 笑い声がもれそうになる口から何とかそう言葉をつむいだ。 なんと拙い愛情表現だろうか。 昔はそれなりの容貌をほこり、色恋沙汰とて一度や二度ではなかった徽煉はその初々しい反応につい笑ってしまった。 もっと違う断り方をすれば、均実だとて考え込まずにすんだし、夫人らまで巻き込むことはなかったろうに。 まあ夫人達は巻き込んでもらって嬉しそうだったが? 「まったく……相手に気付かせることなく守ろうとするなら、もっと言葉に気をつけてくださいよ。」 「は?」 「そう……私が男だという疑惑まであがったではないですか。」 「男?」 「くっくっく……ふふ」 今度は声をたてて笑い出した徽煉をみて、関羽はどうしていいのかわからなかった。 しばらくして笑い終えると、徽煉はうって変わって落ち着いた声を発した。 「雲長様の考えはわかりました。ですがそれでもやはり、邦泉に薙刀を教えることに不都合はないと思います。いえ、それどころかえって好都合なのでは?」 関羽が徽煉の言葉に方眉を上げた。 徽煉はとりあえず薙刀を教えようとしない理由というものはわかったのだから、任務終了ということでこの部屋をでていってもよかった。だが目の前の不器用な男に助言でもあたえてやろうという気になったのだ。 というかこの状況のまま、二夫人にさっきの理由を話してもこじれるだけなような気がする。 「心の問題だといわれたが、そんなもの問題ではないでしょう。 雲長様が側で見守ってあげればいいことではありませんか? 邦泉が無理をしないように。」 彼女の側にいたいと思っているのでしょう? 関羽は徽煉の瞳がそういっているような気がして頬をゆがめた。 「だが……」 「それに今のままではただの友人で終わりますよ。」 それでも渋ろうとする関羽に、畳み掛けるように徽煉はいう。 「はっきり言わせていただきますが、邦泉は雲長様のことをまったく異性として意識していません。邦泉は奥方様付きの侍女、雲長様は殿の部下。本来なら関わることもない相手なのですよ。今はいいですが、将来、殿の行方がわかり合流できたなら、必然と会う機会はなくなります。 ですが薙刀を教えるという口実があれば、会うことも叶うでしょう。 邦泉の願いも叶い、雲長様も無理に理由を作らず邦泉に会える。一石二鳥ではありませんか?」 そういって徽煉は、奥方様の安全も強化されるから、一石三鳥かと考え直したがそれ以上言葉を並べるのはやめた。 関羽が徽煉の言葉に考え込んでいるのがわかったからだ。 腕を組み、小さく唸っている関羽をみて、徽煉はまた噴出しそうになった。 素直というのは美点だが、時には滑稽にみえるもののようだ。 「……徽煉殿はわしが邦泉殿に薙刀を教えることに賛成なのか?」 「正直いいますと、邦泉が戦えるようになれば心強いですね。」 夫人達に気に入られているため、均実は夫人達とずっといるといってもいい。 沛での事件も本解決していない現在。夫人を守るモノは一つでも多いほうがいいのだ。 「それに個人的には雲長様のこと、応援していますしね。」 あの二夫人は面白がっているようだが。 それを口に出すことはしないが、それでも応援しているのは本当だ。 いい年なのだから関羽もそろそろ身を固めるべきだろう。 それでもなかなか決意しようとしない関羽に徽煉は首を横に振った。 「邦泉のこと。大切に扱いすぎなのではないですか?」 「男が女を大切に扱うのは当然ではないか?」 「女は雲長様が思っておられるほど弱い生き物ではありませんよ。 ……あまり買いかぶっていると、いつか痛い目をみますよ?」 関羽はその言葉をうけて少し顔をしかめたが、心を決めた。 「わかった。……邦泉殿に薙刀を教えよう。」
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