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均しき望み 作者:奇伊都

第32回   唯一の協力者

 いつもどおりの庭園での談笑の時間。
 横に立つ徽煉がこちらをちらちら見ている。
 均実はその視線に気付かず、じっと地面を睨みつけている。
 結果、二人の間に沈黙が流れることになるが、この場でそれが長くつづくわけはない。
 その要因となる二人が、侍女二人の奇妙な空気を感じ取っていたからだ。
「どうかしたのですか? 徽煉、邦泉。」
「おかしいですよ? いつもなら何も言わなくても、菓子の用意をしてくれるというのに。」
 二夫人がやはり沈黙を破った。
 徽煉ははっとして慌てた。
「申し訳ありません。」
 だが均実は夫人らの言葉すら聞こえていないようで、動こうとしない。
 これには夫人らも驚いた。
 徽煉が菓子――甘味料が貴重なので、砂糖を使ったものというわけではなく、果物のことである――を準備しようと動いた。だがそれを制し、糜夫人は均実を示した。
「彼女、どうしたのですか?」
「私にもよくわからないのですが……雲長様に関係があるのではないか、と。」
「雲長殿に? そういえば今日は屋敷にいるはずですね。姿は見えませんが?」
「はぁ……」
 促され徽煉は先ほどあったことを話し始めた。
 関羽はこの許都についてから、ほぼ毎日というように曹操の宴に呼ばれていた。
 まあ曹操にしてみれば、関羽を厚遇して、心からの忠を抱かせたいという思いがあったからなのだが、一向に関羽はその思いに応えることは無い。
 かなり熱心なようで、さまざまな贈り物を宴のたびに関羽は持って帰ってくる。この前など関羽の馬が、彼が乗るにはあまりにも貧相な体つきをしていると、赤兎馬という馬まで贈ってきた。
 この馬はとても有名で、均実がそのことを知ったとき、三国志演義にも書いてあったと思った。もともと董卓のものだったというその名馬は、董卓が敵の将であった呂布を仲間に引き込むために与えたことがあるほどだった。それを曹操が関羽に贈ったという事実には二夫人達もヒヤリとした。呂布と同じように関羽も寝返らせようとしているのだと不安になり、わざわざ関羽の心を確かめるために義兄弟の誓いを忘れていないか聞くほどだった。
 こんな風に関羽は自分が宴にいくことが、二夫人達に心労をあたえるのを知っていたので、宴を断るわけにはいかないが、宴がないときはこういう談笑の時間に、できる限りこの庭園にやってきていた。
 均実の話を聞きたいからというのもあったが、それ以上に二夫人のことを労わったためであった。
 徽煉はそのことをわかっていて、今日は宴があると聞いていないので関羽は庭園にくるものと、彼の部屋にこれから始まることをさきほど伝えに言ったのだが……
「……すまぬが、今日中に済ませておきたい用事があるのだ。奥方様には謝っておいてもらいたい。」
 関羽は徽煉の姿を見るなりそう言った。
 徽煉は驚いた。
 用事とは何なのか、言及してもあやふやに答えを返すだけである。関羽がそんなはっきりと理由を述べずに来ないなどと、夫人らを不安にさせるようなことをするとは思えなかったから何度も誘ったのだが、頑として首を縦には振らなかった。
 釈然としないながらもとにかく庭園にやってきてみると、今度は均実の様子までおかしい。
 これは関連があるとしかいいようがないだろう。
「なるほど……昨晩何かあったのでしょうか?」
 昨日宴から帰ってきた関羽がこの庭園にやってきたときは、二人とも態度におかしいところなどなかった。
 糜がそうつぶやくのをきき、そういえばと甘が口を開いた。
「昨夜遅く、話し声が聞こえた気がしたけれど、もしかするとあれは雲長殿と邦泉だったのかしら。」
 夜中に無性に喉がかわき、目をさました甘夫人は女官を呼び、水を頼んだ。
 だが夜遅く暗いため、水がめの場所がわかりにくかったのか、女官はなかなか帰ってこない。
 つい待ちきれず、自分の部屋の入り口までいき、女官が帰ってくるのを待っていると、何か聞こえたような気がした。
 だがこんな時間、この屋敷内で自分以外に起きて、話をしている者などいないだろうと思い、気のせいだと考えたのだが……
「あのときもっと耳をすませばよかった……」
「……それってその……つまり夜に二人が逢瀬をしていたってことですか?」
「そんな艶のあるものかどうかはわからないが、会っていた可能性は高いわね。」
 甘夫人の情報が正しいかはわからないが、一晩何もせず過ごしただけで、関羽と均実の様子がこれほど変わるとは思えなかったので、糜はそう言った。
「ですがそんな遅くに会って何をしていたのでしょう?」
「さあ…? 雲長殿が想いを告げられた……というわけでもなさそうだが。」
「では痴話げんかですか?」
「痴話げんかをするほどの仲ではまだないでしょう。ただ何か互いに気まずくなるようなことがあったのかもしれないわ。」
 二夫人は顔を近づけあい少し声を低めたが、均実は最初から彼女たちの声が耳にはいっていないので、あまり意味はない。
 その様子に徽煉は苦笑した。
 どうもこの二夫人は関羽と均実のことを面白がっている節がある。
「まあ実際、本人に聞いてみればわかることでしょう?」
 徽煉がそういうと、均実をみた。依然として地面を睨みつけている。
 これほど自分のことを目の前でしゃべられているのに、全く気付かないとは……
 すこし呆れながらとりあえず、目の前で手をひらひらさせてみた。
「………」
「……反応がありませんね。邦泉?」
「………」
「邦泉っ!」
「………」
「…えぇと確か……均実っ!」
 徽煉の呼びかけに均実はピクッとやっと反応した。
「え?え? 呼ばれました?」
「さっきからずっとね。」
 徽煉はため息をついた。
 均実は徽煉から目を離すと、そこに二夫人がいることに今気付いたようだ。
「あ、申し訳ありません。つい考え事をしてしまっていて……」
「雲長殿に何か言われたのですか?」
 糜夫人がそう言ったのをうけて、均実は目を見開いた。
 やっぱりといった空気が流れる。
 均実はまた地面を睨んだが、今度はすぐ顔をあげた。
「徽煉殿には特別な何かがあるのでしょうか?」
「は?」
 一体どういうことになってその疑問がでてきたのかわからず、徽煉は口を開けた。
 均実にしてみればあれからずっと考えていたのだ。何故関羽は徽煉には武術を教え、均実には教えてようとしてくれないのかを。
「すごい才能があるとか、もともと何か習っていたとか、実は男だとか……」
「邦泉……一体あなたが何を言いたいのかまったく理解できないんだけれど、ちゃんと一から話してもらえませんか?」
 均実の最後の言葉に一瞬ピクリと徽煉のこめかみが上がったが、糜夫人は彼女が何か言う前に均実の言葉をさえぎった。
 均実には今、徽煉のそんな小さな変化になど気付く余裕があるはずもなく、ひそかに徽煉が怒っている気配すら感じ取ってはいなかった。
「昨日、夜……この庭園で雲長殿に会ったんです。」
 均実は一瞬言うかどうか迷ったのだが、純の夢を見て飛び起きたというところを省いた。とりあえずそのことは今、関係ないと思ったからだ。
 言わなくて正解だろう。夢を見て泣いていたのを関羽に慰められたのだ、なんて二夫人が聞けば、二夫人がネタにするのは目に見えている。
 そんな考えに気付かず甘はほらね、というように糜を見た。
「それで?」
「……それで私も徽煉殿のように戦えるようになりたいと思っていたので、薙刀を教えてくれないかと頼んだんですけど……断られたんです。」
「何故?」
「それが……よくわからないもので……。」
 それを考えこんでいたということか。
 糜は均実のその困惑したような言い方にやっと納得した。
 均実は考えることが好きだといっていたが、そのために考えている間は全く周りがみえていないようで、話が一段落した今もまた考え込み始めたようだ。
「邦泉、あなたが……」
 そういいかけて、また自分の世界に閉じこもってしまっている均実をみて、糜はため息をついた。
 どうやら意識している間は、均実は邦泉という名を自分のことだと認識するようだが、こういう状態になると他人の名前のように聞こえるらしい。
「均実? 聞いていますか?」
「え、あ、はい。」
 均実はそう呼ばれることでなんとか覚醒した。
「あなたが雲長殿にその理由を聞きはしなかったのですか?」
「聞いたのですが……、女性はそんなことする必要はないとしか……」
「それで私のことを、実は男であるなんていったのですね。」
 徽煉がそこでさっきの均実の言動を理解した。
 均実はきょとんとしていたが、数秒後、徽煉に対してかなり自分が失礼なことをいったのに気付いた。
「あっ、す、すみません。そんなつもりじゃ……」
「いいのよ。気にしてないから。」
 徽煉はそういって苦笑した。
 それを横目に二夫人も考え込み始めた。
「確かに女性だからという理由では、徽煉の説明がつかないわね。」
「邦泉を危険な目にあわせたくないということではないでしょうか?」
「ですが沛であったようなことがもし起こったらと考えると、教えておいたほうが安全だと雲長殿なら判断すると思うのですが……。そうだ、徽煉。あなたが邦泉に教えればいいのではないですか?」
 糜夫人がそういって徽煉をみた。
 均実もその言葉をうけて徽煉を見つめる。
 だが徽煉は苦笑したまま首をふる。
「私などの武術の腕では人に教えるところまでいきませんよ。
 薙刀を習うのであれば、完成形に近い雲長様に教えてもらうほうが、邦泉も早く上達するでしょうし。」
 均実はそれを聞いて昨日の関羽の棒の扱いを思い出した。
 確かに流れるような挙措はまったくの無駄がなく、あれが完成形なのだといわれれば、納得がいく。
「そう……ではやはり何故、雲長殿が邦泉に薙刀を教えたがらないのかを知る必要がありますね。」
 糜夫人がそういい甘夫人に目をやった。
「邦泉にいいたがらないとあれば、私たちの出番でしょうか?」
 明らかに面白がってる。
 徽煉はその冷静そうな声の裏に楽しんでいるような響きを感じた。
「そうですね。」
 それに答える甘夫人の声は、隠そうともせず楽しそうだ。
 均実はそんな二夫人を目を白黒させながら見つめていた。
「邦泉はここにおいでなさい。私たちが一肌脱いでさしあげますから。」
 甘夫人はそう言いながら均実を机の前に座らせ、自分達は立ちあがった。
 徽煉は頭痛を覚えそうになり、頭に手をやった。
 どうもこの二夫人はこれから関羽を訪ねにいく気満々のようだ。
「お待ちください。お二人は雲長様に会いにいかれるおつもりですか?」
「当たり前でしょう。家の中の問題を解決するのは女の勤めです。」
 糜夫人はそういったが、その解決しようとする動機がどう考えても面白がっているからとしか思えない。
「雲長様は外側の建物におられます。奥方様が奥を出られるなど前代未聞です。」
 関羽はこの曹操からもらった屋敷を二分した。この庭園を挟んで奥まったところにある建物を夫人らが使えるようにし、外側の建物に普段はいるようにしていた。
 誰かの妻になった女性が割り振られた建物から出ることなど、普通ありえない。
その上今は、下手に奥方達が建物をでるのを避けるべきだ。いまだあの沛での事件の首謀者はわかっていないのだから。
 徽煉の言葉に不服そうに二夫人が黙った。
 その様子をみて徽煉は本気で頭痛がしそうな気がしたが、とりあえず彼女達がここからでることだけは回避させる必要があった。
「私が行ってきますから、お二人もここにいてください。」
 徽煉はそう言って何とか二人をこの場に止めたのだった。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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