「っっっっっ!!」 声にならない悲鳴を上げて均実はとび起きた。 どくどくと脈の音がうるさく、体に火がついたように熱い。 荒い息のまま周りを見回す。 許都の屋敷の一室。自分に与えられた部屋の寝台の上。 夢だったのだ、と頭で理解してもまだ純につかまれた足首が痛い気がして、布団を跳ね除ける。 何も足首には巻きついてなどいない。 だがそれでも何かにつかまれていたような感触がまだ残っている。 均実は夢の中の純の焼け爛れた顔を思い出し、手を口にやった。 自分の手が震えているのがわかる。 そうしていると部屋の隅の闇から、さっきの純の声がしてくるような気がして、均実は部屋を飛び出した。 庭園に下りる階段のところで自身を抱きしめる。 庭園全体を月の光が照らしていて、この屋敷の中でいま一番明るいところのような気がしたのだ。 闇があるところにいたくなかった。 「純……ちゃん……」 まだ体は震えている。 自身を抱きしめている腕に何か冷たいものが落ちる。 それが何度も落ちて、やっと自分が泣いているのだと気付いた。 「……邦泉殿か?」 前から声をかけられ、均実ははっと顔をあげた。 そこには関羽が驚いたような顔でこちらをみている。 「どうした? そのように泣いて……」 涙を拭くことすら頭が回らなかった。ただ、ここはもう夢の中ではないのだということがはっきりして、心の奥が安堵するのがわかった。 関羽が心配そうに近寄り、肩に手をかけた。 「……震えているのか? ……怖い夢をみたのか?」 以前沛で均実が寝ているというのに、泣きながら謝罪していたのを思い出し、関羽はそう聞いた。 怖い? ……確かに怖かった。だがそれ以上に…… 「……ん?」 「悲しい……夢だったんです。」 そういって再び均実が泣きそうな顔をしたので、関羽は戸惑った。 「親友の……死んで……しまう夢で……」 そういう均実を関羽はただ抱きしめた。 均実はそうされたことに一瞬驚いたように息を吸ったが、どこか前にもあったような気がする。 「……雲長殿?」 「まだ、震えている。……怖く、悲しく、そして苦しい夢だったのだな。」 優しい声音に均実は大きく頷き、しゃくりあげる。 涙が次から次へでてきて止まらない。 いくら首をふっても焼けただれた純の顔が頭から離れない。 『どうしてヒトが死んじゃわなかったのよ!』 あの夢の中の純が言ったことは、均実が普段思いださないまでも、心の奥底ではいつも感じていたことだ。 どうして私は無事だったんだろう。どうして今生きていられるんだろう。 純の無事もわからないのに……。 最近日本でのことを奥方達に話していた。今日は純のことまで話にだしたので、封じていた不安が夢に現れたのかもしれない。 均実が泣き続けるのを関羽はずっと抱きしめて、背中をさすってやっていた。 しゃくり声は次第に小さくなり、震えも徐々におさまり始めた。 あとは均実の大きく呼吸する音が残った。 「……落ち着いたか?」 「……はい。すみません。」 関羽はその均実の応えにため息をついた。 迷惑かけちゃったな…… 均実はそう思い、関羽の腕の中から出ようと、彼の胸を軽く押したがびくともしなかった。 「あの……?」 「均実殿はいろいろな悩みを普段は隠しているのだな。」 抱きしめたまま関羽はいう。 「隠し、誰にも気付かせないから夢という形で現れる。」 そう……かもしれない。 均実は関羽の言葉があたっていることを認めた。 「……できるかぎり人の力に頼らずに、問題は解決できないか考えますから。そうともいえるかもしれません。」 「そうではない。人を頼るのが苦手なのだろう。」 均実は抱きしめられたままなので、関羽がいまどんな表情をしていっているのかわからないが、狂おしげにため息をついたのはわかった。 「それも違うか。均実殿は人が差し伸べた手を例えつかんでも、それが無条件のものだと考えていないのだな。」 ズバズバといわれるどれもが、確かにそうなのかもしれないと思えることで、均実は何もいえなかった。 それゆえ関羽が自分のことを均実と呼んだのにも気づかなかった。 「わしには謝る必要などないというのに。」 冬の風が軽く二人を撫ぜた。 月の明かりがさえざえと庭園を照らす。 闇が怖いとさっきまで思っていたが、今はこの光が怖く感じた。 まるで全ての闇をなくそうとでもいうかのように、月は不自然なまでに明るかった。 だが不思議と不安はなかった。関羽に抱きしめられていることにも。 黙りこんだまま二人はじっとしていたが、気まずさはなく、逆に心地よかった。 互いの体温を感じ、寒さは感じなかったが、時間が流れるのがいやにゆっくりと感じられた。 「あの……雲長殿はどうしてここに?」 心地よい沈黙に身をゆだね続けるのも棄てがたかったのだが、均実は冷静に働きだした頭が発する疑問を止めることはできなかった。 「……わしか? どうも最近宴続きで体が鈍ってな。体をすこし動かそうと思って庭園におりたのだ。」 均実をつつんでいた腕を解くと、関羽はやっと均実から離れた。 突然冷気が均実をつつみ、均実は一瞬ぶるっと震えた。 それをみて関羽は自分の羽織っていた物を一枚脱ぐと均実にかけた。 「あのっ」 「もうすこし邦泉殿は人に頼ることができるようにならねばならんな。」 関羽がそう優しげな笑みと声でいうと、均実は何も言えなくなった。 そんな均実に満足したのか、庭園の隅に立てかけてあった長い棒を掴んだ。 少し体をほぐすと、何をするのかと見ている均実に話しかけた。 「眠れぬなら見ていけ。大したことはせぬがな。」 そういいながら棒を構え、突いては弾くように動かし、回転させた勢いで後ろにも一突き。足をさばいて横にそれ、円を描くように振るってから、素早く突き。 薙刀の形だろうか? まるで舞踏を見ているような気に均実はなった。 徽煉の薙刀の動きとよく似ているが、こちらのほうが全く無駄がない。 綺麗……。 関羽が一つの芸術作品になってように見える。 数分、その舞踏は続いた。形が決まっているのだろうか、関羽は動きを止めることなく、次々に棒をくり出した。 大きく上に突き上げてから、柄の部分を持ち替え、構えを整えた。 均実はその動きの秀麗さに思わず大きな拍手をしそうになって、今が真夜中であることに気付いて小さな拍手に変更した。 その均実の様子をみて関羽は微笑み、礼をした。 「すごい綺麗でした。」 「はは、わしなどまだまだだ。」 関羽は恐縮でもなく、素直にそう思っていた。 武術は実戦で役に立たなければ意味も無い。 戦に敗れた自分は、本当に未熟であると…… 「……大丈夫ですか?」 一瞬顔をゆがめた関羽に均実は気付いた。 均実の言葉にはっと顔を上げた関羽はまた微笑んだ。 「邦泉殿は……人の心の動きに敏感すぎるのだな。」 「あ、すみません……」 「謝るな、わしにはな。」 関羽はそういいながら棒をもとに戻した。 均実はそれを見て関羽に駆け寄った。 「あのっ、私にも薙刀教えてもらえませんか?」 「邦泉殿に?」 戻した棒を均実がもつのを目にしながら、関羽は驚いていた。 棒を両手で握りしめ、均実は期待をこめてこちらを見つめてくる。 沛で襲われたとき、徽煉が薙刀で夫人らを守っていたというのに、自分は戦力にならなかった。 そのとき思ったのだ。武術を習いたいと。 曹操が警戒しているのか、関羽が何か手をうったのか、それとも一歩も屋敷からでないためか、沛の事件の後、今まで夫人らが危険にさらされることはなかった。 だがこれからもそううまくいくとは限らない。そのうえ関羽は劉備の元へ向かう時、夫人らを連れ、確か関を五つ突破するという荒行をやってのけるはずだ。 夫人らを守るためにも、均実も武器を扱えるようになっていたほうが、何かと便利だろう。 関羽は考え込んだ。 均実が戦えるようになれば、夫人達の安全はより一層守られるのは確かだ。 少し不器用なところがあるが、均実は大抵のことはこなすことができる。物覚えも早く、最初は戸惑っていた侍女の仕事も今ではテキパキとやってのけている。 だから教えることがそれほど苦労するとは思えない。 だが…… 「駄目だ。」 「どうして!」 「邦泉殿は怪我をしているだろう。」 「一月も前のことです。もう治りました。」 あの沛の事件からそれほど時間がたっていたのかと、関羽は驚いた。 均実の動きにもぎこちなさはないし、確かに傷は塞がったのだろう。 だがここで認めてしまうわけにもいかない。 「そうか。だがそうだとしても、女性がそんなことしないでいい。わしが守ってやる。」 「でも徽煉殿は戦えます。」 反論され、関羽は言葉をとめる。 「徽煉殿は……いいのだ。」 「どうしてですか!」 「……」 均実の追及を逃れるいいわけが思いつかず、関羽は均実に背をむける。 「とにかくわしは教えるつもりはない。……今宵は冷える。早く部屋にもどれ。」 「雲長殿っ!」 均実はその背に声をかけたが、関羽がふりかえることはなかった。
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