「う、……肩こった。」 均実はそういって分厚い本にしおりを挟むと、本を閉じた。少し伸びをしながら壁にかかった時計に目をやると、顔をしかめた。短針が一番大きな数字を過ぎてしまっている。 「うわっ……もうこんな時間かぁ。」 部活をやってから家に帰るともう晩御飯の時間だ。 ご飯を食べてから風呂に入って、部屋にもどるともうすぐ眠りたくなった。が、そのまま眠ってしまうわけにはいかなかった。 明日の朝練ではきっと純は本をどこまで読んだか聞いてくるだろうし、その感想も言わなくては納得しないだろう。 急いでやらなくてはいけない課題があるわけではなかったので、机に向かって本を取り出すと延々と今まで読んでいたのだ。 丁度そのとき部屋の扉をノックする音がした。 「何?」 「……均実、まだ起きてるのか?」 扉の向こうから一番上の兄の声がした。 「うん、ちょっと本読んでたらね。」 「明日も朝早く起きるんだろう?もう寝ろよ。」 気配が扉の前から去るのを感じて均実は軽く首を回した。 「つまり中国の戦国時代のお話なのね。」 閉じた本の上に目をやりながら一言で感想をのべた。 漢という国が広く治めていたのだが、その王様がふがいないために王様の側近達が力を持ちすぎてしまった。それでその側近達を倒したあと力を持ったのが董卓という奴。結局その董卓も部下に裏切られて殺されてしまう。 そうして力をもったのが、王様を保護した曹操。王様の印である御璽を手に入れて自ら王様を名乗った袁術、そしてその兄袁紹。荊州の牧である劉表、その他公孫讃などなど……。 まさに群雄割拠という表現がふさわしい時代の話だった。 劉備という一武将が曹操に兵を借りて、袁紹を頼って移動する袁術を蹴散らすことになったというところまで読めた。 均実はもう一度伸びをすると、部屋の天井の電気を消して、机にある小さなライトだけをつけた。部屋は暗くなったが、本を読むのには十分な明るさがある。 布団にもぐりこみ、横になってまた本を開いた。 このまま寝てしまってもいいのだが、次から次へとおこる戦争や政争が確かに面白く、はやく続きを読みたかったのだ。 無事袁術を倒した劉備は引き連れた軍勢を曹操の下に返さなかった。駐屯していたのはもともと劉備が治めていた土地だったので、領民は皆喜んで劉備を迎え入れた。だが曹操から派遣されていた人間が、劉備を暗殺しようと画策をする。これを知った劉備の部下、張飛と関羽は逆にその人間を殺してしまう。部下を殺された曹操は劉備を攻め、これを打ち払ってしまった。劉備、張飛、関羽は義兄弟でありながら、その戦のためにばらばらにわかれてしまう。そのうちの関羽は劉備の妻を守るために、劉備の居場所がわかり次第立ち去るという条件つきで曹操に降服したのだった。 なんか……苦労性だなぁ、関羽って…… 均実はそんなことを考えながらページを繰った。
広い場所だった。 あたりは濛々と砂煙が立ち込め、見える物は何もないがそれだけはわかった。 「どうして……」 ぽつりと落ちたような呟きが聞こえた。 均実は見回したが、やはり砂煙のせいで何もみえない。 「……どうして……」 「……誰?誰かいるの?」 繰り返し聞こえてきた声はそれほど小さい子供のものではないようだが、大人のものでもないようだ。 均実はふと圭樹の声を思い浮かべたが、なんとなく違うような気がした。 年のころは彼と同じぐらいかもしれないが、圭樹ではない。 そのときいきなり強い風が吹いた。 「ぶっ……ぐぅ……」 顔に痛いぐらいの砂があたる。少し口にも入ったようで、じゃりっと嫌な感触がした。 風がおさまり、均実は口の中の砂を吐き出そうと少し咳き込んだ。軽くかがむように咳をニ三度した時、気がついた。 視界の端に映る赤い色に。 均実は咳をやめ、ゆっくり顔をあげた。 「……ひどい……」 夕焼けが地平線に沈もうとしている。真っ赤な空が覆っている大地の上にはポツリポツリと決して少なくない量の赤が落ちている。 人が……死んでいる。 粗末な布地の着物のような服を着た女性や、まだ幼稚園児にも満たない年齢の子供が、皆照らされている夕日の赤よりももっと鮮やかな赤に染まっている。 さきほどの砂煙のせいでうっすらと死体の上には砂がつもっているが、それすら染みて真っ赤にかわる。 死体から流れ出ている血と夕日によって。 「……戦なんて……あるんだ……」 砂煙の中で聞いた声がすぐ真横で聞こえた。 均実がみると均実より頭一個小さい少年がいた。彼も奇妙な服装をしていて、ゆったりとした布地の色のついた柔道着のようなものを着ていた。裾はよごれているが、それなりに良い素材をつかっている服だった。 「なんで……人が人を殺すんだ……」 少年は目の前の惨状がまるで自分のせいだというかのように、苦しげな表情をしている。だがその瞳は惨状をみているのではなく、夕日を睨みつけているようだ。 瞳が少年の視線の先を追うと、夕日に向かって何人もの人が走っているのがみえた。馬に乗っている人たちとそれを追う人たち。 「……犠牲になるのは……いつも弱い者なのに……」 少年に話しかけることもできず、彼の表情を見守っているとふっと彼は後ろをむいた。 彼の家族だろうか? こちらに向かって手を振っている数人の人がみえた。 何をいっているのかはわからなかったが、少年を呼んでいるのはわかった。 「今、いきます。」 少年はそう声をかけると夕日に背をむけて歩き出した。 その背中をみて均実は呼び止めたい気持ちになったが、彼の名がわからなかった。
ピピピピピピピッカチ…… 「……うるさい。」 目覚まし時計に手をやって耳障りな電子音をとめると、均実は無理やり体を起こした。 すぐに着替えて純との待ち合わせ場所にいそがないと、朝練に遅れてしまう。 そんなことはわかっていたが、均実はすぐに体が動かなかった。 今のは……夢? 自問しなくてもそんなのは明らかだ。今は夕方でもないし、屋外でもない。 夢の中の生々しい死体を思い出して、ゾッ…と身じろぎすると、右手に何か硬いものが当たった。 『三国志演義 上』 何と無しに表紙をめくって見えたその文字に均実はほっとした。 読みながらいつの間にか寝ていたので、あんな夢を見たのだろう。 均実は布団からでて本を机の上に置くと、ジャージに着替え始めた。 少しずつ目が覚めていくにつれ、夢の細かいところは溶けるかのように均実の記憶からなくなっていった。 ただ少年のあの夕日をみつめる瞳だけが、心にささった棘のように残っていた。
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