その後許都まで特に問題はなかった。 一週間ほどして怪我の痛みも薄れてくると、均実は関羽に歩くと再び申し出た。だが、今度は関羽ばかりか夫人たちまで反対しだして、結局到着まで馬に乗っていくはめになった。 許都を見たとき、曹操が拠点にしているには小さな町だと思ったが、中に入ると活気があった。大きさは襄陽のほうが大きいが、活気のよさでは五分五分といったところか。 だがそんな分析も街に入ってすぐできなくなった。 曹操が関羽を下したというニュースはここでは誰もが知っていることらしく、関羽の姿を一目見ようと、道には花道をつくるように許都の民が並んだのだ。 もちろん関羽の馬に乗っている均実にも注目がいくわけで…… 「あの女の人は?」 「さあ奥さんじゃないのか?」 「わっけぇな。美人か?」 「おいおい、みえねえぞ。もっと詰めろ!」 見世物のような気分になり、恥ずかしさも頂点を極めた。 関羽はそんな均実をみて笑い、恥ずかしいなら自分の胸に顔をうずめておけばいいといったが、それも恥ずかしいだろう。 だがまったく見ず知らずの人に注目されるのも均実は慣れていない。 結局、関羽が与えられたという屋敷の中にはいるまで、彼に抱きついたままだった。
こらえるような笑い声が二人分、均実の耳にまとわりつく。 ここは許都。関羽に与えられた屋敷の内側に作られた庭園だった。 果物の盛られた器を目の前にしながら二夫人は未だ手をまったくつけることなく、笑い転げていた。 「……笑い事じゃありませんよ……」 均実が情けない声でそう言った。 徽煉まで声は起てていなかったが、顔が笑ってしまっている。 降服した関羽に守られてきた二夫人は、境遇としては人質といえるだろうに、特に不自由もない日々を約束されていた。本当は声を起てて笑っている状況ではないことも、理解しているのだが、どうしてもこらえることができない。 「っく、く、……いや悪い、……っぷ……」 「ふ、ふ、ふ………」 いつも冷静な糜夫人も、どこか抜けている甘夫人もどうやっても笑いが止まらないようだ。 何故ここまで大笑いしているかというと、その原因はもちろん均実にあった。 許都についてからすでに半月は経つ。 凱旋してきた曹操軍を見た人たちは、関羽と馬に乗っていた女性が誰か勝手に推測しあった。誰が言ったか知らないが、そのうちあれは関羽の妻であるということが、ほとんど確定してきていた。 そんなことなど知らない均実。下邳にいたときのように、部屋で二夫人と共に談笑をしているときだった。 小間使いが慌てたようにやってきたのだ。 「関羽様にお祝いを、と許都中の名士の方々がおいでになっています。」 関羽は許都についてすぐ、曹操につれられ帝に謁見していた。 そしてその際、偏将軍という地位をもらったのだ。 その話をどこからか聞きつけてきたのだろう。今この許都で最も力をもつ曹操が執着している関羽とつなぎをつけたいと、野心をむき出しにしている奴らが贈り物持参でこの屋敷に訪ねてきたのだ。 関羽自身は曹操に招かれた宴に出席するため、屋敷にいないと断ったのだが、それならば奥方様にだけでもご挨拶を、と小間使いは言われたという。 「熱心な方たちですね。」 確かに関羽とつなぎをもちたいので、訪ねてきたというのはわかるが、いないなら劉備の妻である奥方たちでもいいとは…… 均実がその熱意にただポケラっとして言うと、小間使いは怪訝そうな顔をした。 「何を他人事のように言ってらっしゃるんですか。邦泉様のことですよ。」 「……は?」 均実はわけがわからず二夫人と徽煉を振り返ると、三人とも呆気にとられたようにしていたが、突然同じタイミングで噴き出した。 「ふふ、ほ、ほ、ほ………」 「ふふふふふふ………」 「っくっく……」 関羽はこの許都でどうやらかなりの愛妻家という噂がたっているらしい。 それはもちろん均実が関羽の馬に乗っていたからなのだが、どうやら許都の人々が勝手に推理してだした、下邳から許都まで行軍の話はというと…… 下邳で曹操に破れ、降服することを受け入れた関羽。 だが彼は新婚ほやほやで、愛する妻を片時も放したくはない。 沛までは我慢していたのだが、どうしてもそれ以上は無理だ。 丁度そのとき、悩んでいた関羽を見かねて曹操が声をかけた。どうかしたのか、と。関羽は願い出た。妻と一緒に馬に乗りたい。そして自分はこれから行軍中は劉備の妻の横のみを歩き、愛する妻を見ず知らずの者に見せないように許都までいきたい。と。 曹操はそれを快く許し、関羽は愛妻を抱えたままこの許都にはいってきたのだ。 って、んなわけないだろっ! 小間使いの知っていた巷の噂というやつを聞かされ、均実は激しく突っ込みたかったのだが、全くの他人事である三人は、そんな均実をみてまた大笑いした。 沛という具体的な地名がでているので、余計信憑性を増している。確かに均実が関羽の馬に乗り始めたのは沛からなのだ。 それを踏まえると、どうやら下邳から戻った兵士たちからの情報源も含まれているようだ。 沛で起こった事件は基本的に曹操と関羽の二者会談ですでに終了していることであり、曹操も身内に爆弾をかかえているとわざわざ兵士達にいう意味もないから、あの事件のことは関係者以外起こったことすらも知らない。 そこをなんとかつなげるために、関羽が新婚、だとか、愛する妻を見ず知らずの者に見せたくない、だとかいう設定ができあがったのだろう。 だがそんな分析、今の状況ではどうでもよかった。 下邳からついて来ている家人たちは違うことはわかっているようだが、ここで改めて屋敷と共に夫人らに仕えることになった者たちは、全員が均実のことを関羽の妻だと思っているといってもいい状態だった。 均実が頭を抱えていると、糜夫人は笑いながらも、均実は体調が悪いので今は応対ができない、と集まってきている名士に伝えるよう小間使いに指示してくれた。 そして下手に均実の声が外に漏れると、この嘘がばれるだろうということで、この庭園に談笑の場を移したのだった。 「まあ、放っておけばただの噂なのだから、しばらくすれば皆忘れてしまいますよ。」 いまだに止まらない二夫人の笑い声に、さすがに均実に同情したのか、徽煉が言った。 「そう、でしょうか……?」 「本当に雲長殿の奥方になるというのは考えないの?」 甘夫人が茶目っ気をだしてそう聞いたが、均実は顔の前で手を振った。 「とんでもない。私なんかを奥方にするよりも、もっとふさわしい方が雲長殿にはいらっしゃるでしょう。」 その均実の言葉に三人はなんともいえぬ顔をして目をあわせた。 あの沛から許都までの関羽の均実への対応は、どう考えても均実を特別に扱っていた。どうでもいい者を自分の馬に乗せるなどしないだろう。 そのことから考えても、沛で関羽が均実を看病したときに何かがあったのだと夫人らは考えているのだが、均実に聞いても「怪我をして倒れてから覚えていません」の一点張りだった。 ……まあ、態度からして本当に覚えていないのかもしれないが。 だが関羽の態度は違う。 均実が視界にあるうちは必ず彼女を目で追っているし、口を聞けばなんとも楽しそうにしている。 そんな彼の態度も許都の噂を増幅させる一因かもしれない。 だが何故かいつも客観的な視点で物事をみて、分析するのを得意とする均実はそのことにだけ気付いていない。 これが計算でやっているのなら、たいしたものなのだが……雲長殿は憐れな方だな。 糜夫人が心の中でそう呆れていると、徽煉が苦笑した。 「とにかくこの噂が一段落するまで、邦泉は一歩もこの屋敷からでることはできませんね。」 「えっ、そんなっ…!」 せっかく許都にきたのだ。そこらへんを探索したい。 この屋敷にいる限り、女装?を解くことは徽煉が許さないのでできない。久しぶりに動きやすい男装をしたかったのに…… 均実は悲壮な顔をしたが、徽煉は当然でしょうとばかりに均実を見据えた。 「あなた、ここで外にでてごらんなさい。 いまや雲長殿は時の人。そして事実はどうあれその妻とみなされ、自分の馬にのせられるほど溺愛されているといわれているあなたなど、権力闘争の格好の標的ですよ?」 均実はそういわれてしまうと、なんとも言えなかった。 誘拐されるとは言わないが、それでも強引に屋敷につれこまれ、参加したくも無い宴に担ぎだされる可能性はある。 均実はため息をつくと庭園に目をやった。 下邳の城の庭園より小さいが、果樹が多く見ているだけでも面白い。 「邦泉、席につかないかい?」 笑いの発作もおさまったのだろう。糜夫人がそう均実を手招きした。 さそわれれば従うしかない。均実は促されるままに、夫人らと同じ机についた。 「今日は思わぬ来客でずいぶんと時間が過ぎてしまったが……そなたの国の話の続きをしてくれまいか?」 許都についてから均実は請われて日本の話をしていた。 最初は均実のこの世界に来てから今までのことを話していた。沛でGショックをみせたことで、めんどくさく納得しにくい均実の今までの話を、洗いざらい話さざるえなくなったのだ。 夫人や徽煉、関羽はその話を聞き、やはり納得しにくそうだったが、物証としてGショックが目の前にあっては納得するしかなかったようだ。 とにかくそれが終わると、Gショックのようなものが普通にあるという均実の世界に興味を示したらしく、夫人達はそれを所望したのだ。 均実はう〜んと頭をひねった。 「昨日は名前の違いについてお話しましたっけ?」 「そうじゃ。そなたの本当の名が辻本均実というもので、字というものは持っていないというのも聞いたぞ。」 そう、その時は丁度宴が無かった関羽も参加して、均実の話を聞いては皆均実のいう日本を想像しては楽しんだのだ。 「うんっと、では今日は服装についてお話しましょうか。」 均実は徽煉に向けて言った。 何故自分がこういう女装?を嫌うのか。何故動きやすい男装を好むのかというのを理解してもらおうと思ったのだが…… 話終えると、徽煉は数度頷いた。 「つまり日本とやらの服は基本的にこの国のようなものではない。しかし女性は普通着飾るというところは共通しているが、やはり邦泉は日本の中でも変わった感覚をもっていて、着飾るのを嫌がっているのですね。」 「……う〜ん、日本での着飾るの基準はこの国とはまったく違うんですけど……」 できれば前半のほうに焦点をあててもらいたかった。均実は苦し紛れにそう付け足した。 「ですがその純という娘は普通に着飾るのでしょう?」 「あ、いや、そうですけど……」 「ならやはり、あなたが女物の着物を嫌がるのは、ただのあなたの個性ということですね。」 「う……」 一般女子代表として純ちゃんを例に挙げたのが失敗だったか…… 均実はそんな風に後悔していると、玄関のほうが騒がしくなった。 「おや、雲長殿が帰られたようだね。」 糜夫人がそういうと、我が意を得たりと甘夫人が笑った。 「ほら、愛妻が迎えず誰が雲長殿を迎えるのですか?」 「妻じゃありませんっ!」 均実がそう即座に返すのを見て、さきほどの大笑いの発作が三人に戻ってきた。 戻った関羽はその声につれられ、庭園に様子を見に来たが、なんでもないのだと夫人らにいわれて不思議そうに首をかしげた。 後日談だが、均実は具合が悪いといった糜夫人の嘘も、許都の人々の均実に対する噂に組み込まれ、何故か「少し病弱であるが、煌く黒髪に透き通る白き肌、発する声は小鳥のさえずり」というのが関羽の妻であるといわれるようになり、余計均実は外に出ることができなくなったという。
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