部屋の入り口で関羽はでてきた男を捕まえた。 「どうですか?」 「大丈夫じゃよ。」 老人というべき歳だろう、医者である男はそう答えた。 「血が流れすぎているから、栄養のある物を食べて安静にしていればじきによくなる。」 「傷の痕は……」 関羽の言葉に医者は目をそらした。 「……残るのですね。」 「こればっかりは、な。縫いあわせんと血が止まらんほど大きく斬られておったし。」 それほど深い傷というわけではなかったのだが、均実は浅く広く男に切りつけられたらしい。内臓などの損傷はないようだが、気をつけるべきだろうと医者はいい、帰っていった。その姿がみえなくなってから、夜中にもかかわらずきてくれた礼すらいわなかったことに関羽は気付いた。 おそらくは町の医者ではない。れっきとした誰か有名な将軍付きの……もしかしたら曹操付きの医者だろう。 この宿まで案内をしてくれた張遼も、今は違う宿に戻っている。 夜もかなり深まった。関羽は部屋の中に入ると、薬草の匂いが鼻をツンとついた。 「雲長様……」 徽煉が関羽の姿を認めてつぶやいた。 二夫人も不安そうに均実を見つめている。 均実は寝台に寝かされ、今は寝息を立てて寝ているが、顔の青白さはまだ普段とは違う雰囲気をかもし出していた。 怪我をしたわけではないのに顔色が悪い三人に、関羽は声をかけた。 「もうお休みください。後は私が看ます。違う部屋を用意してありますから。」 「されど、雲長殿もお疲れのはずでしょう?」 糜夫人がそういうと関羽は首を横に振った。 「私は大丈夫です。」 関羽はすでに何があったのか彼女達には話していた。 沛についた途端、曹操から呼び出しを受けた関羽は均実たちと別行動をしたのだが、いくら探しても曹操が見つからない。そんなとき声をかけてきた蔡陽という武将が、こちらで曹操が待っているといい、ある宿に関羽を連れて行ったのだが、なにやら曹操が忙しく、しばし待ってくれといわれてしまう。 夫人たちを長い間放っておくわけにもいかないが、降服した身で曹操の命令に従わないのもまずい。 イライラと時がただ経つ。そこへ血相を変えた張遼が飛び込んできた。張遼とはもともとウマがあったうえ、関羽の降服に尽力をつくしてくれたため、行軍中もときどき話をするほどの仲だったが、この時の彼の話には関羽も血相を変えた。 奥方達の行方がわからなくなった。 そんな張遼に関羽が曹操によばれ、ここで待っているようにといわれたというと、それこそとんでもないと彼は言った。 曹操は今、この沛にはいないと。 信をおく参謀の一人、程 をこの沛に残し、少しさきであったという土砂崩れの様子も見にいったのだ。 関羽はまさにどういうことかと思い、宿から飛び出した。 夜も遅く、もう通りにほとんど人はいない。沛中を走り回るようにして、それでもなんとかして見つけた数人の目撃者の話をもとに、奥方の乗った軒の進んだ方向を割り出し、張遼と二人その一帯を探そうということになったとき、 「下がれっ! 無礼であるぞ!」 聞いたことのある声が緊迫感をもって関羽の耳に届いた。 そのあとようやく均実たちと合流できたのである。 「あの声がなければ、私はまた兄者の命令に背くことになっていたでしょう。」 本当に偶然というか、奇跡といわざるをえない。 あの均実の声がなければ、関羽もあの場にいくことができず、結局二夫人を見失ったままになってしまうところだったのだ。 寝台の上に寝ている均実に目をむける。 刀傷のせいで熱がでているのか、均実の額には汗が浮いている。徽煉から綺麗な布をうけとり、関羽はそれをぬぐってやった。 「ですから邦泉殿のことは私にまかせていただきたいのです。」 真摯にいうその言葉に、心からの感謝が含まれているのだということに夫人らは気付いた。そして断ることなどできない真剣さと。 徽煉に顔をむけると、ゆっくり目をとじ頷いた。 「……わかりました。それではわらわたちは休ませて頂きますね。」 夫人らは徽煉をともない、部屋を出て行った。 それを見送ると、関羽は再び均実のほうを向いた。 静かに寝息をたてて眠る目の前の人に、関羽はどうも出会ってから救われ続けているような気がする。 「本当に……ありがとう。」 まだ汗がでてくるようで、関羽はそれをぬぐうことを繰り返していた。 歳もかなり離れた子供だと感じていた。だがどうだろう。関羽を驚かせる知識をもち、関羽の心をも救った。降服することを決めた関羽の心情すら読み取り、そして今日などは彼女がいなければどうなっていたことか。 その上彼女が気を失うまで言った言葉はどう考えても、自分を案じての注意だった。 今、関羽が短気をおこせば、今度こそ曹操は関羽を下そうと思わずに、殺すだろう。それをあんな怪我を負った身でも案じたのだろうか。 『独り身でおるから戦でしか発散できんのだな。良い娘はおらんのか?』 あの土山で考えていたことがふと頭をよぎる。 そう……だな、邦泉殿は良い娘だな。 そう認めた自分がなんだか恥ずかしいような気がして、すこし緩んだ表情を心持ち引き締めた。 そして今一度均実の顔色をみる。真っ青なままの顔だが、熱のせいか頬が次第に赤くなってきている。寝息も少し乱れ、暑そうに呻いた。 今日はまだまだ熱が上がるかもしれないな。 そう思い、水に布をひたして額の上にのせてやると少し楽な顔をした気がしたので、関羽はほっと息をはいた。 「……悠円? 亮さんはどうしたの?」 均実の少しかすれた声が、小さく聞こえた。 何をいったのか意味がわからず、関羽は均実の口元に耳を寄せる。 冷たい布が額からずれ目の上を覆うようになったので、均実はぼんやりと目を開いたが、そこに誰かがいるような気はしたのだが、見えなかった。 だが布をのけるほどの元気がでない。 体のだるさを感じ取り、ああ、そうだ熱が出てたんだ。と均実は思う。 亮の家で今、看病を受けているのだ。ならこの布をのせてくれたのは悠円だろう。 均実の意識はかなり以前のものに戻っていた。ここが沛であることなど微塵も覚えていない。それは熱のせいでもあったが…… 「悠円。ごめんね。それと亮さんにも迷惑かけてごめんって……伝えてくれないかな?」 均実の記憶がどうやら混乱していて、自分が悠円という人物に勘違いされているのだろうと、関羽はわかった。 否定しようと口を開いたが、言葉を発することができなかった。 布をのせている瞳から零れ落ちる透明なしずくが、燭台の灯りに反射して光ったからだ。 「ごめんなさいって……私は…私は均じゃないんだって……。亮さんもわかってるのは知っているけど、それでも……私が現れたことで苦しめたことにかわりは無いから……。」 泣いて……いるのか? ……どうして? 関羽はどうしていいのかわからず、ただ黙ってその涙をみていた。 均実は側にいるのが関羽でなく、悠円だと思っていた。だから謝罪したのだ。 隆中にいるときはけして言わなかった。均実が謝れば、亮はまたそれで苦しむ。自分が均実に均を重ねてみているから、均実が謝るのだとひたすら自分を責める。 だから言わなかった……言えなかった。 あなたの前に現れてごめんなさい。 辛いことを思い出させてしまってごめんなさい。 言わなくてはと思い、あの満天の星空の下で何度も言おうとした。 星を見上げて、二人で庭に黙って立っていたとき、均実は何度も……何度も。 だけど言えなかった。言いたくても言えなかった。いや、言わなくてはいけないのに、言うことができなかった。 でも今なら……こちらの世界に来てまだ間もなく、まだ自分が均に重ねてみられているということすら知らなかった今なら、謝れる。 均実はそう思い、ただしゃくるようにしながら「ごめんなさい」と繰り返した。 そうしていると強い力で抱きしめられた。 一瞬驚いたが、その胸の温かさに力を抜いた。 相手の心臓の音が子守唄のように均実の耳に届く。まるで落ち着けといっているように。 何もかもから守られたようなその場所に安堵した。 「本当に……ごめんなさい。」 そうつぶやくと、均実は再び夢に落ちていった。
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