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均しき望み 作者:奇伊都

第23回   関羽の値段は高いか、安いか?

 くそ……失敗か……。
 もう星が空に現れかなり経つ。
 星の光に負けないほどの赤い光が、下邳から発せられているのを関羽はみてそう独白した。
 下邳上空は煙のせいで星すら見にくくなっている。
 脱出したにすると早すぎる。やはり脱出する前に城が落ちたのだと見るべきだった。
 あの光と煙のために下邳落城を知り、戦いつかれた部下を叱咤して何とか土山を下りようとしたが、相手も木の陰からでるとすぐさま矢を射掛けてくるといった状態で、動くに動けなかった。
 にらみ合いというにはどう考えてもこちらが不利な状況で、関羽は下邳を睨みつけるようにしてみていた。
 兄者の命令を守れなかった。その悔しさもある。
だがあそこにいる均実も、下邳をつつむ炎に襲われているのではないかと思うといらだたしさが募った。徽煉が気に入っているようだったので、うまくすれば彼女に守られているかもしれないが、ここではどうなったのか全く予想もつかない。
実際に関羽の希望通り均実は徽煉に守られていたのだが、それを知ることができないのは歯がゆいものだった。
どうしてあの侍女が気にかかるのか。
関羽はそんなことを思い、
当たり前ではないか。字を呼び友としてこれから付き合っていこうと思っていた者だ。
と思ったが、下邳を出る前の簡雍の言葉が耳に戻る。
『独り身でおるから戦でしか発散できんのだな。良い娘はおらんのか?』
 良い娘=均実であると関羽は思わなかった。それは自分が均実に友になろうと思ったのは、均実のあの変わった知識に興味をもっただけなのだと考えていたからだ。
 まだ年端もいかない娘だ。わしの妻になどするわけがない。
 そう考えたとき、自分が戦場にあるまじきことに対して思案していたのに気付き、一瞬愕然とした。
 敵に囲まれ、考えが現実逃避したか……
 我ながらなさけない、と関羽は自分を叱りつけた。
 とにかく手遅れだろうがなんだろうが、下邳に駆けつけなければいけない。それには夜の闇に紛れるのが一番だが……矢に射られては進むこともできない。
 下手に平地を中心とするよりはよかったのかも知れないが、麓を囲むようにされては動けないことも事実だった。
 打つ手がない今の状況で関羽の思考は堂々巡りを繰り返した。
 その間にも時間は流れる。
 兵がざわめき始めた。空の藍色がどんどん薄まり、星の白さを消し始める。
 夜が明ける……。
 朝になり視界がよくなれば、万が一にもここから下邳にかけつけることはできなくなる。
 関羽はそう思い、知らずに呻いたが、何の策も思いつかなかった。
「将軍、将軍!使者です。敵方から一騎で」
 ほとんど枯れかけたような声でそう叫んだ兵がいた。
 いわれるほうを見るとなるほど、確かに武装した者がたった一人、馬にのってこちらにむかってくる。
 関羽はそれをよく見、許都にいたころに見知った曹操の武将の一人、張遼だということを判断した。
 降服を勧めにきたか……
 曹操が例え敵でも部下にする逸材であると判断した武将や文官は、とまどうことなく登用しているという話は有名だった。
 許都にいるとき、劉備に付き添っていった宴で曹操に会ったことがある。そのとき曹操は関羽や張飛などという名将をもつとは素晴らしいと、劉備を誉めたことがあった。
 あれはつまり自分の部下にしたいという本心の裏返しだろう。
 義兄である劉備が誉められた理由が自分であったことに素直に喜んでいた張飛とは対照的に、関羽は冷静にその誉め言葉の裏を読んでいた。
 だからこういう展開となり、曹操が使者をつかわすとなれば降服を勧める使者でしかないのは容易に推測できた。
 関羽が兵たちの前にたち張遼を迎える。
「文遠殿。お久しぶりです。」
 馬をおり礼をする前に、関羽は彼の字を呼んだ。
 徽煉もいったように機先を制するのは会話だろうが、戦だろうが必勝法の一つだ。
 慌てたように張遼は礼を済ました。
 この時点ですでに関羽のペースだといっていいだろう。
「そなたが何故来られたかはわかっている。降服を勧めに参られたのだろう?」
「あ、は、いや、そ、その通り。さすが雲長殿ですな。」
 まるで暑いかのように汗をだらだら流しながら張遼はいったが、今は冬。しかも早朝ともいえないような時間だ。暑いのではなくペースをもっていかれて焦っているのだろう。
「だがわしには兄者との義兄弟の誓いがある。降服すると兄者と敵対することとなるな。だからすまぬがそれはできぬと伝えてもらえぬか?」
「あ、いえ、それは……」
 張遼は「はい、わかりました」と陣に戻るわけにはいかなかった。
 ここはどうあっても説得しなければ……
 荀に陣を出るときこれこれこう説得せよと説明されたことを今一度頭の中で思い出してから、関羽に相対しなおした。
 これには関羽もおや? と思った。
 場の流れにそれほど強く逆らいはしない。
 そのようなイメージをこの男には持っていた。
 だから何も言わせないままにこちらの意思をしめせば、さっさと帰ると思ったのだがどうしたことか?
「ここで雲長殿が降服なさらないとなれば、雲長殿は世の人に後ろ指をさされまするぞ?」
「何故? 誓いを貫こうとしたことが後ろ指をさされる行為だというのか?」
「降服しないという行為が誓いを破る行為だからです。」
「兄者と敵対することが、誓いを守る行為だといいたいのか?」
「ここで死ぬことが誓いを破る行為だとはいわれないのですか? 劉予州殿は落ち延びていかれました。誰も死を確認した者はおりませぬ。」
 張遼は荀に言われたとおり、関羽の言葉に反論する。
 関羽はぐっとつまった。
 劉備は生きている。そう関羽は信じている。兄より先に弟が死ぬのは確かに不孝だといえるだろう。
 ここだ、と張遼は続ける。
「それに劉予州殿の奥方様をお守りし、下邳の地を守るのが、雲長殿のお仕事でしょう。
ここからでも下邳がおちたのはお分かりのことでしょう?
そして今奥方様は我らが手に保護しています。」
 人質にしているの間違いだろうっ!
 そういいたかったが、この言葉に関羽は何もいえなかった。
 二夫人が手のうちにあるというのは曹操側にとって、関羽に対して絶対のカードを持っているというのに等しい。
 関羽が黙ったのをみて張遼はいけると思った。だが関羽の眉間にあまりにもしわがよっているので、荀に説得の際に言えといわれていないことを交え、少し関羽を落ち着けようと思った。
「我らは下邳の民に善政を敷き、けして土足でこの地を荒らすようなことはしておりません。ですから……」
「城にいた者たちにも手荒な真似はしていないか?」
 張遼は即座にそう聞いてきた関羽に首をかしげたが、肯定した。
「ええ、礼を尽くし、乱暴な真似は一切していないとお約束できます。」
 張遼は徽煉の活躍劇などしらないし、そんな瑣末なこと彼にまで報告があがってくるわけがない。まあ女性一人に叩きのめされた四人の名誉のため、皆が口をつぐんだという理由もなきにしもあらずであるが。
 関羽はそれを聞き、わからないように胸をなでおろした。
 イライラに拍車をかける均実への心配も、すこしこれで収まったような気がした。
 よくわからないが、関羽の態度が少し緩まったのを感じ張遼は続きを再開した。
「そしてなにより劉予州殿は漢王室を盛り上げようとなさっている方。ここで死を選び、その偉業に力を発揮できないなどと情けないことになってはいけませぬ。
 ですからどうか、ここで無駄死になど選ばず、降服なさいませ。」
 張遼の言葉に関羽は何もいわなかったし、いえなかった。
 しばしの沈黙が流れる。
 自軍の兵たちも黙り込み、関羽の返答を待っている。
 彼らは関羽の返答一つにより生か死か決まる。応なら捕虜としてでも生きれるが、否ならこのまま再び争い、死ぬまで戦うことになる。
 関羽は大きく息を吸い込み吐き出した。
「なるほど、確かに主のいうことにも一理ある。」
 張遼と兵士達はその言葉に安堵した。
 特に兵士達は喜色漂ったので、関羽がそれを鋭く睨みつけ、また静まった。
「ただし、ただ降服するのでは始めにいったように誓いにそむくこととなる。」
「それでは……?」
「条件をだす。」
 関羽はそこで目を伏せ、数秒ためてから口を開いた。
「主は漢王室を助けるという偉業を助けるため降服せよという。ならば、わしが曹操ではなく漢王室に仕える者であることは保証されるべきだ。
 そして主は兄者の奥方様をお守りするのがわしの仕事だといった。ならば奥方様の身柄を保護し、丁重に扱うことは当然である。
 最後に主は義兄弟の誓いを守るために生きよといったな。」
 関羽はそこで言葉を区切った。
 均実の言葉を思い出す。あれはこの条件をつけさせるために言ったのだろうか。
「……それは兄者の行方がわかり次第、兄者の下へわしが馳せ参ずるのを認めるということであろうな?」
 張遼は目を数回パチクリさせた。
 降服した者をいつでも旧主の下に戻っていいという条件で迎え入れるなど聞いたことが無い。
「ま、待たれよ。……おそらく前二つの条件を丞相は飲まれるだろう。だが最後の条件は……」
「わしはこの三つの条件を呑まれなければ下ることはけしてせぬ。それこそ誓いに背かぬ降服といえるのではないか?」
 張遼の言った説得を一つ一つ自分にとって有利な条件へ覆す。
 関羽にとっては当然の条件提示であるうえ、自分のいったことであるから張遼も反論ができない。
「…………すまぬが、わしでは判断しかねる。一度陣へ戻らせていただく。
 丞相が条件を受け入れれば、再びここにわしが戻ってこよう。そうだな……昼までに戻らぬ場合は、条件がのめなかったと思ってくれ。」
 張遼はそういうと馬にまたがり陣へと戻っていった。
「雲長殿も無茶を言う。……丞相はどういわれるだろうか。」
 馬を兵に預けると、張遼はそのまま曹操がいる帷幕へと足を運んだ。
 礼をして入ると、曹操と荀、そして呈がいる。
 三人の中で張遼は荀と最も歳が近く、呈とは二十以上違うのでまるで父にあっているような感じをいつも受けていた。
「今戻りました。」
「おお、ご苦労だったな。して何といったか?」
 曹操が破顔して張遼を迎え入れながら、関羽のことを聞いてきた。
 張遼は気がすすまなかったが、とにかく彼の提示した条件を説明した。
 予想通り二つの条件は快く許した曹操だったが、三つ目を聞くと難渋を示した。
「わしは漢の丞相だから、漢に仕えるというならわしに仕えるも同じ。
 奥方を大事にしろというなら、その通りすることになんら問題はない。
 だがそれは……」
「愚臣の意見を言わせていただきますれば、その条件をのむのは不可能です。
 高き買い物は、その値に合うモノであればよし。合わなければやめたほうがよいでしょう。」
「雲長殿はその値に合わぬと申されるのか?」
「買ったものが勝手にいなくなってしまっては、空気に対価を払うようなもの。」
 呈の主張に納得いかない張遼はそうききかえしたが、呈はそういって関羽を降服させるのは無理であることを繰り返した。
「ふむ……荀。主はどう考える。」
 張遼の報告を聞き、黙り込んでいた荀に曹操は声をかけた。
「確かに空気に対価を払うようなものだと私もおもいますが……」
 荀の言葉に張遼は目を見開いた。
 彼はわざわざ関羽を説得させる方法まで伝授してくれたのだ。積極的に関羽を擁護すると考えていたのに……
 関羽のことを張遼よく思っていたし、一緒の陣営で戦いたい気持ちのよい将であることを認めていたのだ。
 張遼の顔色がかわるのをみて荀は心の中でだが苦笑した。
 歳が近いことで親近感がわくのか、彼とはよく話をする。それでよく思うのが彼は素直だということだった。
「では荀も反対ということか?」
「と、いうわけでもありません。」
 再び張遼の表情が変わるのをみて、荀は楽しんでいた。
 曹操もそのことに気付いているのか、困ったように笑った。
「どっちなのだ。」
「関羽自身を味方にというのは本当に難しいことだといいたいのです。」
「ほう……?」
「しかし孟徳殿は勇将や智将を優遇することはすでに有名。天下の者がこぞって集まろうとしています。
 ここで関羽の条件を呑まず倒すことは楽なことですが、孟徳殿のせっかくの美声が穢れる恐れもあります。」
 一応相手は難しい条件つきながらも、降服に応じる姿勢を表している。
 それなのにこちらでそれを呑まなかったのだという話が流れれば、集まりかけている者たちも興ざめしてまた地に伏してしまう可能性がある。
「それにひきかえ条件を呑めば、これほど難しい条件をつきつけても受け入れる懐の深さが孟徳殿にはあるということを天下に示せます。」
「つまり関羽をうけいれることに賛成というわけか?」
「どちらかというとそちらに得があるのではないか、ということです。」
 ここで関羽を殺すとなると、また兵を疲れさせなければいけない。後のことを考えれば無駄な戦いはしないにこしたことはない。
 どこまでもはっきり答えは言わない。それは荀が最終的な決定をするべきなのは曹操であると自分に言い締めているからだった。
 荀の意見をきいてから、曹操は呈のほうを向いた。
 呈は苦く笑ったが、荀の意見に異論はないようだ。
 二人の態度に曹操はため息をついた。
「関羽を心から下すことはできぬというのは二人とも同意なのだな?」
「無理でしょうな。」
 呈はあっさり切り捨てた。だが荀は首を横にふる。
「絶対とはいいきれません。丁重にもてなせばもしくは……」
 甘い考えだと呈はいいたかったが、曹操が荀の言葉に顔を輝かしたのをみて口を閉じた。
 呈の逡巡に気付かなかった曹操は、張遼に向き直った。
「受け入れよう。張遼、それではすまぬがもう一度関羽を訪ねてくれ。」
「はい!」
 張遼は喜びをこめて命令を受けたのだった。

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