それから三週間ほどは平和が続いた。 関羽はどうやら忙しいらしく、あれから直接奥方達に機嫌伺にくることはなく、何度か彼の使者が来ては様子をきいていくだけだった。 奥方達から許可を得て、何度か均実は屋敷からでて街に下りてみたが、甘海につれられてきたときより少し人の数が減ったかな? ぐらいで特に違和感はなかった。 寒くなってきたというのもあるし。確かに外を歩くのに着物を何枚もはおわないと鼻先まで凍りそうに感じた。息も白い。 だが別に均実は寒いのが苦手ではない。どちらかというと寒さには強いほうだ。 のでそれより均実にとっては屋敷内での人間関係の悪化のほうがしんどかった。 均実はガチャガチャと目の前の歯車を組み合わせようとしながら、どうやってもはまらないのを何度も繰り返していた。 「あら邦泉殿。それはなあに?」 「きっと新型のお香をおつくりになっているのでしょう。ほら、嗅いだことのないような絶妙な匂いがいたしますわ。」 「そうね。まるでハエがその芳しい匂いにたかりそうなぐらい。」 「……。」 屋敷の部屋は扉などついていないから、ひょいと部屋の中を覗いてにおいをかぐなど簡単なことだった。 ほほほ……と去っていく侍女たちをこれで朝から五組ほどみた。 彼女達がいう新型のお香の匂いというのは実は油の匂いだ。 李哲は均実が言った歯車をいくつもを用意してくれたが、サイズが違うのか、いや均実が不器用なのかうまくかみ合わない。潤滑油代わりに厨房から少し古い油を分けてもらったのだが、それが結構匂うらしい。 「ああ〜。もう!無理!」 均実は持っていた歯車を一つ壁に八つ当たり的に投げつけるとそういって、床に寝転がった。 「こんな格好もいい加減肩凝るし、こういうのは純ちゃん専門だって……」 ぶつぶつ意味のない独り言を均実はつぶやいた。 ビラビラと長い布の綺麗な服は、均実にとって気分阻害の第一原因にしかならなかった。日本でも制服を着なくていいときは基本的にジャージかパジャマという均実だ。おしゃれということにまったく頓着しない。豚に真珠、均実に綺麗な衣装。そっちの方面はどうやらいつも一緒にいるぶん純が受け持っているらしく、必然的に彼女はいつも可愛い服を着ていた。 それに手先の器用さで言っても、純は均実と比べることすらおこがましいといえるほどだった。中学のときか、家庭科クラブでつくったレース編みがコンテストで入賞したことすらある。 座布団を二つ並べている上に寝転がったが、寝心地はよくない。それに手についている油がどうも気持ち悪い。 均実はしぶしぶ起き上がると、置いておいた手拭で手をぬぐった。 しっかり拭いたのだが、染み付いたように油の匂いが手からしてくるのを均実は嗅いだが、ため息をついた。 「まあでも、お香の香りよりこっちの匂いのほうが気が楽だよ。」 なんだかわからないが、関羽と会ってからというもの、徽煉は均実に対してすごく世話を焼き始めた。 着物を着崩してはいけないやら、歩く時はもっと静かにとか…… 最終的にはもともと彼女が提案していた均実に合うお香決めまでいった。 何故か夫人たちまで楽しんで、均実は断るに断れず、いろんな香りを嗅がされ頭がくらくらしながら、何個かまだましかと思えるものを決めて離してもらった。 均実としてはそのときのことはそれで終わってもらいたかったのだが、そうはいかなかったようだ。 どうやらそのときのことが侍女中に尾ひれ歯ひれ、ついでに尻びれぐらいまでつけて伝わったらしく、果ては徽煉のように最も夫人達の信を受ける侍女になるのではないかとまで言ったらしい。 まあ均実はそんなことは知らないが、そのせいで矜持の高い侍女たちがより強く嫌がらせを言ってくるのには参っていた。 その上均実の選んだ香を、どうにか均実にも合うようにあわせた試作を徽煉がつくっては何度も均実に嗅がせたのだ。どれも気に入らず却下しまくってはいたが…… ぼやかずにはやってられない。 視線を部屋中に回す。特に面白い物はない。この世界の書物は均実には読めないのだし、テレビとかもありはしない。 しかたがなく、さっきまでやっていた作業を再開した。 机のうえに置いてある作り途中の『扇風機もどき』はすこし形になりかけているが、まだうまく動かすことはできなかった。 振り子時計の原理を利用して、錘を吊り下げている紐を巻くことによって、錘の重さにより歯車を動かし、それが連動して最終的には羽を回すという、簡単な物だ。 だがそれにはめ込む歯車がうまくいかない。 均実は箱の中にそういった仕組みを詰め込んだものを考えたのだが、例えば歯車の後ろに違う歯車をかませようとすると、その前の歯車が邪魔をしてうまくはまらない。いらいらしていると、結局何かの弾みで前の歯車も外れてしまう。 一つ歯車をかませれば、それとは違う歯車が必ず何故か外れるので、いつまでたっても完成しないのだ。 「う〜んピンセットでもあればいいのかなぁ?」 根本的な問題として、自分が不器用であるということはこの際棚に上げておくとして、均実は何とかこの歯車たちをかみ合わせることができないかと首をひねっていた。 そのとき静かだった空気が、奇妙に乱れた。 遠くから大勢の叫び声がやってくるように聞こえる。均実は訳もわからず恐怖を感じ、その場に立ち上がった。 「……何?」 どうしていいかわからず、均実が立ち尽くしていると、廊下がなにやら騒がしい。何人もがどうやら夫人達の部屋へ駆け向かっているようだ。 均実もとりあえずもうちょっと手を綺麗にしてから、部屋をでて彼女達と同じように行動した。 「敵が……この城を取り囲んでおる。」 ざわめく侍女や女官を前にして、糜夫人がよく通る声でそう言った。 夫人達の部屋には数十名の侍女や女官がそろっていたが、全員が押し黙った。 均実はその中の一人として夫人の声を聞いていた。糜夫人の後ろには甘夫人が徽煉に支えられるようにして立っていた。 「殿は雲長殿にここの守りを命じられた。雲長殿はここをお守りくださるであろう。 だが……」 よりいっそう真剣な声音になり、聞いている皆が思わず背筋を正す。 「それぞれ戦場にいる女子として覚悟はしておくように。」 夫人がそういい、皆を元の仕事に戻るよう促した。 悲壮な顔をしている者や、意味もなくおたおたしている者も、その指示に従い部屋を出て行く。 糜夫人はそのまま甘夫人と徽煉と三人で話そうとしたのか、後ろをむいた。 それを確認すると均実も皆と同じように部屋からでていこうとしたのだが 「邦泉」 徽煉の呼び声がして、足をとめた。 均実の周りにいた侍女たちが顔をしかめるのがわかった。また特別扱いだ。これでまた嫌味の度合いがあがることは間違いない。 二夫人達は奥にひっこんだのかもう姿はないが、徽煉に近い者として散々もう嫌味をうけているというのに。 均実はため息をつきたくなったのをこらえて振り返った。 「こちらへ」 徽煉が手招きする。 後ろからの刺さりまくっているような視線がかなり痛いが、指示に逆らうこともできないので、均実は呼ばれるがまま進んだ。 奥の部屋についてくるように、と徽煉はうながした。 布が天井からぶら下がっており、これがこの部屋の扉の代わりをしているようだ。 部屋の中に入ると、後ろからの視線の気配が消えたが、徽煉が真剣そうな顔をして立っているので、ホッと息をつくこともできなかった。 徽煉の後ろで夫人二人が同じように立っていた。 「あの……何か?」 「邦泉。あなたは隆中へ帰りなさい。」 おずおずと聞くと徽煉はそういった。 「え……なんで?」 「なんでって……ここは戦場になるのですよ? 曹操が攻めてきたという報が入ってから、暇を願い出た侍女達は里に帰しています。 あなたも危険ですし、実家に一度帰られたほうがいいわ。甘海に連絡をつけましょうか? 預かった大事なお嬢さんを危険な目にあわせることはできないでしょう?」 そうくるとは思っていなかった。 均実は徽煉の言葉に眉をしかめた。 そういわれれば、侍女の数がさっき集まっていた人数では少なく感じる。 確かもっといたはずだ。よく嫌味を言ってきて顔を覚えた数人がみあたらなかったのはそういうことらしい。 だが均実はここで隆中にもどったら、何のためにここにきたのかわからなくなる。実際の戦場を見るために均実は隆中を旅立ったのだ。 「私はここにいます。」 均実はそういい切った。 徽煉は均実にどういっていいか言葉がでてこなかった。 「曹操は遠くからの軍勢とはいえ、とても強大。そなたは帰ることができる間に帰りなさい。」 「我らはこの場から去ることはできぬが、ただの侍女たるものなら、曹操も見逃してくれるやもしれぬ。」 二夫人が声をそろえて説得しようとしたが、均実はけして首を縦に振ろうとはしない。 「邦泉……」 「まだ帰るわけにはいかないんです。」 「それは……雲長様が心配だからですか?」 よくわからない徽煉の問いに均実は顔をゆがめた。 何言ってるんだ、この人。 顔いっぱいにクエッションマークを浮かべたつもりだったのだが、徽煉はどうもそれを違う意味に解釈したらしい。 「そうですか……。仕方ありませんね。」 いや、あの、どうしてそうなるのか解説お願いします。 均実はそういいかけてやめた。 滞在許可がせっかくおりようとしているのに、それをぶちこわすようなことはしないほうがいいだろう。 何か誤解されているかもしれないが、まあその誤解は後日とけばいい。 均実はそう考え黙って徽煉の次の言動を見守った。 一方均実がじっと自分をみつめてくるのをうけて、徽煉は心の中で思案していた。 この子は雲長様のことをよっぽど好いているのね。雲長様も均のことを気に入っているようだったし、二人は相性がいいのかもしれないわ。自分から男装するような均だから、好きな男性ができたというのはいいことだし、それを引き裂くようなことはしてあげたくないし…… かなりの誤解である。 これほどの誤解を均実は後日とけるのだろうか。 と心配になるほどの誤解を徽煉は抱いていた。 さらに徽煉の思案は続く。 ここに置いておいたとしたら、均なら勝手に雲長様に会いにいきかねないわ。今は城門に雲長様はつめてらっしゃるはず。それだけは諌めておかねば。 「わかりました。ただし勝手な行動をしないこと。わかりましたね?」 徽煉は勝手に結論をだした。 二夫人達も仕方がないと納得しているようだ。 均実はどうやったらあの質問に対する均実のあの態度から、ここまで結論がでたのかわからなかったが、ここにいていいというのは確かなようなので、黙って頭をさげた。
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