「たたたたた……。もう筋肉痛にはならないと思ってたんだけどなぁ。」 夜になって均実は自分の寝台に座り込みながら言った。 内側の太ももがかなり痛い。というか歩く時は自然とがりまたになってしまうほど、筋肉がいうことをきいてくれない。 「農作業と乗馬では全然違うからね。」 悠円が苦笑しながらそう言った。 あれから午前中は畑にでて、午後は甘海に乗馬を教えてもらうという日が続いている。 最初は馬に乗っても、ずっと体を立てることができず、散々叱られたが、今日はなんとか体を起こして乗っていられた。 思ったより高い。 感想はそれだけだったが、体を起こして馬の上に乗っているだけでは合格点はもらえなかった。 馬を駆けさせたり、急に方向を変えさせたり、停止させたり、といろいろなやり方を口で教えてはもらったが、実際にできたのは凄いスピードで馬を走らせることだけで、そのまま止まらないので焦っていたら、そのうち馬が疲れて勝手に止まったので命拾いした。 均実は運動神経はいい方だ。というかいい。 勉強もそこそこ、運動もできる、冷静な性格であるとなっていいこと尽くめに見えるかもしれないが、そこはそれ。やはり神様は短所と言うものを人にはおあたえにあるようだった。 それは生まれついての不器用さだった。 「はぁ、なんで手綱引いたら止まらないの? 引けっていうから引いたら方向転換するだけだったり、ブルウンって不機嫌そうに鳴くだけなんだよ?」 「甘海様はなんて?」 「むやみに引きすぎだとか、片一方だけ強く引きすぎだとか、弱く引きすぎだとかで、馬に自分の意思が伝わってないって。」 馬が止まらなくって均実が焦っているとき、それ以上に甘海は焦ってなんとかしようとしてくれていた。それは均実にも十分わかる。 だが 「スパルタすぎるよ〜……」 それでも均実はそういいたかった。 怪我などをしないように細心の注意を払っている授業だったが、それ以外の練習量と言う面では、もしかするとバレー部よりもきついかもしれない。 「なんで馬に乗りたいって先生にいったの?」 悠円はそこが前から不思議だった。 亮は知らないことだが、均実は亮に弟のことを思い出させるようなことはできるだけさけようと、庶に聞いて均がやっていたことなどはやらないようにしようとしていた。例を挙げれば魚釣りや庭の木の剪定などである。 だが乗馬などは特に均の死因となるものなのだから一番避けそうなものなのに、均実はあえて乗馬だけは亮に教えてくれるよう頼んだのだ。 「ん〜……必要になるんじゃないかと思ったんだ。」 寝着になってあとは布団にもぐるだけになりながら、均実はそう言った。 「私はいつまでもここにいるわけにはいかないでしょ。国に帰らなきゃ。 その方法が遠くにあるっていう可能性も無きにしもあらずでしょ?」 本当の理由はそれではないが、とりあえずそういうと悠円はさみしそうな顔をした。 「均実様、どっかいっちゃうの?」 「帰れる方法があるなら帰らなきゃっていうだけよ。」 ここに来てかなり長くなる。時間も越えているのだから、どう考えていいのかわからないが、あっちの時間もこっちと同じように流れているのなら、均実の周囲はかなり大変なことになっているだろう。 それなりに望郷の念もあることはあるのだが、均実はもし日本に帰れるとしたらそっちの方が心配だった。 均実の言葉に思いっきり暗くなった悠円を見て、均実は笑った。 「帰れる方法があったら、よ。そんなまだ見つかってないものを見つかった時のこと考えて心配しないの!」 今は日本を懐かしむより、こちらの居心地のよさに浸っていたい気持ちのほうがどちらかというと強い。……その理由の一番は受験のせいかもしれないが。 悠円は気持ちを持ち直して下がっていった。 その後姿を見送ったあと、均実は横になった。 「とりあえず確かめたいのよね……」 悠円に言わなかった本音がこぼれるように口からでた。 いまだにここが三国志演義の時代なのだというのが、確信をもてなかった。 確かに周りの人間がもたらすことは三国志演義に書いてあったことに非常に追従している。だが、それが本当にこの世界であったことなのだろうか。 手の込んだドッキリにはめられているような気がどうしても抜けない。 本当にここが三国志演義の時代なのかどうか、それだけでもはっきりさせたかった。 だから均実はこの家からでて、直接その戦場となっているところに行くつもりだった。まあといっても戦に参加する気はなく、本当に戦いがあるのかを見にいくだけだが。 そのために乗馬が必要だったのだ。 だが……そのことを話してもきっと亮や悠円、甘海も反対するだろう。 それだけがこの計画のネックだった。 均実はしばらく寝台で横になっていたが、そのうちむくっと起き上がった。 静かに音をたてないように部屋の隅に動くと、置いておいたGショックを手にとった。 バックライトをつけると、あたりは結構明るくなる。 燭台もあるのだが、わざわざ火をつけるのは面倒である。 均実はその明かりを頼りにゆっくり部屋から出て行った。 ……ただ単にトイレに行こうとしただけなのだが。
亮は手元の竹簡に踊る文字を、揺らめく燭台の火で照らし眺めていた。 「兄上はまだ仕えられないようだな……」 「慎重にされておられるんでしょう。」 亮の言葉に甘海はそう応えた。 実は亮には姉と兄がいる。姉とはそれほど遠くないところに住んでいることもあって、しばしば互いの場所へ行き来することもあるが、兄の謹はかなり遠く江東の土地にいる。 その土地は現在孫策によって治められている場所で、劉表が治めているこの荊州とはかなり離れている。早馬を飛ばしても半月はかかるだろう。その上大きな川(長江)を挟んでいるので、ますます会いづらい。 畢竟、文のみのつながりになり、弟の均の喪式も謹はくることができなかった。 「そうかな……?」 甘海のそつない返事を聞いて亮は疑問を呈した。 「私は兄が孫策は傑物ではないと判断しているのだと思うが。」 兄からの竹簡には、具体的にそうとは書いておらず、まだ士官していないということのみ書いてはいるが、あの兄である。おそらくは孫策に仕える価値がないと判断しているのだろう。 甘海が亮の意見に目を開くと、微かな笑みを浮かべた。 亮の幼いころから自分は彼とよく話をしていた。その彼の鋭さにはいつも舌を巻いていたが、この手紙からもきっとその独特の勘のよさから何かしら受け取ったのだろう。 「殿がそう思われるのならそうかもしれませんね。」 亮はもう一度文面に目を走らせたあと、自分の机の上に置いた。 「まあ、私も劉表殿に関しては同じ意見だな。」 「殿?」 「だからもしかすると兄上は自分が傑物だと思わない人物には、例えその勢力圏内に住んでいたとしても仕えていないのだから、お前も焦るなとおっしゃいたいのかもしれない。」 甘海は肩を落とした。 この兄弟の洞察合戦には自分は敵いそうにない。 甘海がそう思っていると、ふと思い出したように亮が言った。 「そういえば均実殿の乗馬はどうだ?」 「……悪くありません。」 亮はおや? と思った。甘海は事実を事実としてみることもできるが、どちらかというと点は辛いほうだ。 その甘海の言葉は、つまり賛辞だといっていい。 「均実殿は筋肉痛がひどいと、最近言われているが……」 「乗馬を始めた者がそうなるのは殿もご存知でしょう? おそらく勘がいいのでしょう。手綱さばきはぎこちないものがありますが、落馬しそうでしない。」 「おいおい、落馬させるなよ。」 「もちろん、させるつもりはありません。」 亮の言葉にふざけすぎだな、と思い甘海は自分の物言いを訂正した。 均実が乗馬の練習を終え、甘海とともに屋敷に帰ってくる姿を、亮は必ずどれほど忙しくても確認しようとする。 均と均実を重ねてみるということはしないようにと心がけているようだが、それでも心配になるものはなるのだろう。 「後はその問題である手綱さばきさえ掴めば、十分教えることはないでしょうね。」 均実の馬上での動きは確かに目を見張るものがある。 こちらが教えていないのに、馬の動きにあった姿勢をとるのだ。 「そうか……気をつけてやってくれ。」 亮はそういうと甘海に下がるように指示した。 均実にこの国のことを教えてやったときも、はじめは戸惑ったようだが理解は早かった。乗馬にしても同じなのだろう。 そう考えながら、自分の不安をもてあましていた。 本当は均実が乗馬の練習をしたいといってきたときに、止めたいと思った。 だがそれでは周りの者にまた心配をかけるだけだと、自制した。 それでも均実を均と重ねて見ているつもりはないが、今回乗馬の練習を許可したことに一抹の不安を感じていた。 どうして均実は乗馬を教えて欲しいなどといいだしたのか。 近くの村に下りることは馬など使わなくてもできるし、大きな町にいきたいのなら襄陽にいけば済むから歩いても一日でつく。 それはつまりここから均実がいなくなろうとしているという意味を示すのではないか。 そんな不安が亮を襲っていた。 均実は弟ではない。だが大切な客である。 この均実との生活を自分が楽しんでいるという自覚がある。 弟でなくても、側に置いておきたいと思える。 だが均実自身がここからいなくなろうと考えているのを、亮は止めることはできない。 私は……どうしたいのだろう。 馬にのる方法を教えなければここから均実はでていかないだろうか? だが、均実はもともとこの国の人間ではない。 引き止めたい、だが引き止めれない。 堂々巡りを始めた思考に亮は苦笑した。 「ダメだな……少し外にでるか。」 寝着の上から置いてあった上着を羽織ると、部屋をでる。 燭台を持たずに庭にでると、丁度月が雲から出てきたところで庭全体を明るく照らした。 整っていない庭の木々をみて、亮はため息をつく。 昔は均が手入れをやっていた。別に荒れていることが嫌ではないので、特に誰にも整えさせようという気がしなかったので、均が死んでからはそのままにしている。 誰もそれを咎めようとはしなかった。 それだけでも自分がどれだけ恵まれているのかわかる。 それなのにまだ悩むことがある自分に、亮は笑った。 どれだけ貪欲なのだろう。 昔の偉人に思いを馳せる。 楽毅は秦の始皇帝を助け、管仲は斉の桓公を補佐した。 二人のことを亮はいつも尊敬し、彼らのようになりたいと思っていた。 だがそんな彼らもこんなふうに悩んだのだろうか? 事の違いはあれ、きっと悩んだに違いないと思うと自分が慰められるような気がした。 「あれ? 亮さん、何してるんですか?」 突然の声に亮は驚いてそちらをみた。 建物の影からでてきたところで、均実が寝着のままこちらをみている。 「いや、眠れなくてね。すこし庭にでもでて外の空気でも吸おうかと……均実殿は?」 「う〜ん、それが用を足した後、フラリと外にでてみて夜空をみて凄いなぁと。」 「夜空が?」 「私の国ではこんなに星、ありませんでしたから。それで気のむくままにお散歩を。」 均実がそういったので、亮は驚いた。 「星の数というのは場所によってそんなに変わるものなのか?」 「あ、いえ。そういうわけじゃ……ないと思いますけど……」 歯切れ悪く答えた均実を不審に思いながら、亮も空を見上げた。 「……確かにたくさんの星があるな。」 「綺麗ですよね。」 均実も同じように空を見上げて言った。 「綺麗?……ああ、そうか。そういわれればそうなのかもしれないな。」 「亮さん、この空を見てそう思っていたんじゃないんですか?」 「星は運命をつかさどり、それを見るための道具としてしか見たことがなかったから。」 「もったいないことしましたね。」 均実の意見に、確かに綺麗だと思えてきたその星空をみあげたまま、その通りだなと亮は思った。 黙ったまま空を見上げてしばらくしてからだろう。 均実は首に手を当てて、首を回した。 「あ〜、首凝った。亮さんもあまりやると、首筋が痛くなりますよ?」 「これまで美しいと思わずに見てきた星たちに失礼だから、もうすこし見上げているよ。」 均実はその奇妙な理由に一瞬噴出しそうになったが、なんとか抑えた。 亮の横顔がとても悲しそうにみえたから。 ……何かあったのかな? 均実はその横顔をみながら考えた。 今日の午前中、畑で作業を手伝っていた時は均実の筋肉痛への愚痴をきいてくれたりして、特に変わったところはなかった……はずだ。 数ヶ月一緒に暮らしただけだといっても、亮が均実を大切に扱ってくれているのはよくわかった。知りたいと言ったことは教えてくれたし、やりたいといったことはできる限りやらせてくれた。 庶も最近亮は明るくなったといっていたし、特に変事といった変事は…… あ〜、やっぱり乗馬の練習のことかなぁ…。 乗馬をやることが、亮に対して苦痛になるんじゃないかという可能性は均実もわかっていた。自分から均実を均に重ねてはいないと宣言した亮だったが、さすがに乗馬の練習はやってほしくなかったのかもしれない。 内腿の筋肉痛に耐えながら、均実は亮の近くに歩きよった。 「馬にやっと慣れてきました。怪我したりはしないと思います。」 だから心配するなというつもりで均実はいった。 亮はそのことばに一瞬ピクリと動いたが、空を見上げたまま均実のほうをみようともしなかった。 それ以上どう声をかけていいかわからず、続く沈黙が少し重い。 よく耳をすますと小さく虫の鳴く声が聞こえる。 もうそんな季節になるんだなぁ…… 「均実殿はどこに行きたいのか?」 こちらの世界にきたときはまだ早春といっていい季節だったのに、と考えていた均実は亮の質問に一瞬対応できなかった。 「……どこって」 「馬の練習をしたいと言い出したのは、どこかいきたい場所があるからだろう?」 やっと均実のほうをむいた亮はそう言った。 「均実殿は私の客だ。だから行きたい場所があるなら、そこに行く手配をしてもいい。」 「でも……」 ここで畑を耕している亮に戦場にいけるように手配するなんて可能なのだろうか? 均実はその申し出に甘えることに一瞬躊躇したが、どうせ出かけるときには話さなければいけないことだ、と考え直した。 手配が不可能でも、どこにいきたいのかは言っておかなくてはいけない。 「徐州の下邳というところに……」 「下邳?」 亮は繰り返すと、すぐ二の句がつげないといったように口をあけた。 「どうかしましたか?」 「いや……以前、行ったことがある土地なだけだよ。」 苦笑して首を横にふりながらいう亮に違和感を覚えつつ、均実はそれ以上聞くのが悪いような気がした。 亮は苦笑を収めると均実をまっすぐ見直した。 「今なぜ徐州に?」 「え……と、それを説明するのは難しいんですけど……。」 「徐州が今、危ないことは理解しているよね?」 危険が少なく、それでいて実際に戦いが行われているのを知るにはどこがいいか考えた上で考えついた行き先だった。 三国志演義で関羽が守っていたのがその下邳という町だったはずだ。曹操が攻めてきたとき、関羽を下すためその町にいた劉備の奥さんをとらえた。という話だった。 曹操はこれから確か袁紹と戦い、そのあと徐州をせめるはずだ。他の徐州の町にいるより下邳にいるほうが、安全だと考えたのは曹操が関羽を仲間にしようと考えたということからだった。関羽が守っている町を焼き払ったり、めちゃくちゃ略奪したりとかすれば関羽は下ることはないだろう。 という推論だったのだが……これを説明するために、これからの曹操の行動をきっちり予言できてしまうと、それも困る。均実は関羽がその困難を乗り切るところまでしか知らないのだから、それ以外の予言を請われてもわからないからだ。 均実が困っていると亮は息を吐いた。 「何か考えがあるのかい?」 「……はい。」 「わかった。甘海につれていくよう命じよう。」 絶対に反対されると思っていたので均実が口をあけたまま固まった。 我ながら間抜けな表情だとわかったが、それ以外どうしようもなかった。 「甘海なら広い人脈がある。困ったことがあっても、大抵ならなんとかなるだろう。」 「亮さん……反対しないんですか?」 「……私にはその権利はない。」 行くなとは言えないと自分でわかっている。 均実が言った場所が遅からず、いまの状況では戦場になるだろうこともわかっている。 それでも止めることはできない。 「ただ……約束してくれないか? 危険を冒さず、生きて必ず戻ってくると。 均実殿の気がすんだら、必ずここに。」 これが最低ラインだ。これ以上の束縛はできない。 亮はそう思った。 そういった亮の表情がさっき星空を見上げていた顔よりも、もっと悲しそうに見えた。 均実は戻ってくる、と軽々しく約束できない。元の世界に帰ることができる方法がいつみつかるかわからない。万が一、この行った先で強制的にすぐに戻ることになったら、約束を破ることになる。 考えて、考えて、均実はやっと一つだけ約束することにした。 「どんなことがあっても亮さんより先に死ぬことはありません。」 死ぬつもりはまったくない。この歳で死ぬほど悪いことをしてきた覚えはない。 だからこのことだけは約束する気になった。 亮は悲しそうな顔をそのままに、器用だなと思うほど、本当にそのままに笑みを浮かべた。 「均実殿はやはり頭がいいな。」 また亮は星空を見上げた。
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