六時半まであと二分四十秒…… 均実は腕時計のデジタル盤にちらりと目をやると、独り言をいうようにそう考えた。 いつもどおりならそろそろ来てもいいはずだが、まだ待ち人の姿はここから見えるアスファルトの上には無かった。 電信柱にもたれかかって空をみあげると、もう立春を一週間過ぎたとはいえ、まだこの早朝の時間は太陽が存在を主張するところまでいっていなかった。 消えかけている星をぼーっと見上げていると、耳にリズム良く少し焦るような足音が聞こえてきた。瞳はその足音の主のほうに顔をむけ 「いつもより遅かったんじゃない?」 と声をかけた。 「ゴメン、ゴメン。目覚ましなってから五分ぐらい頭が働かなかったんだ。」 少し息を切らしてやってくる同級生は、そういいながら頭をかいた。髪の毛が邪魔だというので最近はポニーテールにしているから、少し乱れる。 均実はため息をつきながら、軽くアキレス腱をのばした。 彼女は同じバレー部の相川純である。この三学期に入ってから、二人で朝練をするために、均実と純の家の丁度中間ぐらいの距離にある、この電信柱で毎日待ち合わせをしていたのだ。 「ほんと。二人でやってて良かったね。」 均実がそういうと、純はペロッと舌をだして笑った。 純は愛嬌もあって人気者なのだが、少し自分に甘いところがある。この朝練をはじめてから一週間に一回は遅刻しそうになるのが当たり前だった。 これも純がいうには「たいしたもんだよ。なんだかんだ言って一ヶ月以上つづけてるもん。」らしい。たしかに均実と一緒にやることになっていなければ、純は朝練をニ、三日で飽きてやめているだろう。一応世間一般で言う幼馴染にあたる均実には、そのことが十二分に予想がついていた。 「あと二十秒……………」 均実はもう一度手首をみて、時計の数字がもうすぐ六時半になることを声にだして、純に伝えた。 純は簡単に体をほぐしながら、電信柱の横に並んだ。その横に均実も並ぶ。 「五、四、三、ニ、一、ドン!」 二人とも一斉に駆け足に移る。全力ではなく、それでもゆっくりというわけではないというぐらいのペースをつくると、いつもの通りのルートを走った。 来年度で高校生活は最後である。今はレギュラーを二人とも手にしているが、均実たちの学校のバレー部は地区の中でも屈指の強さを誇っており、それゆえ選手層も厚かった。気を抜けば、後輩にすぐ追い抜かされる。そのため自主的に二人はランニングを毎朝やっているのだ。 「ねぇ、ヒト。数学の、問題、ってとけた?」 純が走り出して一分を過ぎたぐらいにそう均実に話しかけた。 ヒトというのは均実のあだ名だ。といっても純しか使わないが。 幼いころはヒト=人ということで、名前がないんだろ、名無しのごんぺ。と男子にからかわれたこともあるが、純はいくらいってもこのあだ名で呼ぶのをやめるつもりはないようなので、均実はとっくの昔に訂正するのはあきらめた。 「純ちゃんは、できたの?」 横にいる幼馴染に顔もむけずに、均実は聞き返した。 「問一と、ニはね。三番が、わかんない。」 「三番? ……教科書に、答え、のってたよ。」 「マジっ?」 まだ白くなる息をはずませて、そんな会話をしながら走る。簡単な会話ができる程度のスピードをつかむのが一番いいのだ。 「今日、学校でプリント、みせたげるよ。」 均実はそういいながらすこし体が温まってきているのを感じていた。首もとの襟に中途半端に長い髪の毛が汗でひっついて入り込む。こそばゆくて首筋に手をやって髪の毛を外にだす。 そんな均実のそぶりを見ていた純は髪をくくるか切ればいいのに、というがくくれるほど長くもないし、切りに美容院に行くのも面倒だったのであいまいに返事した。 太陽がおそるおそる顔を出し始めると、犬の散歩に出てくる人や、均実たちのようにランニングをする人たちとすれ違いだした。 均実も純もどうせこの朝練が終わったら一旦家に帰ってシャワーを浴びるので、学校の長袖長ズボンのジャージを着ていた。これも二人だからいいのであって、一人だとなんとなく気恥ずかしいものだった。 「あと三、ニ、一、終了〜〜」 均実がそういうと、二人とも速さを緩めた。ウォーキングに切り替えてそのまま歩き続ける。しんどいからといきなりその場に止まると余計しんどくなるのは、この二年間の部活動でしっかりわかっていたからだ。 「やっぱりおんなじ時間走っても距離が伸びてきたね。」 数十分走ってきたその場所は住宅地を縦に横にと走ってきたにも関わらず、最初の電信柱からはかなり離れていた。 「何か日々進歩してる感じがしていいね。」 純がそういいながら、腕を頭上に伸ばした。 もう結構空は明るくなっている。均実は時計を確認して、このまま帰ればちょうどいい時間に家につけるなと考えていた。 「ん〜じゃあ今度から違うメニュー増やしてみようか?」 「げっ……」 「冗談、冗談。」 純の本気で嫌そうな顔をみて、均実は手をふって笑った。 夏の大会を目標としているので、今は体力をつけるときだ。下手に技術の練習なんてすると、本番でバテるだろう。 純はホッとしたよう胸をなでおろした。 その胸は同年代の女子にしてみると少し大きめだ。以前均実が聞いた時はDだとかEだとかいっていたはずだ。 歩き続ける足をとめずに思わず口から疑問がついてでた。 「それにしても何食べたらそんなに胸大きくなるの?」 唐突な均実の言葉に一瞬純はきょとんとしたが、笑みを浮かべて 「うらやましい?」 と聞いてきた。 「それはない」 きっぱりと均実は否定した。 「見るからに邪魔そうだし。特に運動する時は。」 「またまた〜、そんな無理しちゃって〜。うらやましい物はうらやましいってはっきり言ったほうがいいよぅ?」 「や、ほんとにうらやましくはないから」 これは均実にとって本音だった。 別にもうすぐ十七(誕生日が三月なので)だというのにブラのサイズがAにもみたず、スポーツブラすら必要ないという自分の貧素な胸は別に自慢できはしないが、劣等感があるわけではなかった。 まあ確かに、均実も純も身長が百七十近くでほとんどかわらないのに、なんで胸だけこんなに違うのかとは思うが。 ただ最近よく均実は思う。 背が高くて胸もないんだがら、男として生まれてくればよかったのに…… 学校の体育館では女子バレー部のすぐ横で男子バレー部が練習している。男女ともにバレー部は強いため、女バレー部に負けず劣らず男バレー部の練習もごついものがある。 だが決して負けはしない量の練習をこなしているにもかかわらず、男子のサーブやアタックにはときどき身がすくみそうになる時がある。 決して勝つことができない。 そんな気分になるのだ。 それが均実が女であるという理由でしかないのであれば、すごく悔しい。いくら努力しても報われない理由。 それを純に話した時、彼女は笑って「でも男子だって女子にかなわないときもあるよ」といった。そんなことわかってる。だけど違うのだ。 だからって悔しくなくなるわけじゃないのだから。 少し黙り込んで歩いていると、純は少し考え込んでから言った。 「均実ってさぁ、……今流行の性同一性障害?」 「……はぁ?」 「テレビで最近よくとりあげてたりするじゃん?なんか有名な人がそうだったりとかしてさ。なんか自分の性と気持ちがあわないってやつ。知らない?」 「知ってはいるけど……違うと思うよ。」 純の意見を均実は実は今まで何度か考えたことがある。 でも決して、断言して言うし、なんなら言うところを録画してもらっても構わないが、均実は女の子を恋愛対象にみたことはない。それに普通にかっこいい男の人がいれば、「あ、あの人かっこいい」と感じることだってある。 というか同性同士の恋愛とかいうジャンルには一歩ひいてしまうタイプだ。 理屈で言えばわからないこともない。自分が生きていくのに必要だと感じた人がただ同性だっただけのことだ。 ただそれはきっと自分にはあてはまらないだろうな、と漠然とした確信があったので、嫌悪感をいだくとまではいかないが、少し敬遠している。 「別に純ちゃんを性欲の的にしたいとは思わないもん。」 「性欲って……ヒト、少し言い方を考えてよ。」 少し顔が赤くなった純をみて、均実は苦笑した。 均実にはこういう大雑把なところがある。 周りがなんで恥ずかしがるのか理解できないのだ。 一番理解できないのは、男子が女子が自分が生理中であることを隠そうとしないのを恥ずかしがることだ。一月に一度、嫌でも来るもんなんだから隠しても仕方がないと思うのだが…… 日が結構昇ってきたころにようやく電信柱にたどりついた。 「じゃ、学校でね。」 「うん」 そこで左右に分かれて家に帰る。 いつもどおりの学校生活がまた始まるのだった。
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