外では兵たちがふるまわれた酒を持ち、それぞれに騒いでいるのがわかる。 その祝勝ムードは感染するかのように、屋敷の内外に関わらず広がっていた。この部屋の中でも、料理に酒にと口へ運ぶ顔々は明るい。 空に太陽がいなくなったころ、今騒いでいる者たちが勝利をおさめて戻ってきた新野には、月が地を見下ろしている。 戦が終わったわけではない。だがとりあえずは勝利したのだ。ならばこういった兵への慰労というのは必要なものだった。そしてそれには地位のある武将や参謀といった者も参加することになっている。 もちろん一般の雑兵に入り混じるわけにはいかない。そのためある屋敷の一室を借りきっての宴に武将や参謀はおり、その屋敷の庭や周囲で兵たちは騒いでいた。 そんな宴の場は最初はなんとなくの規律があるのだが、そんなものはいつの間にかなくなってしまう。それぞれの席に座っていたのだが、もうほとんどの人間が好きに立ち歩き、各々に祝いあっていた。 関羽はその中にあって、席を離れずに静かに飲んでいる少数派だった。 「はっ、阿瞞め。ざまぁみやがれってんだ。」 そんなことを言う張飛に捕まったからでもある。阿瞞とは曹操の幼名で、今のは特に侮蔑の意味を含んでいる。彼の品のなさすぎる言葉遣いにすこし呆れながらも、関羽は黙って付き合ってやっていた。 本当なら劉備を加えた義兄弟三人で祝いたい……というか絡みたいのだろうが、この宴ではそうもいかない。総大将である劉備は次から次へと杯を勧められながら、何人もの将の話を聞いている。それも彼の仕事なのだ。 関羽が一段高いところにいるその義兄をみやると、その横には何人か文官がいる。単福や孫乾もいるが、やはり劉備の一番近くにいるのは亮のようだ。 「水は確かに有能なようだな。」 大きく軍を二つにわけた今回の戦略に、兵は戸惑うどころか自由自在に動いた。この勝利にその俊敏さが要となった感は否めない。 それの指揮をとったのが亮だということはわかっていた。 関羽の言葉を聞いて、杯をあおりながら張飛は機嫌よく笑った。 「おお、孔明殿は大した才の持ち主だな。」 前まで亮否定派の筆頭だったはずなのに、あっさりと彼はその主張を翻した。 張飛のこういう自分の間違えを何の戸惑いもなく認める素直さ、柔軟さには感心する。古城で関羽のことを誤解していたと知ったときも、すぐに考えを変えた。 均実は古城での一件で張飛を呆れていたようだが、これは彼の美点なのだ。 ……確かに早合点というのは、もう少し慎むべきだとは思うが。 そのとき関羽はあの文官の中に、その均実の姿がないことに気付いた。別にいなくてはいけないわけではないし、こんな宴だ。立ち歩いているのかもしれない。 張飛の話に相づちを打ちながら周囲を見回すと、すぐに彼女を見つけることはできた。立ち歩いている人間に紛れて、均実が宴の場から抜け出そうとしている。すぐに室内からその姿が消えた。 どうかしたのだろうか? 「すまんな、益徳。」 「ん? どうした、兄貴?」 「用ができた。憲和殿でも捕まえて、気にせず飲んでてくれ。」 席を立つと、後ろで呼び止める張飛の声を無視して、関羽は均実の後を追った。 部屋を出ればそれほど遠くないところに見えた均実の後姿は、酔っ払っているようなものではなくしっかりしている。酔いをさましに外に出たわけではないだろう。 足早に彼女に近づこうとするが、酒に酔っ払ってそこら中にいる兵が邪魔でうまく進めない。 「邦泉殿。」 呼びかけても彼女は振り向かない。 ……これはまた何か考え込んでいるな。 関羽はそう思ったが、ここで彼女を均実と呼ぶわけにはいかないだろう。 仕方がなく、均実が足を止めるまで姿を見失わないようにだけして歩いた。 ずんずん進む均実が足を止めたのは、兵が溜まって酒盛りしている場所を、遠くから眺められる程度に離れた場所だった。熱気は伝わってくるが、それに巻き込まれないほどの距離をとって止まったといってもいい。 ここならまず話を聞いている奴はいないだろう。 「均実殿。どうかしたのか?」 関羽がそう呼びかけると、ピクッと顔をあげ均実は振り返った。 「雲長殿。」 驚いた表情をしている。後ろについて歩いていたのには、やはり気付いていなかったのだろう。 「あまり酒は得意じゃなくて。あそこにいると皆、次々に飲んでますし。いつまで経っても杯を空けないでいると、嫌な目で見てくるんですよ。」 本当に参っているように均実がそういうので、関羽はすこし笑った。 彼女が酒嫌いというわけではないが、すこし敬遠しているのは知っている。そのせいか、兄である(という触れ込みの)亮が劉備に厚遇されているせいか、はたまた本当は女であるからか、関羽には文官の中でも均実が浮いているように見えていた。 それとも……もともとこちらの人間ではないせいか。 その可能性に関羽は首を振り、改めて均実を見た。 「わしも益徳に捕まっていたしな。」 想像がついたのだろう。均実の顔に笑みが生まれた。 そのとき関羽はふと均実と直に話すのが、久しぶりだったことに気がついた。 均実は相変わらず男装をしていて、口元には付け髭がある。姿格好もそうだが、立ち居振る舞いも男に似せているようで、知らない者は均実が男だと疑わない。そういう意味では演技がうまいのかもしれない。 誰にも均実が女だと感じさせない。 人の目をあざむくことに慣れている。 だから……彼女は悩みを見せないのがうまいのか。 笑みを消して関羽は均実を見た。 「何を考え込んでいたんだ?」 「え?」 「字で呼びかけても、気付かずに歩き続けていたのでな。」 「ああ……」 考え込んでいるときのその癖が治る気配は、全くないようだ。 だが関羽はそれでいいと思う。 自分の感情をぶちまけるということを、均実はしない。困ったことが起こっても、自分だけで解決しようとする。そんな均実の唯一その癖だけが、関羽にとっては彼女の悩みを勘付く術だった。 均実は答えようとしてためらう様に視線をめぐらすと、困ったように天を仰ぎ見た。 自分には言い難いことなのだろうか。 関羽はそう思い、一つのことを思いついた。 「孔明殿のことか?」 均実が驚いたようにこちらを見たので、図星か、と思う。 「ならもう心配はいらない。今回の戦で、孔明殿の評価はかなりあがった。 益徳もすっかり見直したようだからな。」 均実は亮へあまり良い感情を抱いていない将がいることを知っていたのだろう。というよりそれは新野では有名な話だった。主だった将は亮へは剣呑な目を向けていた。関羽も彼を積極的に否定することはなかったが、けして肯定していたわけではない。 愚痴るために居酒屋に来る武将も多い。だからそういった情報は民にも漏れる。新野の民に触れる機会の多い均実は、それを的確に把握していたに違いない。 「そうなんですか、――よかった。」 そんなふうに言った均実を関羽は見下ろす。そしてゆっくりと大きく息を吐き出した。 均実の反応で彼女の考えていた事が、亮のことだったのだという確信を強くした。 そのことをすこし不快に思いながら、関羽は話題を変えた。 「均実殿はこれからも男として生活し続けるつもりか?」 その話題に均実は怪訝そうに眉をひそめる。 今更といった感じだろう。そのために今だって男装を解いていないのだから。 「はい。それが何か?」 「曹操も南下を諦めたわけではないだろう。」 「はい」 「……武官ではないから均実殿が実際戦うということはないだろうが、これは戦だ。どうなるかはわからない。 孔明殿の奥方は親友なのだろう? 男装してわざわざ仕官などせず、一緒にいてやったほうがいいのではないか? そちらのほうがいくらかは安全だろう?」 「そういうわけにはいかないんですよ。」 均実はただそう言って、首を横に振った。 やはり弱くなどない。けして抱え込むのをやめようとはしない。 自らの決めたことに、妥協をしない。 関羽は均実のその言葉にため息をついた。 戦場になどいて欲しくない。 戦をする理由にいくらでも綺麗ごとを並べたとしても、やることのつまりは殺し合いだ。均実のことを考えるならば、そんなところにいて欲しくない。 だがそういうわけにはいかないらしい。 なら、こういうしかないだろう。 「……ならば、何かあればわしを必ず呼んでくれ。」 周倉は均実が戦場にいる女子にしては落ち着いていたと言っていた。死への恐怖がないのだろうかと笑っていた。 だがそれは違う。 彼女はきっと知っている。死を。死ぬということを。 ただ…… 「ん〜……どうして雲長殿は、私にそんなよくしてくれるんですか?」 関羽の言葉に、もう一度均実は苦笑を浮かべた。 許都にいたころも、関羽は均実に対して侍女への対応には過分な扱いをしていた。未だにその理由がわからないらしい。 「さて、な。どう思う?」 疑問を疑問で返した。 まったく均実は関羽の気持ちに気付こうともしない。 すこし責めるような気持ちもあり、関羽は均実をただ見つめる。 じっと見つめられ、均実は気まずさを感じたのか目をそらし……たさきの風景に目を見開いた。関羽は均実の見た方角に顔を向けると、こちらは無意識に顔が強張る。 かなり遠いが、亮が部屋の入り口から出てきたのを見えた。ここは出入り口からはかなり離れているが、間違いないだろう。 今日の宴で彼は劉備と共に皆に囲まれていて、離してもらえなさそうだったのに。 「ちょっと失礼しますね。」 均実は簡単に礼をして関羽の前から離れた。 それを見送る関羽の口からは大きなため息がでた。関羽は均実が去って行った方向を見つめている。 髭があるから男に見えなくもないし、中性的な顔立ちが功を奏して、誰も今のところは気付いていないようだが……均実が女であることは変えようのない事実なのだ。 性別がばれるのも時間の問題なのではないか。 皆にばれたとき、均実はどうするのか。 わからない。だがどのような決断を彼女が下そうが、自分の側に無理矢理留めることはできないに違いない。 とどまることをしない、まさに水のような女だ。 導き出した結論に苦い物を感じ、それでもわずかな希望を探すように、関羽は空を仰いだ。
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