劉備の武将らへの説得が功を奏したのか、孔明という名に対しての陰口は影をひそめたようにみえた。 亮自身が練兵に顔をだすようになったことも関係あるだろう。聞く話には新しい鍛錬に戸惑う兵たちをまとめてみせたという。その手腕、上に立つ者としての姿を示し、亮はその能力を認められたようだ。 そんなわけで張飛を筆頭とする一部の少数派を除けば、不満を吐く者は確実に減ってきていた。 劉備はとりあえず今の状況に、さしあたっての問題はないと思えている。だから新野を訪ねてきた襄陽からの客人への対応も余裕を持ってあたれた。 でなければ若すぎるこの客人を、本当にただの客だと思ったかもしれない。 「そうですか、兄君の紹介で……」 「はい。しばしこちらに滞在させていただきます。」 劉備は目の前の青年のその言葉に片目をすこし開いた。 新野で劉備が良政を敷いているという話を聞いた劉表が、人材にその手際を見せて育てたいと思った。そのためにまずは若い彼が来たという。 彼の兄を劉備は知っているが、わざわざ比べなくとも格段に誠実そうな人物に見える。 この青年は、はきはきした話し方、態度、表情、どれをとってもあの兄と兄弟にはみえなかった。背も彼のほうが高いだろうし、顔もあまり似てないような気がする。 だがこの青年自身には、前にきた彼の兄より好感がもてた。 「では客舎の手配を」 「いえ、それは結構です。」 「しかし……」 劉備は彼のその言葉に戸惑った。 若いとはいえ、蔡家の人間だ。丁重な扱いをしなければいけないだろう。 だからここに滞在する間の宿泊場所を手配しようとしたのだが…… 「友人がここにいるはずなので。そちらに世話になろうと」 青年がそう言ったとき、 「お客様でしたか。」 涼やかな声が劉備の耳に届いた。 見ると亮が部屋の入り口に立っている。 練兵場での指示がとりあえず終わり、今日は劉備の請いどおり、ここにきてくれたのだろう。 青年が振り向く。そして口に笑みを浮かべた。 劉備は亮にこの青年を紹介しなければと口を開こうとしたが、それよりも先に青年が言葉を発した。 「お久しぶりです。」 「君は……襄陽にいたのではなかったのかい?」 劉備を無視した形で、亮は訊いた。驚きでつい、その非礼に気付かなかったのだ。 だがそれを気にした様子もなく、劉備は二人を見比べた。 「知り合いだったのか?」 青年が言う友人というのが、亮だったのかと思ったのかと思う。 だが亮の言葉はその考えを否定した。 「私の弟の、友人ですよ。」 それに応えるように、青年は頷く。 「今回は兄、蔡瑁の紹介でこちらに来させていただくことになりました。 邦泉は元気ですか?」 青年――季邦はそう言って微笑んだ。
「連絡ぐらいしろよ……」 友人に再会できたことは嬉しいのは嬉しいのだが、あまりにも突然で…… 均実は、亮と一緒に劉備の屋敷から帰って来た季邦を迎えてそう言った。 ざっと数えて四年ほどだろうか。彼が劉表に仕官してからは書簡だけの交流で、直には会っていなかった。だが背も伸びて、均実より低かったはずの目線もすこし見上げるぐらいになっていた。この世界の一般的な平均身長よりも十分高いだろう。 悠円が慌てて席を用意するのに「構わなくていいぞ」と声をかけつつ、季邦は襟をかいた。 「出発ぎりぎりまで、いろいろ忙しかったんだよ。」 変わらない仕草でくつろぐようにあぐらをかき、大きくあくびをした。 その季邦の様に均実は笑う。 「変わってないな、季邦は」 背格好が少々変わったせいか、印象が覚えていたものよりひどく大人びて見えた。だが隆中にいたときからの形式ばらない彼の行動は、均実にとって気楽なものであることに変わりなかった。 仕事を始めてからは特に、これは日本でも同じだろうが、無駄に堅苦しく守らなくてはいけない礼儀作法というものがいたるところに多々ある。 そういったものは未だ親しみがたく、嫌気がさすこともたびたびだ。 それが季邦にはない。ただ普通に同世代の人間として話しているだけだった。 友達って大事なものだな。 しみじみとそう均実は思った。 純とは親友だが、自分が男として生活しているせいで、話す機会が少なくなっているのは確かだった。その機会がきたとしても、たいてい純のする話で終わっている。 均実自身のことを話すということは皆無といっても良い。 そのことはすこし均実にとって寂しく感じられていた。 と…… 目の前で手がひらひらしている。 「お〜い、帰ってこ〜い。」 「え?」 均実が手の主を見ると、季邦が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。 「また自分だけの世界に閉じこもってやがったな。」 その言葉を受けて、均実はようやく状況を把握した。 また考え込んでいたらしい。 これは均実の悪い癖。真剣に考え込むと周りが見えなくなるのだ。 そんな彼女を引き戻すには、本名である均実と声をかけるか、気付くのを待つか。 季邦は均実が諸葛均、つまり邦泉だと信じていて、均実という名前が本当の名前であることを知らないので、必然といつも後者だった。 「邦泉。お前、そんなんでよく仕官なんてできたな。」 「ははは……」 返す言葉がない。 笑って誤魔化そうと均実がすると、季邦はいつになく真剣な顔をしていた。 「あのな、真面目な話だ。ちゃんと聞いとけよ。」 均実の顔から、その言葉によって笑いの色を落とされた。 一体何の話だろうか。劉表に仕官することになったことを均実に告げた時ですら、季邦はこんな顔をしなかったのに。 戸惑いを覚えつつ、均実が頷くのを見て、軽い咳払いをした季邦は言った。 「俺は蔡家の人間としてここに来た。」 そりゃあ、わざわざ自分を訪ねてくることが目的ではないだろう。 何を今更というように眉間にしわをよせると、季邦は続けた。 「だから俺の行動がお前にとって、都合の悪いこともあるだろう。 俺は蔡家が大事だからな。」 蔡家からの命令は、季邦にとって絶対のものであることを均実は知っている。季邦の仕官が決まったのも、蔡家の命令だった。 「で?」 やっぱりよく話の目的がわからない。 そんなことは季邦が劉表に仕官し、均実が劉備に仕官した時点でわかっていたことだ。 季邦は表情を崩さないまま、均実を見ていた。 一度深く息を吸うと、その目を厳しくする。 重大な話なのだと認識し、何をいわれても慌てない心構えを作っていたが、続く季邦の言葉に均実は…… 「だが俺は何があったとしても、お前の友人でありたいんだ。」 呆気にとられた。 「……は?」 「お前の友人でいられなければ、俺は俺じゃなくなる。」 「……」 「頼む。俺は、お前の友人だよな?」 意味を何とか理解しようとするが上手くいかず、代わりにこっ恥ずかしさで顔が歪む。 季邦は至極まじめ面である。 なんだか愛の告白でも聞いている気分だ。 均実は思わず顔が赤くなったのを感じた。 いや、真剣な顔してこんなこと言われたら、誰だってなるだろう。 改めて言われると、羞恥心が何よりも強い。 「わざわざ、口に出すようなこと?」 顔をなんとかしかめ、恥ずかしさを押し込めると均実はそう訊ねた。 すでに友人である人間に、友人でありたいという必要がどこにあるのだろうか。 「出さなくちゃいけなかったんだよ。」 だが季邦はいたって真面目なようだ。 どこか……深刻そうな。 「友人でありたい。友人でいてくれるならば、どう事態が転んでも、お前が死にさらされるような行動はとらない。 それだけは、約束するから。」 「……一体何が?」 けして彼は自分をからかっているわけではないのはわかった。 だが季邦が死を危惧するような何が、起こるというのだろうか。 詳しく聞こうとする均実に季邦は首を振った。 言えない、ということらしい。 「俺は、お前の友人、だよな?」 問いには答えるつもりがないらしく、まっすぐこちらを見ている。 真剣な顔だと思っていた。だがそれだけじゃない。季邦の目には……悲痛な影が宿っていた。 本当に、一体何が…… 均実は空気の塊を口から吐き出した。 「当たり前のことでしょ?」 今、季邦は理解を求めているわけではない。 「季邦は私の友人だ。」 彼の意図は不明だが、この言葉を欲っしているのはわかった。 欲しているのなら言ってやればいい。別に嘘でも偽りでもない。 季邦はやっとほっとしたような顔になり、安心したような笑みを浮かべた。 だがそれが余計に均実を不安にさせる。 彼はこの新野に何をしにきたのか。そして何が起こるというのか。 しかしそれをいくら聞いても、季邦は教えてはくれなかった。 「部屋の用意なんだけど……」 やがて均実の部屋にやってきた純が、そう声をかけた。 季邦の部屋を用意してやってほしいと頼んでいたので、それが準備できたらしい。 礼を言って季邦は純の前で頭を下げる。 「ありがとうございます。」 季邦は純とは初対面だったな。彼のその丁寧な礼に、均実は今更ながらにそんなことを思い出した。隆中ではそういえば一度も顔を合わせていない。 純はすこし驚いたような顔をした。 「いえ……お気になさらずに。」 「じゃあとりあえず荷物を運び込ませてもらうな。」 季邦は均実にそう呼びかけ、均実は肩をすくめたが了承して頷く。 これ以上話していても、彼が新野に何をしにきたのかは聞きだすことはできなさそうだと判断したのだ。そのために季邦が部屋をでていってから、消化不良な気分が残った。が、均実は奇妙なことに気付く。 純が用事は済んだはずなのに出て行こうとしていない。 考え込んでいるように真剣な顔をしている。鼻の頭を撫でて眉間にしわをよせながら、じっと純が部屋の入り口をみているのに気付いた。 「どうかしたの?」 何か問題でもあっただろうか。 均実が聞くと、考え込んだままで純は口を開く。 「季邦殿って……」 均実はその戸惑ったような声に耳を傾けた。 「誰かに似てない?」 似てるって……? 均実が思い出したのは樊城でのこと。 均実は始めて劉封にそこであったとき、そう思った。 だが新野に来てから数度、劉封と会話する機会もあり、その感はずっと持っていた。だが実際に今日季邦に会ってみると、さして似ていない。 しかし何故二人が似ていると感じたのかを、均実は疑問にも思わなかった。 劉封は季邦と年もそれほど変わらないはずだ。だからなんとなく似てると感じただけだ。人のイメージというものは、時間が流れれば勝手に結構変わるのだろう。 誰かが誰かに似ているという印象は、酷く曖昧で、確証もないものなのだ。 だから純が言う、季邦に似ている誰かというのも、おそらくまったく見当はずれな人物を指しているのだろうと思った。 「世界には三人、同じ顔の人がいるっていわれるほどなんだから、誰かに似ててもおかしくないよ。」 「うん……かな?」 そういう純に、均実はそれ以上何も言わなかった。 どうせ気のせいだ。 「まあ、いいや。そうそう聞いて、喬がね……」 純もそれほど気にしていないようで、すぐに違う話題をだしてきた。 だからそう、思った。
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