書物を読んでいると、どかどかという足音が聞こえてきた。 誰かというのは聞くまでもなくわかったが、その人物が何をしにきたのかもわかっているため、関羽はため息をついた。 また愚痴を言いにきたな。 「兄貴!」 威勢のいい声が、背中にぶつかった。 そのわめき声は大きく、簡単にはおさまらない。 「あの孔明とかいう奴、練兵場に行ったらしい。 兄貴は今、一人だっ!」 持っていた書物を机におくと、関羽は振り返った。 気持ちが高揚しているのか張飛の頬は赤い。こうやって見ると、虎というより大きな猫のようだ。 「話をしにいくなら今しかない!」 「兄者と何を話すというのだ?」 「決まっている!」 呆れたような声でいう関羽に、張飛は言い放った。 「孔明相手に何故あそこまでするかってことだっ。」 張飛はそもそもあの孔明を、自分の義兄である劉備が三度も訪ねて行ったという事実からしてすでに気に食わない。最初に訪問した時に居留守を使われた時点で、彼への印象は決まっているからだ。 こちらを馬鹿にしてやがる。 だというのに、劉備は彼をずっと自分の屋敷に引きとめ、夜や昼や関係なく、ずっと語り合っているという。 いくら博望の戦いで見事な策を考えてみせた単福の推挙とはいえ、あの扱いはあまりにも他の者と違いすぎる。 はっきり言えば、えこひいきだ。 張飛のようにはっきり言う者は少ないが、他の将達も少なからずそう思っている。 そしてそれを張飛は飽きることなくほぼ毎日、関羽に聞かせに来ていた。 「絶対あいつ、何か兄貴に妖術でもかけたに違いない!」 鼻息荒く、拳を握りしめて声をあげる。 一人無茶な主張をしてヒートアップする張飛を見やった関羽は、次の瞬間立ち上がって拱手をした。 その突然の義兄の動作に、張飛がキョトンとしていると、 「なるほど、確かに孔明殿の言うとおりだったな。」 劉備だった。張飛のすぐ後ろに、彼は立って苦笑いを浮かべている。 さきほどの張飛の主張は聞いていたに違いない。 「兄貴!」 突然の彼の登場で頭が働かないらしい。パクパクと口を開け閉めするだけで、張飛は言葉を次げない。 「益徳、とりあえずそこにいては兄者が部屋に入れないだろう? 兄者、それで? 言うとおりとは?」 確かに入り口につっ立ったままだったので、慌てて横にどいた張飛とは別に、冷静に彼の言葉を聞いていた関羽はそう訊いた。 ゆっくり部屋に入ってくると、劉備は笑う。 「仲間に入ってまだ日も浅い自分を、こうも側に置き過ぎると他の者の反感を買うことになる。 そう孔明殿は言っていた。」 その言葉に張飛は不満げな顔をする。 行動を見透かされたことに、何となく腹がたったのだ。 「だから今日は一人で練兵場に行くと言われた。」 本当なら今日も劉備は話をしようと思っていた。だが彼が練兵場に行こうとしているのを見て、一緒に行こうとしたのを断られたのだ。 「どうしてそれが一人で練兵場に行くことに繋がるんだ?」 訳がわからず、張飛が眉をしかめる。 すこし皮肉げに劉備が片頬をあげた。 「自分が側にいなければ、わしも今まであがってこなかった不満を聞くことができるだろう。とな。」 本当に見透かされている。 これからまさに劉備に不満を言いにいこうとしていたのだから。 張飛は言葉に詰まり、ぷいっと横を向いた。 「実際に練兵の仕上がり具合も確認したいのだそうだが。」 「それで孔明殿は、そんな不満を持った兄者の配下への対応も助言したのか?」 関羽が張飛に苦笑しながら、続けて訊いた。 「ひいきするなら、ひいきしなければいけないということを、はっきり皆に言っておくべきだと言われたな。」 「……ひいきだってわかってやがるんなら、少しは遠慮しろよな。」 張飛の毒づきに劉備は顔を険しくする。 「益徳。お前はわしが意味も無く、孔明殿の屋敷に通ったと思っているのか?」 確かに熱心に亮を勧誘したことが世間に広まり、未だ埋もれている大器が現れるのを期待したためというのもある。 だがそれ以上に、あの屋敷にいた臥竜という通り名を持つ男に興味をもったのだ。 竜としてのその働きを。自分が求める物を与えてくれるのではないかと、期待した。 そして彼はまさしくそれそのものだったのだ。 「わしは魚だ。」 渇するように求めていたのは、ただ一つ。 「ようやく水を得ることができたのだ。」 本心だった。 孔明の語る話は明朗快活。打てば鳴り響き、水面を震わす。 まるで竜がもたらす雨が降るように。彼の言葉はその雨、つまり水だった。 水は流れる川の道となり、大望という名の海へとつながる筋道をしめす。 彼と話せば話すほど、目の前にかかっていた霧が晴れるように、次から次へと展望が開けるように感じた。 進む道に迷いはない。 「孔明殿への待遇に不満があったとしても、わしはひいきを辞めるつもりはない。」 そういって部屋を劉備は出て行った。 他の将にも同じことを言いに行ったのだろう。 「水ねぇ。……こりゃ重症だ。」 張飛は未だ不満そうに口をとがらしていた。 納得していないらしい義弟のその姿にまた苦笑しながら、関羽は目を閉じた。 諸葛亮、か。 確かに今までずっとついてきた将たちが不満に思うほど、彼の待遇は良すぎる。 だが亮について語るとき、いつもより饒舌で話すあの様子を見れば、劉備は誰に文句を言われようがとめないだろう。 劉備の部下は劉備という人物に惚れこんでいる者ばかりといってもいい。長い放浪生活などの辛い状況下でも、彼を見捨てずついてきた者たちだ。きっとそのうちその劉備の無理も受け入れてしまうに違いない。 それにしてもまるで恋でもしているかのような熱のいれようだ。 関羽は劉備のその行動をそう思う。 魚が水を恋しく思うのは致し方ないが…… 「しばらくは様子を見よう。」 関羽がそう言うと張飛はしぶしぶ頷き、明らかに不機嫌な足取りで部屋を出て行こうとする。 それをみて関羽はもう一度口を開いた。 「待て、益徳。」 張飛は素直に外へむかう足を止め、怪訝そうな顔をこちらにむけた。 苛立ちを発散するために、どうせこれから張飛は誰かと手合わせをやる気だろう。彼はそこらへんにいる雑兵に声をかけては腕試しと称して戦いを挑む。 よってあまり張飛は部下に慕われていない。機嫌の悪い彼に捕まると、ぼこぼこにされるのであれば当然だろう。 普段なら放っておくのだが…… 「久しぶりにわしが相手をしてやろう。」 「おっ、ホントか。よっしゃ、先行ってるから早く出てこいよ!」 いつもいくら頼んでも、滅多に腰をあげない関羽の申し出を単純に嬉しがる張飛は、あっという間に目の前から姿を消した。 嵐のように客の訪問は通り過ぎた。元通りの状況となっただけなのに、やけに静かに感じる。一人になった部屋で関羽は目を細めた。 「水、か。」 劉備の話しぶりでは、それは孔明のことのように聞こえた。 だがもう一人、水はいる。 空から落ちてくる雨だけが水ではない。泉よりこんこんと湧き上がる水もある。絶えなく、よどみなく…… 劉備が手に入れた水は一人ではない。 孔明が劉備といる間、数回そこを訪ねて話に加わった人物がいるという。誰かは予想がついている。関羽はこの新野へ、竜と共にきた者を知っているのだから。 そして劉備が、彼女の観察力が優れていることをかっていることもわかっていた。 「邦泉殿……。」 それは彼女への懐かしい呼び名。 義兄は彼女の真実の名ではない、その字を知っている。そしてそう彼女を呼ぶ。竜の影にある泉も、劉備が言う水とは示しているのではないか。 関羽は自分の心が波立つのを感じた。 傷つくこと全てから彼女を守りたいのに……守れない。ただ一人の女すら、自分は守ることができない。 劉備が均実を有望な人間と見ているならば、これから均実の進む道は、本人が望むと望まないと戦場に繋がっているだろう。 それが彼女の本当の名ではないとしても……本来の姿でないとしても。 水は魚に求められ、大海への道を示す。 抗いようのない大河の流れのようなものに押し流されるがごとく、全ての事象はその道に沿い始めている。 その中で均実を守るために、自分ができることは……あるのか? 関羽はある意味、張飛よりも苛立つ心を静めるために部屋をでた。 その日、白熱した長時間の手合わせは、武芸を好む者の間で語り草になったという。
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