江夏はすこし歩けば長江という場所に位置していた。 ほぼ目の前にその雄大な流れはあるといっていい。 均実は笛をとってそこにきていた。 あの日、亮はここで一緒に呉にきてくれといってくれた。 あの誘いがなければ、自分は今も声がでていなかったのだろうか。 この気持ちにも、気付いていなかったのだろうか。 均実は赤くなり、慌てて思考を振り払った。 そしてまた川の流れを見る。 笛を構え、音を出すと変わらない響きが耳に残る。 近くに今いない、それでも琵琶の音が重なって聞こえる。 はやく……亮さん帰ってこないかな。 答えを、返したかった。 自分が望んだ『邦泉』としての道。 それはきっと、亮が望んでくれているものと同じなのだから。 「ヒト。」 笛を止めたとき、後ろからそう声をかけられた。 「純ちゃん?」 珍しい。 純はあまり屋敷の外にでない。それが当たり前だったし、常識だった。 なのに…… 「供は連れてきてないの?」 周りを見渡したが、誰もいない。 叱られたように感じたのか、純は首をすくめた。 すこし呆れながらも、均実は笑った。 特に気まずいことは彼女との間にはない。 ないから、こんなことを純が言ってくるとは予想していなかった。 「ヒト、亮のこと好き?」 「っ」 もろ反応してしまったのはそのためだった。 「なっ……」 なんで、と言おうとした。 でも動揺しすぎていえなかった。 好きかどうかなんて考えたことなかった…… 「やっぱり……」 純が悲しげな顔をしたから、均実は慌てた。 「ちょ、ちょっと勘違い」 「してないよね?」 断言されて、均実は言葉につまる。 今日の純は押しが強い。 どうして…… 「陽凛がヒトの様子が変わったって。」 純はそう言った。 「私が亮の奥さんなのに」 「私は、何もっ!」 否定しようとした。均実は何かひどく思いつめている純が、より追い詰められていくのをとめようと思った。 「亮さんが好きだなんていってないし、たとえそうだとしても何も望まないっ!」 だがその返答は間違っていたらしい。 思いつめた純の瞳はより追い詰められたものになった。 純は首を振った。 「ヒト。まだわかってないよ。 人を好きになるって、もっと厄介なことだよ。」 ゆっくりと近づいてくる彼女を均実は恐ろしく感じた。 一歩、純が進むごとに、均実は彼女から逃げるように後ろにさがった。 「自分の制御が利かなくて、間違ってると思うようなこともやってしまうような」 その瞳は……どこか狂気を含んでいるように思えた。 「そのうちきっとヒトは私を裏切る。」 「純ちゃん……っ」 「私の居場所をとらないで」 後ろにはもう足場がない。 「ヒトの居場所はここじゃないでしょ? お願い、とらないで……」 カラカラカラと小石が落ちていく音がした。 後ろは長江。後一歩下がれば、落ちてしまう。 均実は背後に空気がかたまりで抜けていくのがわかった。 「江夏をヒトが出て行く前にこうすればよかった。」 しかし純の歩みは止まらない。 純は均実の腕を両手で掴み、均実を逃がさないかのようにゆっくりと手に力がこもった。 「『生きる』か『死ぬ』かの『選択』をするまでもなく、ヒトはこの世界で『生きる』ことになった。私がヒトを『門』にむりやりいれたんだもん。」 あまりにも悲しそうな、辛そうな顔をする純にはもうかける言葉がなかった。 「もともと均実はこの世界にくる必要はなかったんだよ。」 しかしその瞳の炎は消えていない。 「だからヒトを日本に返してあげる。」 純の手が離されると同時に、強く胸を押された。 ゆっくりと純の姿が遠くなる。 「……バイバイ、ヒト。」 そう純が言ったように聞こえる。 自分の周囲をすごい勢いで風が吹きぬけていく。 落ちていることに対する恐怖が生まれる前に、均実は辺りが真っ白になったのを感じた。
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