■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

均しきさだめ 作者:奇伊都

第45回   二つの太陽

 その日の夕暮れ時、兵は騒いだ。
「太陽が……二つある。」
 呆然とした声はざわめきを広めていった。
「沈む太陽と、のぼる太陽か。」
 誰もが何度も振り返り、そして振り向く。
 地平線のさき、東と西がどちらも真っ赤にそまっていた。
 それはまるで……
「大合戦の予兆だっ」
 そう騒ぐ彼らは確かに興奮していた。
 二つの太陽は西の太陽が魏を、東の太陽が呉をしめしているようで、どちらが天を制するかを競っているかのようだった。
 だが普通に考えれば、西の太陽というのは地に沈もうとしているのだ。
 吉兆だと誰もが思ったそのとき、一際大きな歓声の波が訪れた。
 臥竜と呼ばれる男が、拝風台で大きく手を広げているのがみえたからだった。
「やはり……臥竜が天の動かせるというのは本当なのか?」
 周瑜が巻いた噂は、呉兵のうちではもう真実となっていた。誰かのそのつぶやきは、答える者もなく、皆の心に深く沈んでいった。
 拝風台にのぼっただけで、太陽が分かたれたのだ。
 きっと南東の風も起こるに違いない。
 これから吹くと言われた風の存在を疑うものなど、誰一人として存在しなくなった。



 ここからならよく見えるな。
 亮はそう思い、東の空が赤く染まっているあたりに目をやった。
 壮大な範囲で燃やされる炎。乾燥した空気に包まれ、地平線近くにあった森は、予想通りよく燃えている。
 夕日が背後で真っ赤に大地を染め上げ、余計に辺りは赤に染まる。
 目を呉軍のうちに落とすと、目があったように思えた。
 周瑜が拝風台のある崖の上を見上げていたのだ。
「……公瑾殿。思い通りにならないこの世を……思い通りに動かすために、人は動くのでしょうね。」
 おりからの風で、いや風がなくても離れすぎていて聞こえなかったと思う。しかし亮はつぶやいた。
 緩やかに衣をなびかせる風が、亮の周囲にまとわりつくようにさきほどからひどくなってきていた。
 ――南東の方角から吹く風が。
 だが周瑜は笑ったように見えた。
 亮がいる拝風台の下、その崖はその場にある何よりも赤く見え、そこはまさに赤い壁――赤壁だった。
「この地にふさわしい景色といえるか。」
 だから周瑜は笑みを見せた。
 条件は揃った。
 投降するという嘘の情報を以前から根回しをしていた黄蓋を先頭にし、藁草を隠してのせたいくつもの船を発たせた。風を受け、いつもより早くそれは曹操の船団へとたどりつく。そして……
「火の手が上がった。行くぞっ!」
 剣を抜き、曹操の陣営を示して鼓舞すると、兵たちは声をあげてそれに答えた。



 均実は曹操の陣が燃えるのを見て、自分と亮の会話を思い出していた。
「高気圧から低気圧に向かっている地点で風は吹くんですよ。」
 それは隆中で、亮が劉備に仕える事を決めてから、新野へ引っ越すための準備をしているときだった。
 その日は甘海が屋敷を出て行った日で、あたりはすっかり暗くなっていた。
 どういう経緯でそういう話になったのか、もうよく覚えていない。
 しかし悠円と亮がこちらを興味深く見ていたのは覚えている。そして彼らの顔が戸惑ったような感情を含んでいたことも。
「高気……?」
「ん〜と」
 亮ですら困惑した声をあげたのだから、悠円がわかるはずがない。
 均実は苦笑を浮かべた。
 小学生の理科でやったはずだ。
 だが改めて判りやすいように説明しろと言われると……
 どうしようかと考えていると、火のついている燭台が目に入った。
「ちょっと待ってくださいね。」
 そういいながら均実は持ってきていた巾着を取り出す。
 中には残り少ないセロハンテープやら純の携帯などが入っているのだが……
「あったあった。」
「それは……めも、だったかな?」
 均実が取り出したのは、小さな白いメモ帳だった。
「はい。これを一枚ちぎって……」
 ピリッといい音がして小さな紙切れができた。
 それを掴んでいた手を離すと、ひらりひらりと紙は地面に落ちた。
 均実はそれを拾い上げ、亮を見た。
「亮さん、これを火の上にやるとどうなると思います?」
「火の上で?」
 亮は不思議そうな声をあげた。
 火の上でやれば、今やったとおり落ちてその紙は焼けてしまうに違いないだろう。
「じゃあやってみますよ。」
 均実が何をしたいのか亮はいまいちわからず均実の姿を見ている。
 焦げない程度に炎から距離をとって、均実はその紙切れを離した。
 亮は目を見開く。
 ひらり、と落ちそうになった紙が、押し上げられるようにして再び浮かび上がったのだ。
 そして離したところとはまったく違うところの地面に落ちた。
「暖かい空気は上に昇ろうとするんですよ。」
 ゴミにならないようにと均実はそのメモを拾った。
「それが上昇気流。つまりは高気圧ですね。」
「……低気圧というのは?」
「逆です。冷たい空気のあるところ。」
 均実はメモを手の中で遊びながら説明した。
 炎は暖かい空気をつくり、それは上へ向かおうとする。
 冷たい空気は下降気流をつくり、下へ向かおうとする。
「空気は大体どちらかに分けられると考えてください。」
 均実は左手を上にあげ、右手を下にさげた。
 そして左手を斜め下に、右手に向かって下ろす。
「この狭間に風が吹くんです。」
「なるほど……」
 均実のその言葉に亮は優しい笑みを浮かべていたはずだ。
 それを今回は応用したのだろう。彼は。
 東の森を燃やし、人工的に上昇気流をつくることで南東の風を生み出したのだ。
 拝風台から降りてきた亮を迎えて均実は笑う。
「うまくいきそうですね。」
 ここから見える限り、曹操の船団はすっかり炎に包まれている。
「さっきまでここで兵が騒いでいたんですよ。亮さんは本当に人なのかって。」
 亮は苦笑した。
 まさに今戦場にいる兵たちは、本当に風を呼んだ亮を鬼神のごとく思っていることだろう。
「私は人だよ。」
「え?」
「人であるからこそ、何とかしようとあがくんだ。」
 亮が妙にすっきりした顔をしてそう言った。
 だから均実はわかった。
 亮は掴んだんだ。人の心を失いたくないという彼の願いを叶えることができるのも、自分がする決断なのだということを。

 結局曹操は兵を退いた。
 疫病などでボロボロだった彼らは、今回の焼き討ちを良い機会のように考え、あっさりと戻っていった。
 それを追うように劉・孫連合軍は北上することを論議する。
 劉備からの迎えが来たために、江夏へと均実と亮は戻ることになった。

← 前の回  次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections