亮は拝風台と名づける、儀式用の台の建設にとりかかった。実際に風を起こすための仕掛けは、周瑜がおこなっているはずである。 がそんな中、ある異変が起きる。 「玄徳殿が?」 亮は指示していた手を止め、魯粛のその話に驚いた。 なかなか帰ってこない亮に業を煮やして、劉備直々にやってきたという。 なんとせっかちな。いや、何か夏口か江夏であったのだろうか? 不安を覚えて魯粛に詳細を聞こうとした。 「それで、今はどこに?」 「供に関将軍をお連れになり、今、拝風台のほうを見学してらっしゃいます。」 関将軍――関羽。 亮ははっきりと動揺した。
時を戻せば、それは亮たちが江夏を発ったあと。 夏口にいた関羽は、劉備の命令を伝えにやってきた張飛から、亮が孫権の説得に成功したという話を聞いた。 「そうか……」 「兄貴、邦泉殿が均実殿だったんだなぁ……」 しみじみと今頃のことをいう義弟の姿に関羽は笑った。 ようやく気付いたらしい。 亮が長いこと、よくもまぁ気付かないものだと思っていたが、この義弟も負けず劣らずかもしれない。 「兄貴の好きな女子とは均実殿のことだろう?」 「……ああ」 まだそのことを覚えていたのか、と関羽は呆れ気味に肯定した。 「子竜や憲和殿が言っていた。 兄貴は均実殿に甘い、と」 ああ、そんなことも以前樊城で言われた覚えがある。 苦笑している関羽に、張飛は不思議そうに問いかけた。 「追いかけないのか?」 「わしにはここを守る仕事がある。兄者もそのうちここにこられるのだろう。」 夏口は劉?の治める江夏郡の中でも、肥えた地であり、戦略的にもここを落とすわけにはいかない。そのために劉備はわざわざ関羽をここに配しているのだ。 「それに……会えずとも良いのだ。」 小さくそうつぶやいた関羽の言葉は張飛にはきこえなかったらしく、不可解な顔をして彼は首を傾げていた。 会える約束をしたのは、二度までだった。 一度目は、古城で。二度目は襄陽で。 三度目の別れとなった樊城では、もう彼女との再会は約さなかった。 そのときにはもうわかっていたのだ。彼女はけして自分に添い遂げてはくれないだろうということは。 無理に会いに行くことはない。今までどおり、彼女の進む道の上に、自分がいれば会えるだろう。 黙りこんだ関羽をどう思ったのか、勢いよく張飛は立ち上がった。 「よしっ俺が玄徳兄貴に、なんとかしてくれるよう言ってくるっ!」 「おい!」 目を丸くして驚いた関羽だったが、彼の心などいつも問題ではなかった。関羽は飛び出して行った張飛のこれからの行動を予測し、頭が痛くなった。 ……今のうちにここでの仕事を一区切りつけておいたほうがいいな。 劉備たちは関羽の想いを面白がっているのだから。
そんなわけで関羽は後ろから劉備の後について歩いていた。 時折劉備は関羽をチラチラと見る。 丘の上に作られたその拝風台というものは、関羽からみて何に使われるのか検討もつかなかった。川に面した方が切り立っていて、確かに敵がここを攻めることは難しい。しかし見張り台だというのならば別にあったし、矢を射掛けるにしてもここからでは敵に遠いだろう。 「ここにいると聞いたのだがな。」 しかし拝風台には興味がないのか、劉備がそう言って周囲を見回した。 「何がだ? 兄者。」 「いやいや」 含むような笑みでそう言われるが、彼の意図はわかっていた。 関羽がため息をつきそうになったとき、 「雲長殿」 驚きの声とともに懐かしい姿が見えた。 関羽がそちらを見ると、夏口で別れたときと同じように、付け髭はないが男装をしている均実がいた。 満足そうに劉備が頷くと、気をきかせるつもりなのかすこし離れて行った。近くで土を積み上げている男に話しかけ始めた。 あとは好きにしろということか。 劉備の思惑どおりであることがすこし気に食わないが、関羽が今回、劉備がここにくるということで護衛についてきた理由は、間違いなく彼女にあった。 「均実殿。声がでるようになったのだな。」 離れず近づかず、そんな距離を劉備からとりつつ均実と離した。 ここは風が強い。 会話の声は聞こえないだろうが、もし何かあればすぐに劉備を守れる。 それを確認して、均実を見る。 「均実殿は、選んだようだな。」 どこかさっぱりしたような印象をうけ、関羽は薄く微笑んだ。 関羽の言葉に微笑み返すと、均実は言った。 「私は『邦泉』です。」 その呼び名を聞くのが、凄く懐かしく思えた。 関羽が頷いた。 それは彼女のこちらの名前。つまり彼女がこちらに留まることを望んだということ。 その決意をさせたのが自分でないことが悔やまれる。 「日本に帰ることを諦めたのだな。」 こちらの名前を使うというのはそういうことだろう。 「……ごめんなさい」 均実の言葉に関羽は慌てて彼女を見た。 今の謝罪は何の謝罪かを、瞬間的に理解した。 知っていた。彼女は自分の想いを。いつ気付かれたのかはわからないが、それでも彼女は知った上で自分を選ばなかったのだ。 だからほっとした。 彼女は自分を傷つけないために、本心でない言葉を吐いたわけではない。 本心であるからこそ、自分に束縛されない彼女であるからこそ、ほっとした。 「……わしの頼みをやはり聞いてはくれないのだな。」 怪訝そうな顔をした均実に関羽は微笑んだ。 「わしに謝る必要はないというのに。」 けして未練がましくなどない笑みを、関羽は浮かべることができたのを喜んだ。
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