曹操はその報せをうけて、まず眉をひそめた。 あまりにも常道過ぎる。 それが感想だった。 黄蓋というのは聞き及んでいる老将の名だが、それをこの常道の策に使うとは周瑜というのは阿呆か、それとも裏にまだ何かあるのか? 「黄蓋の降伏の願いは聞きあげる必要があるか?」 「……真実ならば、間違いなく益あることです。」 曹丕が横で自分と似たような苦い顔をしている。 戦場が膠着した場合、やはり一番常道なのは相手を内から瓦解に追い込むことだろう。 だが川がそれを阻む。 なれば味方をこちらに送り込めばいい。 曹操もその手は使う。 実際例えば下邳で、関羽が篭城したときは、兵を送り込み呼応させて城門を開かせたりした。 だからまさにその手だろうとしか思えないのだが…… 「この陣を攻め落とすのに老将一人で、ことが足りるとは思えませんが。」 「ではまだ何が?」 息子の意見を曹操は聞いてみた。 曹丕はしばし考え込み、そして曹操を見返した。 「火……ではないでしょうか?」 「火だと?」 曹操は曹丕の言葉を笑った。 「ここは北西からの風がずっと吹いている。 もし我らの舟に火をかければ、南東に位置している奴らが逆に火にまかれる。 それがわからん周瑜ではあるまい。」 「そうですが……」 曹丕は対岸を見た。 「他にはないと思います。」 はっきりとした言い方に曹操は笑った。実直な意見であり、もっともであるのもわかるが、机上の空論にすぎない。 「火攻めなど南東の風が吹かなければ、無理な話だ。」
亮は周瑜を訪ねた。一つの考えを持って。 彼はこの数日ずっとふさぎこんでいるという。 確かに疲労の濃い顔にはクマができ、目も血走っているように思える。 「どうやらかなりご心労がかかっておられるようですね。」 亮の言葉に周瑜は苦笑した。 薬湯を飲み干しその器を渡すと、重いため息を吐いた。 「孔明殿はこの膠着状態をうちやぶるものは何か、お考えか?」 「一応。しかし公瑾殿も考えておられるはずでしょう?」 二人はしばらく互いを見合い、 「では各々の手に、それを書いてみませんか?」 亮の提案に、周瑜は頷いた。 まるで武士と武士の斬りあいのように、それは知恵と知恵の比べあいのようだった。 だが墨でそれを手に書き、見せ合うと 「ははっは」 「はっはは」 どちらともなく笑い出した。 書かれていたのは同じ。ただ一文字。 『火』 それはそれは、同じようなことを考えるものだ。 二人ともひとしきり笑うと、手を拭きつつ笑みをおさめた。 ここら一帯は北西の風しか吹かない。 火攻めをするなら、南東の風がいる。 それは共通の認識だった。 「風がいるのですね。」 亮のその言葉に、 「邦泉殿に聞いてみてくれないか?」 周瑜はそう言った。 「邦泉に?」 「この前も聞いたことのない異国の知識をもっていただろう。」 細菌だかういるすだか知らないが、確かに曹操軍は病にかかっているものが多く出ているらしい。 猫の手でも借りたいところだった。 その現状を包み隠さずにいう周瑜に亮は好感をもっていた。だからこれ以上出し惜しみをしてやる気にはならなかった。 「邦泉に聞くまでもありませんよ。」 「え」 「風を起こすことは私にできます。」 「本当かっ?」 勢い込んで周瑜は言った。 もったいぶっても仕方がないので、亮は考えていることを周瑜に明かした。 驚きつつ周瑜は言った。 「そんなことを……」 「邦泉が住民に聞き込んだ話らしいのですが、ここ数日川の水量が増えているといいます。西のほうで雨が降った証拠でしょう。 それに今の季節、南方とはいえ乾燥していますし。」 「それはそうだが……」 考え込んだ周瑜を見て、亮が細かく説明する。それが終わると、ようやく周瑜は安心したような顔に笑みを浮かべた。 「なるほど……そういうことか。」 「少なくとも三日三晩のうちには風が来るでしょう。」 その話がもし本当ならば、間違いなく呉軍は勝利するだろう。 周瑜はそう思い、ついで兵のことについて考えた。 「兵たちは何故そうなるのかがわからないだろうな。」 「確かに……」 今周瑜に説明したことを、全員に説明するのはとてもじゃないが時間がかかる。 しかし風が吹くことを兵が納得していないと、この戦での兵の動きが鈍る懸念が生じる。 しばらく考え込んでいた周瑜は、思いついて顔をあげた。 「……孔明殿、鬼神となってもらえないか?」 周瑜の言葉に亮は一瞬驚いた。 「私は指揮をしなければいけない。孔明殿は風をあやつることができる、という噂を流し、実際に風が吹くまで何らかの儀式のようなことをしてもらう。 兵たちはそれで信用しないだろうか?」 亮は言われたことを反芻してみた。 自分が言い出した策だし、確かに兵たちに作戦の成功を信じさせるため、必要なことかもしれない。 了解をこめて頷くと、 「黄蓋殿をあちらへ投降させる日は、その準備が整い次第ですね。」 亮は最後にそういった。
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