ほぼ平和な日々が続いているように均実は思えていた。 小競り合いはしているようだが、大きな衝突はない。 川を挟んでいるために、本格的な衝突をするとなるとそれ相応の準備ときっかけがいるのだろう。 じりじりとにらみ合っている状態、のようだった。 亮は小舟を仮住まいとし、周瑜の客人としてときおり軍議に参加していた。 均実の参加はさすがに許されず、均実はひがな一日長江を眺めたり、釣りをしてみたり、近くの住民と話をしてみたりしていた。 それもいいだろう。 亮は均実の行動をそう思っていた。 何しろ、まったく状況が変わらないのだ。 軍議とは名ばかりで、オブラートに包んだ不満のぶちまけ大会のようなものに最近はなっているように亮は感じていた。 その日も、そんな感じになるだろうと予想していたのだが、どうやらそうならなかったようだ。 騒ぎが、起こったのだ。 「では私の意見が間違っているというのか」 「あまりにも考え方が若輩すぎるというのです」 周瑜が声をあげている。 それに対するのはあの黄蓋。 この呉の老将は、膠着しすぎているこの戦線を一旦離脱して、出直してみるのも一手ではないか、と進言したのだ。 「えぇい、士気をさげようとする不埒者め。首を切ってくれるわ」 だがどうやらそれが周瑜の気に障ったらしい。 憤慨のあまり剣を抜こうとする周瑜は、さすがに周囲の人間に止められた。 「むむむ……本来なら手厳しい処分をせねばならんが、今は戦時。 棒叩き百だっ」 「そ、それはひどすぎる」 「お主も同刑に服すかっ?」 苛立った周瑜のその言葉に、思わず声をあげかけた者も反論を封じられた。 周瑜にしては珍しく短気な対応と皆思っていることだろう。亮はそう思い、周瑜のほうをみた。 いつもの白皙の美貌に赤みがさしている。確かに興奮しているように見えるが。 「ふん、なら五十で勘弁してやる。連れて行けっ!」 腕を荒々しく横に振り、そういう周瑜は皆が連れて行かれる老将軍に目が言っていることを確認してチラリと亮を見た。 亮はそこから穏やかな笑みをして一礼すると、帷幕から出て行った。
均実はこれはこの世界では二回目の見舞いだなと、埒もないことを考えていた。 亮に頼まれてこの帷幕を訪ねてきたのだが、何故自分がなのかよくわからない。 「笑ってしまっては悪いからね。」 そう言って亮は均実に見舞いを頼んだのだ。 わけもわからないまま訪問し、おそるおそる帷幕の外にいた人に声をかけると、中の人に用件をつたえてもらえたらしく、入るよう促された。 薬草の匂いか、なんとも鼻につく匂いが帷幕の中は蔓延していた。その帷幕の中にあった寝台の上に、うつぶせになって寝転んでいる老人がいた。 「あの、諸葛亮の代理で……」 「ああ、邦泉殿だろう? 話は聞いている……いや、よく来てくれた。」 均実が発言しようとしたのを、老人はさえぎって言った。そして軽く手を振るのに、周囲の人間は了解したように帷幕を出て行く。 黄蓋は痛々しい傷を隠すように、ゆっくりではあるが体を反転させこちらを向いた。そして身を起こすために手を貸してもらっていたが、その側付きの兵も遠ざけた。 完全に帷幕の中は二人きりになり、均実が居心地悪く感じていると、 「邦泉殿をよこすとは……臥竜殿もなかなか」 黄蓋はそういって含みのある笑みを浮かべた。 やはり意味がわからないので、均実はとりあえず聞くべきことを聞くことにした。 「背中はいかがですか?」 「ははっ…ぅぅう」 「だ、大丈夫ですかっ?」 棒叩きとは、罪人を棒で激しく打つ処罰で、均実が聞いた話では黄蓋は背中をしこたま打たれたらしい。 慌てて近寄る均実に、黄蓋は痛みに強張った顔をほぐし、柔らかく微笑んだ。 「大丈夫だ。しかしなかなか役得だな」 「は?」 「邦泉殿と話せる機会というのはこういうことでなければなさそうだ。」 「どういう?」 「曹操ですら、その器量と知恵を認めたという話ではないか。」 ……どっから漏れたんだろう、その噂。 均実の顔が引きつる。 それを見て、面白そうに黄蓋は続けた。 「邦泉殿の噂は二つあるぞ。一つはその話と、もう一つは無礼千万な不届き者。」 「正反対ですね。」 「仕方あるまい。噂なぞそのようなものだ。」 均実が呆れていると黄蓋は笑った。 後者の噂は曹操に捕らえられたときに、周囲にいた者の感想だろうな。という推測はついたが、まあどうでもよかった。 「だが知名度でいえば、曹操のもとの者たちには、臥竜殿より、邦泉殿のほうが有名なのは確かだろうな。」 「はぁ……まぁ。」 均実は要領を得ない黄蓋の話に、曖昧に頷いた。 亮が呉でも臥竜として名が知られていたりするのは、多分に彼の兄が孫権に仕官しているという理由がある。魏ではおそらく呉ほど、臥竜の名は知れ渡っていないだろう。 「それが何か?」 均実が疑問を示すと、黄蓋は苦笑した。 「邦泉殿は臥竜殿の代わりなのだろう?」 低めた声でそういわれ、均実は頷く。 亮に頼まれたのだということと、そのとき亮が妙なことを言ったということを告げた。 意味がよくわからないが、それが必要なのだろう。 「そうか……」 黄蓋はすこし苦い顔をすると、息をはいた。 「気付かれてしまっているな」 「は?」 均実が怪訝な顔をすると、黄蓋は帷幕の入り口のほうを見た。 そこには見慣れない二人が立っていた。 「客人だ。悪いな。」 先ほどまで均実と接していた柔らかな笑みとは正反対の、どこか力のこもった声。 均実はやはりよくわからないが、ここにこのままいてはいけないというのは確かなのだろう。 「……はい。私はこれで失礼します。」 均実が丁寧に礼をしたので、黄蓋はまた穏やかに微笑んだのだった。
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