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均しきさだめ 作者:奇伊都

第38回   『治』と『乱』 『邦泉』と『均実』

 眠っていたのだと、思ったときには捕らわれていた。
 その瞳に。

 亮は自分の思考がまだいつもどおり動いていないことを理解しつつも、目の前にあった一対の漆黒の点を見つめていた。何かの光を反射して、キラキラと揺らめくような輝きがその点の中にあった。
 ぼんやりと……綺麗だな、と思ったとき、首元にヒヤリとしたものを感じた。
 ゆっくりとその冷たいものは首を圧迫し始めた。
 息苦しい。
 思わず払いのけようと、手が持ち上がったとき、サーっと辺りが明るく照らされた。
「……均実殿?」
 均実が自分に馬乗りになるようにして、こちらを何の感情も読み取れないような目で見下ろしている。首に感じている圧迫感は彼女が自分の首をつかんでいるのだろう。
 均実殿が……私を殺そうとしているのか。
 そのことを知った時、亮は手を下ろした。
 彼女と自分の持つ権利を自分は知っている。
 彼女には自分を憎む権利がある。それも誰よりも強く。なら彼女には自分を殺す権利がある。
 その権利を認めている自分に、ここで抗う権利はない。
 そう思い、意識的に体中の力を抜いたが、その均実の瞳から目をそらすことだけはできなかった。
 じっと見返していると、クシャリと均実が顔を崩した。
「……」
 何か、言ったように口が動いた。
 それと同時に首にあてられた手がのけられ、一気に空気が口から流れ込む。
 思わずむせるように咳き込むと、酷く小さく声がした。
「……うして」
 均実はこちらをじっとみている。
「どうして……私の手を振り払わないんですか?」
 久しぶりに均実の声を聞いた。
 そのことに感慨が沸くよりも先に、均実の問いの答えを考えようとした。
 自分の考えがわからない。とりあえず眠る前までの自分の行動を思い出す。
 確か、今日は周瑜の屋敷から帰り、いくつかの竹簡を整理し……
 ああ、その竹簡のうちの一つが気になり、目を通しているうちに眠気をもよおして……
 すこし寝ようと寝台に横たわった……うたたねをしていたのだろう。
「どうして……」
 均実が再び聞いてくる。
 ずっと見つめていたはずの瞳から、目をそらすと自分の横に見慣れぬ竹簡があるのがわかった。
 すっと手をのばそうと体をうごかすと、均実も亮の上から体をのけた。
「……これは?」
 亮は竹簡を開いた。



 空はうす曇のようで、月もさえぎられた闇夜だった。
 客舎に亮はいた。
 眠っている姿を見たのは久しぶりな気がする。いつも夜遅くまで、働いていたのを均実はしっていた。
 寝顔をのぞこうと、近づくと、正しい寝息が聞こえてきた。
 生きている。
 そのことにほっとしている自分が、おどろきだった。
 死に……ずっと捕らわれている、この人は生きている。
 均実は唇を噛んだ。
 歴史を変えたいと望んでいた……はずだった。
 日本との絆を選んだ……はずだった。
 さだめられたものなど、自分なら変えることができると……思ってたんだ。
 でもそれは……
 亮は起きない。
 顔を覗き込んだまま、首をしめるように掌を彼の首にあてる。
 この手にすこしの力をこめれば……
 そう思ったとき、そのとき亮が目を覚ました。
 焦点の定まらない目でこちらを見てきた。
 逃げ出したい恐怖に駆られ、でも手を離すことができなくて、手におもわず力がはいった。
 雲が動いたのか、窓から月光が差し込んできてあたりが明るくなると、一瞬抵抗をみせようとしていた亮は……
 笑ったのだ。
 均実は間違いなくそれを見た。
 彼は笑ったのだ。
 殺されそうだというのに、笑ったのだ。
 そして亮の全身の力がぬけたのを感じた時、均実は今まで以上の恐怖を感じ、首から手を離したのだ。
 彼は間違いなく……死ぬ気だった。
「……これは?」
 亮は竹簡を開いて、書かれていた文字に目を落とした。
 均実はその姿を見ることができず、目をそらした。部屋のすみの何もないところで、視線を泳がしている。
 小喬の手配で送られ、この屋敷にきた。そういうことが書かれているだけのはずだ。彼女はあれ以上何もいわなかった。ただその手配をしただけ。ここにいてはダメだと。話さなくてはいけないと。
 だから亮はすぐに読み終わるだろう。
 だがそれが何より恐ろしく、怖くて、永遠に読み終わって欲しくないと感じた。
 胸が痛くなるような恐怖とは別。
 いや、それもあった。だけれどそれ以上に感じる恐怖があった。
 自分は彼と約束した。
 何故……約束した?
 均実はその問いにはすぐに答えられる。
 恩返しだ。
 どこまでも優しい亮を苦しめてきた一因に、自分の存在があったから。だからせめて他の苦しみを除いてやりたいと思った。
 だけれど息が苦しい。
 側にいるのがこれほど辛いとは思わなかった。
 だって亮さんは……
「均実殿」
 竹簡から顔をあげた亮が声をかけた。
 均実はビクッと体が動いたのはとめられなかった。
 二人とも意識して会話を今までしなかったように思える。
 その反応に亮は悲しそうに微笑んだ。
 だから均実は離そうと身じろぎした体を、なんとか押し留めた。
「元直が曹操に下るとき、均実殿の声がでないこととともに、私に言ったことがある。」
 亮はぽつりとそう言った。
「均実殿の相についてだ。」
 徳操は、旅立つ弟子にしてやれることを考えたすえ、庶にだけ明かしていた。
 そして彼は自分にそれを伝えるべきだと判断した。
『孔明と均実殿は相容れない。』
 教えられたときは何の冗談かと思ったが……
「私はずっと君を苦しめていたのだな。」
 側にいれば均実は苦しむ。
 相反する相。『治』と『乱』。
 どうして今までいえなかったのか。
 亮は一瞬目を閉じた。
 心地よかったのだ。自分にとって均実の側は。
 だが均実にとっては……?
 亮は嘲笑する。
 それを考えたことがなかった。
 庶はそれでも均実が壊れたことについて何も言及しなかった。
『水鏡先生も私も、均実殿はいつか壊れるだろうとわかっていた。』
 庶はそう言いつつ、大きく息を吐いた。
『だから、均実殿が壊れてから、お前がどうするか。それが大事なんだ。』
「答えて欲しい。」
 亮は均実をまっすぐ見つめた。
「君は私を憎んでいるかい?」
「……いいえ。」
 均実は否定した。
 亮がそれを望んでいるのを知ってから、もしそうすればどうなるのかを考えていた。
 それが何より恐怖を感じることだとも答えを得ていた。
「そうだね。均実殿は、私を憎んでなどいなかったのだね。」
「私は……亮さんを何より選んだんです。」
 意味がわからず問い返すような目をしている亮を、均実は見つめ、またゆっくりと自分の両手の指を彼の首にからめた。ちょうど首を絞め殺すような手つきをしたが、今度はそのまま均実は動かない。
「均実殿?」
 力は加えられていない。苦しくはないが、亮はその行動の意味がわからなかった。
「やっぱり……違う。」
 そういって均実は苦しそうに息を吐き、何かを耐えるように微笑んだ。
 この指に力など入らない。それが証明だった。
 『均実』が日本に帰りたいと願う自分だとすれば、『邦泉』は亮の役に立ちたいと願う自分。
 けして相容れないのはその二つの願い。『均実』が願いをかなえれば『邦泉』の願いは叶わない。『邦泉』が願いをかなえれば、『均実』は願いを叶えられない。
 その二人に挟まれたから、声を失った。
 『均実』でなければ、ここにいる意義がなくなってしまう気がしたから。
 進むべき道を見失ったから。
 そして気付いてしまったから。
 日本に帰りたいと、歴史をまったく異なったものに変えたいと何をおいても望むなら、亮が仕官するまで待つ必要も、自分が仕官する必要もなかった。
 均実は睨むようにして亮をみる。
 歴史を変えたいと、人の命を犠牲にしてでもそう思うなら……彼を殺すだけでよかった。
 間違いなく歴史に現れる彼の存在を、現れないようにすればいいのだから。
 『均実』が持つのは『乱』の相。それが本来の自分。日本へ帰ることを望む自分。
 ずっとそれを選んできたつもりだった。
 だけど……
 均実のその変化に亮が驚いたような顔をした。
 頬が濡れる。
 頬が強張る。
 涙が流れる。
 やっと……流せる。
 凍っていた氷が溶け落ちていくように。
 均実はその安堵に、亮の首にやっていた手からより力がぬけた。
 その手で口を押さえ、涙がそれを伝うその感触にまた泣いた。
 曹操に関羽のことを言われたとき、いつも柔らかく自分のことを考えてくれる彼が自分を呼ぶ声が頭に響いた。
 均実殿、と。
 だから……
『私は邦泉です。』
 そう答えた。
 無意識の答えだった。
 しかしそれが正解だったのだ。
 わかった。わかったのだ。
 私が誰なのか。
 自分が選んだのは……どちらの自分だったのか。
「私は……」
 均実は流れる涙をぬぐいもせず、つぶやいた。
「『邦泉』です。」
 自分が日本に帰るために人の死を望めるわけがない。
 この優しい人の死など……
 これからもその痛みを知る者は自分以外いない。
 そしてその痛みをすこしでもいいから分かち合いたい。
「私を突き放さないで……」
 恩返しだというのは、『均実』に対する自分の言い訳。
 ……帰れなくてもいい。
 その決断を下すのが、何よりも辛かった。
 それでも……
「亮さんの側に……いたいんです。」
 彼の命を奪うことなど考えもしなかった。
 その時点でもう選んでいたのだ。
 日本に帰ることを望まないのだと。
 亮はわかってくれたのか、嗚咽をおさえようとする均実の背中をいつまでも、いつまでもさすり続けた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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