劉備は江夏で予定通り、曹操の動きに注視しているらしい。おくられてきた書簡のうちには、曹操の動向が書かれていた。それを告げるために、亮はちょくちょく周瑜の館に客として招かれた。 周瑜と話すことを亮は楽しんでいた。思考の早さが似ているといえばいいだろうか。それは周瑜も感じていることのようで、軍備を急ピッチで整えることに忙殺されているはずなのに、亮の訪問を嬉しげに迎えていた。 今も話していたのだが、聞こえてくる笛の音に二人はそれを止めた。また均実が吹いているのだろう。会話をやめ聞き入っていると、目の前の亮の顔が歪められた。 彼女と亮の関係はいまいち周瑜にはわからなかった。魯粛もわかっていないようだっため知る術もない。 しかしどうも亮の反応を見ていると…… 「奥方ではないのだな?」 「違いますよ。」 同じ問と解を何度しただろうか? 亮のきっぱりとした否定に周瑜はふぅと息をはいた。 やはり、よくわからん。 「そういえば……孔明殿は邦泉殿の癖をご存知か?」 「癖、ですか?」 ふと思い出したことを、周瑜は口にだした。 「癖と言っていいのかはわからんが、何か……そうだな、考えこんでいるときに、ああやって笛を吹くそうだ。」 周瑜はこちらを見据えてくる亮に微笑んだ。 「だからいつも音色が寂しげなのかもしれん。」 均実のことを話していたときに小喬がこう、笑って言っていた。 「笛は言葉よりも雄弁です」 声がでない彼女は、きっとそれを知らない。 彼女の思案の内容は、彼女を苦しめ、彼女の声すら封じているものなのだろう。 そう思って周瑜は目の前の盤上を見た。 「それにしても似て、まったく異なるな。」 「は?」 「邦泉殿と孔明殿の囲碁の打ち方だ。」 そういって盤上をもう一度眺めた。 実は周瑜には均実と囲碁をする機会があったのだが、見ればみるほど似ている。 「邦泉殿は相手の手を殺すようなうち方をする。孔明殿は相手の手を生かし、自らの布陣をひくようなうち方をする。」 「はぁ?」 「結論、どちらも盤の上は自分の手だけで満たされるのだがな。」 ふぅと息をはくと周瑜は続けた。 「全て先回りして考えつくすということだ。その場その場での判断はしない、つまり」 そう言って一つ石を置いた。 亮の顔がしかめられる。 周瑜はそれに笑った。 「予想をこえたことには弱いのだ。」 盤上の趨勢は逆転した。 亮は次の手に唸る。 その姿を周瑜は苦笑交じりで見てから、目を閉じた。 「……全てが自分の思い通りに動く世など気持ち悪いものだ。もしこの世がそんな世なら、人が争うことなどないだろうに。」 周瑜の言葉に亮は石を持ったまま固まった。
周瑜の屋敷から出て、亮は兄である瑾の屋敷を訪ねることにした。 来るように言われていた、というのもあるが、周瑜の言った話についても聞いてみたかった。 均実を連れて行こうか正直迷ったが、やめておいた。彼女を均として振舞わせることにしたという内容の書簡を送ったことはあったので、引き合わせたほうがいいかと思ったが、今の均実はまるきり女性だ。未だに体調も優れないようだし。 瑾は歓迎もしてくれたし、ここに滞在している間はその屋敷に泊まることまで勧められた……謹んで遠慮したが。今回呉にきたのは劉備の配下の人間としてであり、諸葛亮個人としてではないと断ると、また相変わらずだと笑われた。 「喬は元気にしているか?」 それでも一食ぐらいは付き合えと、兄とともに食卓を囲んでいる状態だった。 喬はもともと兄の子供だ。養子としたが、その事実は変わらない。 だからきちんと答えるのが筋というものだろう。 「はい。妻とも仲がよいらしく、聡明だと聞いています。」 亮はそういいつつ、目の前の食べ物を眺めた。 それなりに豪華なものだ。だがあまり食欲がわかない。 さきほどの周瑜の言葉が気になっている。 『全てが自分の思い通りに動く世など気持ち悪いものだ。』 確かに劉備の兵力などは亮の予想の範囲内で動いた。 だが均実には憎まれるだろうという予想は外れた。そして今、均実が一体何を考えているのかわからない。 思い通り動いていれば、このようなことなどないだろう。 均実殿は今、何を考えているのだろう…… 「……心ここにあらずといった感じだな。」 「え」 兄の言葉に伏せていた顔をあげる。 困ったような顔をした兄は、自分とあまりよく似ていないと言われる。すこし顔の形は面長であるが、パーツごとに分けるとそれぞれは写した様に似ているというのに。全体の印象が、どこか亮よりゆったりした感じをこの兄はだしているのだ。 それに師である徳操を重ねつつ、亮は食を進める。 「そんなことないですよ。」 「魯粛殿の話では、夏口から一人の女性を連れてきたらしいな。」 親しげな口調でそれを問われて亮の動きはとまった。 「それが奇妙な女で、男装をしていたと困惑顔で言っておられた。」 「……」 亮が瑾の顔をまじまじと見返すと、彼は笑った。 「その者が均なのだろう?」 何もいえない亮の反応を楽しむように、瑾はゆっくりと料理を口に運ぶ。 「甘海から聞いた。」 「甘海が……」 「おそらくそうなのではないかとな。」 そういえば甘海はこの兄のもとに身をよせているはずである。 均実の風貌を人づてにでも聞けば、甘海には亮が連れてきたのが均実のことだとすぐわかったはずだ。 「……兄上、お聞きしたいことがあるのですが。」 亮は改まって兄を見据えた。 「ほう? 何が?」 「どうすれば……話すことを嫌がられないでしょうか?」 「は?」 瑾は一瞬呆けたような顔をした。 「私は彼女の考えていることがわからない。しかし知りたい。 だから彼女と話すべきだとわかっているのですが、無理強いをすることはどうしてもできないのです。」 自分を拒んだ均実の顔がまだ目に焼きついているような気がする。 均実は自分の側にいることが苦しげに見える。側にいることを全身で避けようとしているように見える。 亮をしばしじっと見ていた瑾は、突然笑い出した。 「兄上?」 「――そうか。お前は昔からこういうことには疎かったな。無意識か。」 「こういうこと、とは……?」 「男女のことだ。 まあお前は昔から妙に落ち着いていたからな。こういうことはカァーっと頭にきて、理屈では説明できないものだから。」 うまく口がきけずにいると、瑾は余計笑った。 そう言われても…… 亮は釈然としない気持ちになった。 「どう見ても妻より大事にしているように見えるな。」 瑾はそう言う。 「喬の話をしても、お前の言い方は他人からの情報らしい。どうせ会いに行こうともしてないのだろう。」 亮が結婚すると聞いたときから、想像はついていた。 優しくはするだろうが、どこまでも熱くはならない。 子供ができないというのもそれが原因の一つだろうか。 「さきほどから何度もため息をついている。」 そういわれ亮は再び言葉に詰まった。 そんな意識はまったくなかった。 「恋する少年のようだな。」 亮は咳払いをして、できる限りしかめつらしい顔を作る。 「大事にはしていますが……」 「まあいい傾向だ。」 瑾はそういいつつ杯をあおった。 「人としてな。」
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