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均しきさだめ 作者:奇伊都

第33回   悲しい音色

 呉に来た。
 ここで亮は孫権を説得する。ここで呉との同盟が築かれるのは、劉備のこれからを考えても大切なことだ。均実も、その説得に一役買えば、歴史に変化が加わるだろう。
 でも声がでなければ無理。
 大きなため息をついて、均実はその事実を認めた。
 均実は星が庭を照らしているので、それほど恐れは感じずに歩いていた。
 小さな橋がある。朱塗りの欄干に、整えられた小道。歩くべき道は、選ぶ前に何者かによって決められていた。
 歴史のように。
 均実がやろうとしていたのは、この小道からそれ、整えられた草花を踏み荒らすこと。
 でも……
 均実の心に留まっていた疑問があった。
 この胸に起こる痛みは……?
 徐庶も、季邦も、徽煉も、周りにいた身近な人間までも奪っていく戦が、この世界の歴史を大きく動かしている。その歴史を変えることは、助かるはずの命を落とさせることと同義なのではないか。
 歴史を変えることは……、自分が日本に変えることは、人の命の価値よりも貴重なことなのだろうか。
 亮と話していて気付いた。
 死の積み重ねの上に歴史はある。それはどんな歴史であろうとも、間違いない。
 ある人が死ぬことで、他の人が生きる。またある人が生きることで、他の人が死ぬ。
 こんなことは当たり前なのだ。
 だから歴史を変えるというのなら、その死の運命を無理矢理捻じ曲げればいい。
 つまりそれは……
 答えの出そうで出ない問に、均実は笛を構えた。
 無性に泣き叫びたい衝動に駆られた。
 声をあげられれば、涙が流せれば、きっとここがどこであろうとそうしただろう。
 だがそれができなかった。
 声をだしたいのに、声が出ない。
 泣きたいのに、涙が溢れない。
 なぜかわからないが、あの戦場のどこかにその方法を置いてきてしまったようだ。
 それが悔しくて、悲しくて……
「綺麗な音ね。」
 均実がその声に振り返ると、二人の女性がいた。
 美しい女性だった。花が二輪、並んでそこに咲いているようだ。
「姉上。彼女は?」
「さぁ……新しい家人ではなさそうだけれど。お名前は?」
 優しい声音とともに漂ってくる甘い匂い。
 この、香は……
 均実は酷く懐かしく、酷く悲しくなった。
 糜夫人……
 ドクンッ
「っ」
「大丈夫っ?」
 均実は左わき腹を押さえうずくまった。
 強く脈打ち、存在を主張するのは……沛での古傷。
 もう皮膚の色が異なっている程度で、このように痛むことなどなかったのに……
 顔を歪め、何度も息を吸い、その苦痛を和らげようとする。
 ああ、そうか。
 均実は涙目になりながらも、両手でわき腹を押さえあえぎつつ思った。
 この傷が痛んだ理由がわかった。
 私だって死んでいてもおかしくなかったんだ。
 死んでも……
 均実はその思考に顔を歪める。
 自分が死んでいれば、ここに存在しなければ、季邦たちは死にむかわなかった。
 それはつまりたった一人の人間の死によって、歴史は変わっていたということは間違いない。
 それは……
「人を呼びましょうか?」
 心配げな声に慌てて顔をあげた。
 均実が喉に手をあてて、口をひらいてみせると、彼女達は理解してくれた。
「ああ……話せないのね?」
 頷くと近寄ってきた。
「私は小喬。姉上は大喬と呼ばれています。」
「小喬は周統督の妻よ。」
 周瑜の?
 均実が驚いて慌てて礼をしようとすると、小喬は笑った。
「そんなことしなくていいわ。
 そうね……あなたは今、夫を訪ねてきている方とゆかりのある方かしら?」
 これにも頷くしかない。
 すると小喬は笑った。
「綺麗な殿方でしたね。奥方かしら?」
 これには必死に首をふって否定だ。
 楽しそうに声をあげて、二人の美女は笑った。
「あら、間違えてしまったわ。」
「当てずっぽうには限界があるわよ。」
 大喬の言葉に、そうね、といいつつ小喬は、均実が持っている笛に目を落とした。
「ねえ、もう一度笛を聞かせてもらえる?」
 そういわれれば別に拒否する必要もない。
 均実は返事の変わりに笛を構えた。
 高い音がまた空に吸い込まれていく。
 声がでなかったので、旅の間は笛をふいていた。だからどこで吹いても笛の音は変わらないと思っていたけれど、なんとなく新野で練習していたときよりも、ここのほうが遠くまで届いているような気がした。
「……綺麗だけれど」
 ぽつりと小喬がつぶやいた。
「悲しい音ね。まるで泣いているみたい。」
 図星を指されたように感じて驚き、均実は思わず指が滑って飛んだ音がでた。
「あ、ごめんなさい。変なことを言ってしまって。」
 慌てたように小喬は言った。
 均実が首を横にふったとき、
「よい音なのに、おしいことだ。」
「あら、あなた。」
 小喬が微かに驚いたように振り返ったさきにいたのは、一人の男だった。
 整った顔、だが亮より鋭さが窺える。
 ともすれば女性のように見えるほどだが、弱弱しさはけしてない。冴え冴えとするその容貌。強い意志をもち、そしてそれを叶えるべく努力を惜しまない気を発している。
「邦泉殿だったな。私は周瑜。」
 周瑜はそういいながら、後ろからやってくる二人に言った。
「楽士というならば、曲を間違えてはなるまい。」
「ああ、彼女達が噂の……」
 亮がそこにいた大喬と小喬をみとめた。
 拱手して互いに礼をすると、周瑜は機嫌がよいようで亮にいくつか質問をしていた。
 周瑜は亮のことが気に入ったらしい。
「明日から忙しくなるだろう。」
 楽しそうにみえる笑みで周瑜はそう言った。二人の才能ある論客が徹底抗戦という方向で同意している。それほど孫権の説得は難しくないだろう、と。
 そうか……また歴史通りに……
 均実が周瑜の言葉をそう思いつつ聞いていると、亮が均実のほうに視線をむけてきた。均実は慌てて小喬の後ろに隠れるようにしてまわった。
 何かが怖かった。
 彼の側にいるのは怖かった。
 亮が息をはく音が聞こえた。
「彼女、声がでないのですね?」
 小喬がそんな亮に問いかける。
「何か病気でも?」
「いえ……」
 亮の声は別に何の力もこもっていないのに、均実は何故か責められているように感じて、小喬の衣の端を思わず掴んだ。
 こうしないと、逃げ出してしまいそうだった。
 小喬は一瞬驚いたように均実を見たが、何もなかったように顔を正面に戻した。
「ここに滞在の間は、私達がお友達としてお世話しましょうか?」
 小喬の申し出を亮は驚いた。
「孔明殿もしばしお忙しいでしょうし、私彼女の笛の音が好きですわ。」
 畳み掛けるかのようにいうその言葉に、亮は再び均実のほうをみたが、彼女は目をあわさない。
 双方、互いの意を確認しないまま……その言葉に甘えることにした。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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