単福こと、徐庶は練兵場にいた。 横には友人である石広元がいる。ただし彼はけして口を開かない。 単福と共に新野に現れてから、その声を聞いた者はいないとまで言われるようになるほど彼は無口だった。彼のことは皆、単福の影だとまでいっており、彼自身に話しかける者はいないに等しい。 その二人の前にいるのが、練兵の任をおびている一人の男、孫乾だった。 以前の博望の戦いから、孫乾は徐庶に一目おいている。 だから彼が言った話を、ばかげたことだと一笑にふさずに聞き返した。 「兵の鍛錬の方法を切り替える?」 孫乾は提案されたものを見て、少し驚きつつ目の前の徐庶を見ていた。 それに頷くと、徐庶はまた驚かせるようなことを言う。 「既に劉封殿にはその準備に入ってもらっています。それから徴兵も増やさなくてはいけません。」 徴兵をする。この地の人間を兵として組み入れる。 それは今までもやっていることだが、その数を増やすという。 孫乾は不可思議に思う。 あまり徴兵を強めないでおこうと、劉備はこの新野に来た時に言っていた。 まずは地元の人間の心を得なければ、施政は行えない。 そのためにこの新野の民の負担が増えることは、できる限り避けようとしたのだ。 だが今になってその方向を変換するという。 それは明らかにおかしい。孫乾は疑問を呈さずにはいられなかった。 思い出すのは昨日、劉備と亮に呼ばれて聞いた話。 確かに自分も徴兵を増やすべきだと思った、その理由は…… 徐庶が口を開く。 「実は曹操が――」
「昆明湖を改修して水軍を鍛えているらしい。」 屋敷から出たところで亮はそう言った。 情報をもたらしてくれる徐季が、隆中の屋敷を引き払う際に帰ってきた。そのときの情報がこれだったのだ。 それから数ヶ月。情報の裏づけをとったり、新野の状況を事細かに調べたりしていると、あっという間に過ぎてしまった。 時間はいくらあっても足りない。だが焦りすぎても問題である。万全を整えていくには、いささかの粗漏もあってはならない。 すこし日も翳ってきている。一体どれほどの間、この屋敷にいたのかと亮は考えた。 「ん〜……どこかで聞いたことある名前の湖ですね。」 そんな亮の姿に一瞬目をとめてから、均実は自分の記憶をあさった。 「昆明湖というのは、許昌にある湖のことだよ。」 ああ、思い出した。 亮の付け足した情報に、均実は一つ頷いた。 一度均実は許昌にある町であり、曹操が拠点としている許都に行ったことがある。到着直前に見たその湖は広いが、軍の演習などしていない普通の湖だった。あれを改修するなど、一大工事だろう。 そして昆明湖だけでなく、葵州の鄴にある玄武湖という湖などといった他の湖も改修に入ったという。 それほどまでに湖の改修に力をいれるということは、徹底的に水軍の強化に臨もうとしているということだ。 均実は彼の後ろについて歩きながら、その意味を口の中で咀嚼する。
孫乾は顔をしかめた。 「それはまずいな。」 南船北馬という言葉がある。中国大陸での移動方法は北方では騎馬、南方は舟が主であるという意味だ。 曹操の領地であり、魏と呼ばれているのは大陸の北方。陸地が多く、陸上での戦は得意だが水上戦は不得手だ。 水軍の強化を……ということは、南方に兵を進める気があるということだろう。 南方。それはすなわち曹操にとってはここ荊州か、孫権の治める呉か。 間違いなく、徴兵を増やさなければならない緊急事態といえるだろう。 納得しながらも、まだ疑問はあった。 「それで兵の鍛錬の方法を変える必要があるというのは、どういうことか?」 彼の提案してきた方法とは、大きく軍を二分した形を主として動く訓練を増やすというものだった。 「必要になるからです。」 疑問に対して、直接的に答えを返す。 曹操が南下してきたとして、それにぶつかるだけならそれが必要にはならない。 もう一つの大きな力が動いている。 「孫権もまた、水軍の鍛錬に力を注いでいるといいます。」 徐庶は暗い顔をして言った。
「……荊州は危ないですね。」 均実はため息をついた。 孫権の領地、つまり呉は長江下流のほとり。雄大な流れを基としているために、水上戦はお手の物だ。 それを強化するべく、今は長江の流れに加わる鄱陽湖に水軍を集め、日夜訓練を繰り返しているという。 曹操の動きを察知し、先を見越して手を打っているということだろう。 その二つの勢力は荊州からみて魏は北東、呉は南東。 魏への防備に備えるのため行動だと呉の情報はみることもできるかもしれないが、それだけだと考えるのは危険だ。呉は度々荊州を攻めている前歴があり、完璧に味方だと言い切れないのだ。 だからといって先手を打って孫権に備えるために、新野から兵を動かすことは不可能だった。 曹操は南下するなら、まず荊州をまず攻めてくるに違いない。呉と荊州を比べれば、荊州を先に制するほうが、彼にとっては益が大きい。 例えば曹操が天下統一を目指す上で邪魔な人物の存在。それを倒すことに目をやるとすると…… 呉は孫権、そして荊州は劉表と……劉備。 荊州を攻め落とせば、一気に二人も目の上のコブが取り除かれるのだから。 他にも荊州を先に、と思わせるような要因はいくつかあった。 そしてその矢面に最初に立つのは、間違いなくここ新野だ。 「公子である劉き殿が江夏にいる。最も呉に近い。だから孫権の動向に、より気を払うように忠告する使者は飛ばしたけどね……」 いざ孫権が攻めてきたら、劉きだけでは防げない。 いつかはここの兵を二つは割かなくてはいけないだろう。 再三劉備は州牧である劉表に、武力の強化の必要性を説いているのだが、彼は一向に受け入れない。 曹操、孫権を刺激してはいけない。 彼の言い分はいつもこうだった。 良く言えば現在の平和を愛している。悪く言えば決断力がない。 実情として事態は逼迫している。兵の増強を行わなければ、荊州は遅からずどちらかに奪われてしまうだろう。 だがそれをけして劉表は納得しなかった。 しかも今彼は、病が篤く、襄陽にわざわざ訪ねていく劉備との面会もしばしば許可が下りなくなっていた。 「それは陰謀でしょうか?」 すこし声を低めた均実の言葉に、亮もあたりをはばかるようにして答える。 「否定はできない、今は。」 劉表の側には蔡夫人がいる。そして側近としては蔡瑁。 彼ら蔡家は劉備に好感情を抱いていない。 劉表は劉備を信頼しているので、遺言として妙なことを託されては困るとでも思えば、会談を邪魔するぐらいはするだろう。 季邦からの書簡も最近こないしなぁ。 均実はそう思った。 友人である季邦は、蔡家の末っ子。今回均実が新野に来てからは、隆中では頻繁にうけとっていた書簡がきていない。 きっとあいつも大変なんだろうなぁ……と思考を切り上げ、目の前の背中をみた。 背を伸ばし、真っ直ぐと立ったその姿は頼もしく、そして…… 「……亮さん。大丈夫ですか?」 前を行く亮の顔は見えない。さきほど屋敷をでるときも、話しかける暇もなく外に出たので均実と目をあわせていない。 だから彼の顔色はわからない。 「大丈夫だよ。」 しかし均実はその言葉に息を短く吐くと、彼の前に出た。 驚いたようにあげた亮の顔をじっと見る。 目が赤いし、すこし青ざめている。間違いなくそれは疲労のたまものだろう。 ずっと劉備と語っていたという。それなりの休憩をとっているだろうと思っていたが、横にいた甘夫人がこれ以上の論議を怒って止めた。それほどぶっ続けで彼らは話していたのだろうか。 もしかすると、夜すらまともに寝ていないのかもしれない。 「約束は、守るんですよね?」 均実の言葉に亮は少し目を見張ったが笑った。 「すこし疲れてはいるね。」 ようやくそれを認めた。 均実はほっとしたように肩を落とす。 「人の上に立つ者の判断一つで、簡単に人が死ぬ。 これぐらい、大丈夫だよ。」 「……わかってます。」 亮にとって最も苦痛であるのが何なのかを。 人が死ぬ。誰かの未来が閉ざされ、そして誰かが……悲しむ。 昔、亮が弟を亡くしたときに味わった、喪失感を誰かが味わう。 それを民に強いる道を簡単に選ぶことのできる劉備の側に、亮はいる。つまりそれを選ぶ立場に亮はいるのだ。 乱世において、その選択をあえて選ばなければならないときはきっとくる。 それが苦痛であったとしても。 だからもしその苦痛を避ける術が見当たらなくなったときのために、彼の負担を少しでも均実は担っておきたかった。 共に苦しみ、悲しむために。 「ちゃんとこれからも話して下さいね。」 均実はそう言った。 慰めるわけではない。 ただ、そう言う。 亮はそれに微笑んだ。 これは交わされた約束。 隠さず、誤魔化さず、ただ共にその事実を受け止める。 均実が亮を支える。 それが彼らの約束。 均実は、亮の笑みに向かって今度は安心したような笑みをみせた。
あいも変わらない生活。 季邦は常に諦めと苛立ちが混在している気分だった。 だがそれが変わった。 兄が目の前から去っていく。 一つの決定事項を季邦に突きつけて。 「……」 喜悦なのか、悲嘆なのか。 自分がいったいそれをどう感じたのか、わからなかった。 今、自分に背中を向けている兄をよびとめ、振り返らせることができれば、何かが違うかもしれない。 でも何が? 何が違う? 季邦の口から発せられる言葉はなかった。 たとえ発していたとしても、あの背中はきっと止まらない。 目の前からその背中が消えてしまってから、ゆっくり季邦は目をとじた。 やるべきことを……やらなければ。 準備をしなければいけない。荷を整え、知人と話し、母と会い…… そして思い出す。 邦泉という字を持つ、自分の友人のことを。
|
|