江夏はさすが、劉きが住まう城があるためか、それなりににぎわっていた。今にも始まるのではないかという戦の気配におびえつつ……ではあったが。 仮住まいとなる屋敷の一室で、純は荷をほどきつつ、均実の様子をうかがっていた。悠円や陽凛といった家人達も、荷解きにかかっているためどこか空気が慌しい。 夏口から江夏に移動し、しばらくはここで滞在することになると亮から使いが届いた。 亮自身はまったく姿を現さない。劉備と共にずっと行動している。寂しいが忙しくなるだろうことは納得していたので我慢していた。 しかし均実までこんなふうでは気分が滅入る。 「ヒト」 均実はさきほどから目をつむったまま、何の反応もしめさなかった。いつもの考え込んでいる表情によく似ているが、どこか暗い。 付け髭ももうつけなかったし、髪をまとめることもしなかった。この世界にきてから、伸ばし続けているそれは、腰にまで届くほどの長さになっていた。 未だにあのことを気に病んでいるのだろうか。 「ねぇってば。元直殿たちのことは仕方がないことなんだって。」 そういうと均実はゆっくり目をあけ、純のほうを見た。 「『三国志演義』でも曹操に母君を人質にとられて、劉備のもとを去るんだから。」 そう。それは間違いなかった。 確かに日本で読んだ『三国志演義』にはそんなことが書かれていた。 でも本の中では庶は亮が仕官するよりも前に、曹操が引き抜いてしまっていたはずで、彼の母も、曹操に人質にとられてはいなかった。 だから純はそれを今まで言わなかった。きっと現実にはならないことなのだ、と思ったから。 しかし現実になってしまった。 「それが歴史なんだから、ヒトには何の責任もないよ。」 曹操の陣営で均実が庶の母を連れて行こうと説得していたのを知っている。 それがうまくいかず、このような結果になってしまったことを、均実は悔い、ふさいでいるのだろう。 「ヒトってばっ!」 反応がないためにもう一度大きな声で名前を呼ぶと、均実は腰のあたりをさぐった。どうしたのかと思うと、巾着を手にし、その中身を取り出そうとしている。 自分が作ってあげた巾着と、もってきた日本のものだった。 「何? 何があるの?」 均実が結局取り出したのは、メモ帳とボールペンだった。 ボールペンがまだ書けるのを確認して、均実はメモ帳に久しぶりに見る日本語をすらすらと書いた。 『わかってるよ』 「ヒト……」 純が驚いたような顔をしたので、均実は無理矢理笑みを作った。 『ごめん。声がでないの。』 声がでないことを知った時、均実はそのことが最初にバレた悠円に、口止めをした。 誤魔化し誤魔化しそのことを秘していた。聡い庶は気付いていたように見えたが。 悠円にメモで物事を頼むときは、こちらの言葉を使わないと読めないようだったのだが、すらすらと日本語で書き付けると、純はしばらく固まっていたが納得したようにほっと息を吐いた。 「よかったぁ……私気付かないうちに何か変なことして、ヒトを怒らせちゃったのかと思ってた。」 『黙っててごめん。心配をかけたくなかっただけな』 「何も言われないほうが心配なのっ!」 純は書きかけの文字をみて、思わずそう言った。 曹操に捕らわれたときもそうだ。 均実は自分に何もいってくれない。 「そりゃあ、私、役に立たないかもしれないけど……でもずっと心配してたんだからねっ」 『ごめん』 メモのうえに謝罪の言葉が何度も連なる。 それを見てるうちに純は落ち着いてきた。 いつもこうなのだ。均実は言っても無駄だと思ったことは言わない。 だから余計に周りが気を揉んでいることに気付いていない。 「声がでないならでないでちゃんと言っておいてくれないと……」 純の言葉をさえぎるようにして、均実は強張った顔で首を何度も横に振った。 その表情を怪訝に思ったとき、後ろから誰かがメモを覗き込むようにしたため、純の顔に影がかかった。 「亮っ」 ぱっと明るい声をあげ、純が彼の名を呼んだ。 久しぶりに彼の姿を見た気がする。仕事がやはり忙しいのか、すこしやつれたようにも見える。 いつもの笑みを亮がみせると、 「綬、呉に行くので私の分の荷物を別にまとめてくれるかい?」 そういいつつ、駆け寄ってきた喬を抱き上げた。 「兄上にもおそらく会えるだろうから、よろしく言っておくよ」 「そっか……そうだよね。ゆっくりできないんだね。」 あからさまに残念そうな声を出す純を、亮は眺めてから均実に目をやった。 「それと、均実殿の荷物もまとめてくれ。」 「えっ? ヒトのも?」 「均実殿、君も一緒に来てほしい。」 亮は均実にむかってそう言った。 均実は強張ったままの顔で後ずさるようにしながら立ち上がった。 亮が一歩近づくと、均実は一歩遠ざかる。 「ヒト?」 純の声にメモをひっつかむと、荒々しく殴り書き、純に渡して部屋を飛び出した。 「均実殿っ?」 亮が慌てて声をあげる。 純は驚いたまま、その手の中のメモに書かれた文字に目を落とした。 『私、亮さんを失いたくない』 それに気付き、亮がメモを覗き込む。 「……何が書いてあるんだい?」 「亮、ヒトに何したの?」 純の声に亮は一つ息を吐くと、 「許されない、ことだ」 と応え、均実の後を追った。 どうしていいのかわからず呆然としていた純の後ろには、陽凛が立っていた。
探して探して……結局、亮が均実を見つけたときには日はもう完全に暮れて、空は星が輝いていた。 彼女は長江のすぐ側で立っていた。夏も過ぎ、虫の音もないこの夜には、笛の音が唯一あたりに響いている。 均実は笛を吹いていた。 対岸で散った多くの命。 哀しげで、寂しげなその姿を見ていると、聞こえてくる音が鎮魂曲のようだ。 一体何をしているのか。 そう思ったが、熱心に笛を吹くそのの姿をみてわかった。 悼んでいるのだ。戦死者を、犠牲者を。 責めているのだ。……自分自身を。 そうじゃない。均実に求めているのは彼女自身への責めではない。 「均実殿。」 声をかけると、均実は笛をふくのをやめた。 近づき横に並ぶと、こちらを見た。だがただ物言いたげにわずかに口を開いただけで、すぐに口を閉じ、亮を睨んできた。 「美しい空だね。」 その言葉にも何の反応もみせない。 しばらくしてゆっくりと均実は視線を川にむけた。 暗くて対岸は見えないが、夏口はあちらにある。あちらに……関羽はいる。 亮は心に影が再び宿った。 何なんだ……これは。 話そうと思っていた。 いろんなことを話すべきだと思っていた。 だが……何を言えばいい? 「人は簡単に死ぬ……ね」 話題が思いつかず、口をついてでた言葉に均実は大きく動揺したようだった。笛から片手を離し、亮の衣の一部をつかんだ。視線は対岸から亮に移され、何かを訴えるような必死な瞳をこちらにむけている。 何を訴えようとしているのか……? 庶から聞いて、声がでないことは知っている。だから均実は何も言わないだろう。 亮は自分には均実が何を考えているのかわからないことを、今更ながらに思い知った。劉備は自分より自分を知っているのかもしれない。 だけど知りたい、と思う。 彼女が何故、そのような瞳をしているのかを。 「呉に、共に来てくれないか?」 均実は黙り込んだまま、一度だけ頷いた。 こちらを見上げているのに、自分をすり抜けて、まったく違う物を見ている。 何も映そうとしないような虚無を見つめる瞳。だがその意思とは関係なく、夜空に瞬く星々は勝手に瞳の中に映りこむ。 亮はその瞳を 綺麗だ と思った。
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