肩を叩かれ振り向くと、小さくて白い四角形のぺらぺらしたものが渡された。悠円はその、めも、という物の上にかかれた文字を読む。 均実がそれを示すことにはもう慣れていた。 「え〜と、ここにあるものを届けるだけでいいんですね?」 均実がその確認に頷いたのを見て、まとめられた竹簡を悠円は持ち上げた。 均実も新野では仕事をしていた。近しい者には女とばれてしまっているが、腐っても組織の末端に属していたのであるから、『諸葛均』に対する仕事がなくなるわけではない。 しかし均実は声がでない。 その事実を均実は悠円以外には知らせようとはしなかった。 何か考えがあるのか、そこのところを悠円は何度か聞いたが、均実は答えなかった。 いつもより衣服を整え、まるで仕官をした者のようないでたちの悠円に、均実はまぶしげに目を細めた。 均実の代わりに、悠円には『諸葛均』の仕事をしてもらっている。『諸葛均』は体調を崩しているために、代理として悠円が実務を行っているのだ。 夏口は劉 が治めていた土地とは言え、これまで実際的な交流はなかった場所だ。劉備の軍が流れ込めば治安も乱れやすくなる。 雑務などいくらでも生じた。人手はいくらあってもたりなかったのだ。 「ではいってきます。」 すこし仕事が楽しくなってきたという悠円を見送って、均実はため息をついた。 呉からの使者に会いに行った亮はどうしているだろうか。 彼は言っていた。 『憎んでくれ』 全てが終わった今ならわかる。 民を盾にし、均実たちを危険にさらし……季邦を殺すことになった計画を、劉備に進言したのは亮なのだろう。 憎む権利はある。 確かに何も考えず、憎んでしまえば楽だろう。 自分は何も悪くない。そう思い込めるのだから。 でも亮さんは…… 均実は知っている。亮が死に捕らわれていることを。 誰よりも死に近いところで、他人の死を決断している。 曹操の目の前で均実が感じた、生と死の垣根の低さ。亮のその垣根は、ほとんどないように思える。 何かの小さなきっかけで、そこを踏み越えていってしまうほど。 自分が彼を憎めば……。 均実は思わず二の腕を抱き、悪寒に耐えた。 そのきっかけになるかもしれない。 『君とぉ孔明はぁ相容れない〜。』 それは均実のせいで、亮に害が及ぶということではないか? 長坂からずっと、均実は徳操の言葉について考え続けていた。それこそ寝る間を惜しんで、ずっっと――そしてはじき出された答えは。 もし私が亮さんを憎んで憎んで憎みつくして、彼の死を望めば…… 亮さんは……簡単に死を選ぶかもしれない。
見送りがてら江夏まで共に行くことを、劉備が主張した。そのため夏口には関羽を残し、そこを守ってもらうこととなった。 すこしでも早いほうがいいだろうと、明朝には出発になる。 将の家族の大半も、江夏へいくことになり、純らも旅支度を解かぬままで夏口の夜を過ごしていた。 そんな夜、亮が思索にふけっているとき関羽が訪ねてきた。 もう家人達も寝静まっているころ、人目を避けるようにして、その巨体は亮の部屋に入ってきたのだった。 「どうされましたか?」 亮はそう言って、目の前の大男に対応した。 周囲に人の気配はない。もしかすると関羽は家人をどうやってか捕まえ、案内させた上で人払いを頼んだのかもしれない。 「兄者とは江夏で別れ、呉に行くと聞いたが?」 亮は一瞬戸惑った。 今まで関羽は亮に対して、このようなぶっきらぼうな言い方をしたことはない。 確かに年齢だけでいえば、一回りも違うほどだが、それでも関羽は常に亮に対して敬意を払っていた。張飛ならば露骨に見下したような態度で接しられた時期もあったが、彼に限っては表にそのような態度をだすようなことはなかったのだ。 「はい。そうですが……」 「均実殿をどうするつもりか。それを聞きに来た。」 関羽は言った。すこし苛立った様子で。 何故彼がこんなことをいうのだろうか。 疑問に思ったが、その疑問は納得に変わる。彼は均実の薙刀の師である。舟も一緒であったから、実際に彼女と話したのだろう―――いや、話すことはできないか。 そのことに気付き、一瞬亮は眉をひそめた。 心を通り過ぎた、黒い影のようなものを感じた。だがそれの正体がわからない。 「彼女が女であるのは、さすがにもうわかっているのだろう?」 亮のことなどどうでもいいかのように、関羽は話を勧めた。 「それは……まあ」 「いつ気付いた?」 「……長坂で。」 その返答に大きく関羽がため息をついた。 「均実殿が気付かれぬよう振舞っていたとはいえ、何故気付かん。」 確かに同じ屋敷で生活をしていたこともあるのだ。気付かなかったのは自分の不徳の致すところ……といえなくはない。どうやら怒られているようだ。 そのことを理解して、ますます亮は困った。黒い影が戻ってきた。理由もなく、ただその存在には心が波立った。 不快だった。 関羽はもともと均実が女であることを知っていたようだ。それもおそらくは薙刀を教えていたというころには。 そんな彼と均実のことを話すことに、亮は不快感を覚えていた。 「あれだけ気をかけられていて」 眉間にしわをよせながら関羽は言う。 「あれだけ考えられていて」 怒られているだけではないらしい。 責められている。 そのことに気付くと、黒い影が大きくなった。 寄せてはくる波のように、周期が増すごとにその存在は濃厚になる。 呆れられるならわかる。自分でも呆れているところがある。 だが何故彼に責められなければならない。 庶が去り際に自分に残した言葉が、耳に戻った。 影が強まる。 自分を覆うほど、それは大きくなる。 「均実殿はこの夏口に置いていけ。」 関羽の言葉に亮は顔をしかめる。 夏口に? ……関羽の元に? 「彼女は連れて行きます。」 何かを考えるまでもなく、口からは関羽の意向とは逆のことが出ていた。 「江夏に連れて行っ」 「江夏ではなく、私と共に呉へと。」 亮の返答に今度は関羽が顔をしかめた。 均実が声が出なくなるほど、心が傷ついたのは亮のせいだというのに―― 「……もしかして知らないのか? 均実殿が今」 「声がでないこと、でしたら知っています。」 「それはお主のせいだろうがっ?」 「そうでしょうね。」 どこまでも慌てることがないような、抑揚のない声で亮は関羽に答える。そのことが関羽の困惑を強めた。 「均実殿にはやってもらいたいことがあるのです。」 わからない。 この男は一体…… 「何を、考えている。彼女をまだ痛めつける気か。」 均実のことを何だと思っているのか。 「どこまで……彼女を壊す気だ。」 「あなたには関係ない。」 亮はそう言って、 「例えここに均実殿を置いていったとして、あなたに彼女の声を引き出すことができるのですか?」 痛いところをついてきた。 関羽は思わず唾を飲み込む。 ここに均実を留めておきたいというのは、これ以上彼女を傷つけるような場所にだしたくないという思いだけではない。 ただ均実を、自分の側に置いておきたいだけなのだ。 それはできないことは……もうわかっていたはずなのに。 関羽は静かな目で見ると、ポツリとつぶやいた。 「……そう。関係ないわしでは駄目なのだ。 わしの考え方では駄目なのだろう。」 関羽は眉間にしわをよせた。 彼女が壊れることを自分は止められなかった。 守ることも自分にはできない。 自分には…… 「だから、頼む。」 それを言うことはそれを認めることであり、自らの矜持を損なうことはわかっていた。 だがけして留まることのなかった彼女が歩みを止めてしまっていることが、痛々しすぎて見ていられない。 亮は知らないだろう。彼女がずっと、夏口に向かう舟に乗っている間、誰とも口を聞かず、笑わず、ただ自分を追い詰めるように笛を吹き続けていたことを。 彼女は死を知らなかったのではない。 許都で彼女が見た夢は、親友の娘の死。もちろんそれは事実ではなく、均実の不安が作り出した夢。 だが夢に現れる以上、彼女の記憶の根底には死という概念が存在しているのは確かだ。 だが誰かの命が目の前で消える瞬間は、目にしたことがなかったに違いない。 そしてそれが怒涛のように起こり、実感し、彼女は進むことを怖がっている。 これ以上の目の前の死を拒否している。 だがそれは……自分が愛した彼女ではない。 再び美しき流れをたたえる大河に沿う水となるならば、この矜持を壊してやってもいいと思った。 「彼女を元に戻してやってくれ」
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