漢津から漢水に舟を浮かべ、それは一路東へ向かう。劉が漢津まで遣わしてくれたもので見上げるほど大きい舟だった。 その甲板の上で、亮は吹き付けてくる風にのって聞こえてくる音に目を細めた。 高く高く、鳥が舞い上がるようなその音とは逆に、思考は深く深く掘り進められる。 笛の音だった。 いまここに琵琶がないことが悔やまれる。あればこの音色にあわせてかき鳴らしただろう。笛の音と共鳴させれば、自分の求める何かがつかめるような気がする。 だが琵琶はなかった。 季邦が均実の友人であるということは隆中にいたころから知っていた。 新野にやってきた彼が、均実の友人という場所にのみ、自分の存在意義を見出し、それを守りたいと願ったことも。そしてそのことが唯一の彼の望みであることも。 そしてその強い願いが、季邦を死に追いやるであろうことも。 たった一つのことに固執する者は、命を賭してでもそれを果たそうとするだろう。 だから利用した。 均実を純と一緒にいさせることで、季邦が何よりも優先した均実を守るという意思を利用しようとした。 純には甘夫人らとともに行動するように言いつけておいた。 そして均実には純を守ってくれるように頼んだ。 最悪の場合でも、捕らわれても均実が側にいれば、彼女達は季邦の命と引き換えに逃げることができるから。 一人の感情を優先するために、多大な被害を受けるわけにはいかないのだから。 ……それはいいわけだ。 自分が彼女の友を奪ってしまったことに違いはない。だから…… 「孔明殿。」 劉備が呼んでいる。 亮は思考を中断した。 さきほどまで地元の兵と話していた劉備は現実的なことを言った。 「江夏の兵を合わせて一万とすこしか。」 「そのようですね。」 「少ないな。やはり曹操と対するには呉と手を組まねばならないだろう。」 曹操の兵力は荊州をも取り込み、百万を越すだろうとまで言われていた。 この逃亡の身では一万集められるだけでも大したものだろうが、それでも足りないのは明白だった。 「……」 笛の音が聞こえてきていた。無視することを許さないかのような、悲しすぎる曲に聞こえる。 亮は自分の乗っている舟ではない、同一方向に進みながらも近寄りも遠ざかりもしない舟を見た。それは用心のためにしんがりを務めた関羽らが乗っている舟であり…… 劉備は困ったような顔をした。 「均実殿か?」 「……ご存知だったのですね。」 その呼び名に亮は諦めたような笑みをしてみせた。 均実はあれに乗っているはずだ。笛の音が聞こえてくる、あの舟に。 乗船する間際、遠目に見た均実は相変わらず男物の着物を着ているというのに、どう見ても女だった。まとめていた髪を下ろしているということもあるだろうが、髭がないだけでこれだけ変わるのは、要因に外見でなく普段の彼女の立ち居振る舞いがあったからだろう。 悟られないように男として通すことはどれだけ大変だっただろうか。 劉備も均実のことは気にかかっていたようだ。 「まるで張り詰めていた弦が切れたような印象を受けたな。」 劉備はそう言って、亮の見ている舟のほうを見た。 あの当陽で帰ってきた均実に亮が声をかけたとき、彼女に表情はなかった。 まるで人形のような生気のない顔。 それからは忙しく、彼女の元に行くこともできなかった。 だから日をおうごとに、不安のようなものが存在を増していた。庶と話してからは特に。 「私は彼女を……利用したのです。」 亮は均実がいる舟のほうをじっとみつめた。 きっと自分を均実は憎んでいる。 均実に今回の計画を話してしまえば、きっと彼女は季邦を止めただろう。 自分達を助けるために、命を引き換えにすることなど許しはしなかっただろう。 だから言わなかった。 人質を無事に解放するには、敵陣深くに警戒されずに忍び込める人物のてびきが一番確実だったから。 許してもらえるとは思えない。思ってはいない。 ……思ってはならない。 彼女の憎しみはきっと自分の糧となる。自分の……支えとなる。 劉備はすこし悲しげに笑う。 「話すことだな。」 劉備はそう言った。 振り向くと劉備はまるで幼子を叱るかのように慈しむような柔らかい声音で言った。 「孔明殿は均実殿が今、何を考えているかもわかっていないのだろう?」 何を考えているか? 亮は劉備の言葉に眉をひそめる。 友人を死に追いやった自分を憎んでいる。それ以外、何があるというのだろう。 だが……彼女とあれから一度も会っていない。 彼女が本当に自分を憎んでいるかを直接聞いたわけではない。 「今まで話さな過ぎたのだ。」 「私は――」 そうなのだろうか? 亮は反論しようとした口を閉じた。 彼女は自分を支えようと気遣ってくれていた。 だが自分は……? 彼女が何を考えているのか、聞いたことがあっただろうか。
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