長坂をすぎると、ようやく曹操軍とは離れることができた。 理由はいくつかある。関羽が率いていた軍と、劉?の軍が迎えていたために、ただぶつかることを曹操が一旦避けたためでもあった。また劉備を追撃するよりも、要の地である江陵を落とすほうがよいと判断されたのかもしれない。 だからとりあえず、そこで安全の確認が行われた。 誰がいなくなったのか、誰が死んだのか、誰が無事だったのか…… だからわかっていた。 徐庶にその書簡がきたら、彼のする行動も。 母が捕らえられたという。徐康も死んだ。彼には母だけが家族だった。 わかっていた……が 「玄徳殿にはすべて話した。準備が整い次第、すぐに出ようと思って……?」 反応が思ったより薄い。 庶は怪訝に思いつつ、目の前の人物の字を呼んだ。 「孔明?」 「……お前に抜けられるのは、正直言って辛いな。」 「珍しいな。弱音か。」 「本心だよ。」 苦笑しながら亮は言った。 庶の能力は高い。それを認めているだけに、曹操の下へいってしまうと聞けば、止めてくれと思わないわけがない。 だが止めない。 庶は誰よりも親孝行な人間だ。 隆中にいたころから、けして親を軽んずるような行動をしたことがない。 きっと彼は誰になんといわれようが、曹操のもとへいくだろう。 「理解を感謝する。 まあ仕事は区切りがつくまでやってからいくから、心配するなよ。」 庶は自嘲気味に笑った。 「どうせあちらには私の仕事はないからな。今のうちに忙しくしておくさ。」 曹操の下にはもうすでにたくさんの良い人材がいる。今回、庶を下らせるのは自陣で使うためではなく、劉備の力を削ぐためという意味のほうが強い。 武将ならともかく、曹操陣営には参謀など有り余るほどいるのだ。 惜しいと思う。彼ほどの人間が、曹操の下へいってしまうのが。 だが仕方がない。 亮はそういいながら、引継ぎを確実に済ましていく庶を見た。 「そういえば広元はどうしたんだ?」 いつも庶の後ろにいる彼の姿が見えず、亮は疑問を表したが、庶は苦いかのように顔をゆがめた。 「あいつも一緒に行くといっているから、仕事を片付けるのを手伝ってもらっている。」 「そうなのか……」 それも仕方がない、と考えるしかなかった。 彼らの間には隆中にやってくる以前からの強い信頼関係にあるのだから。 「さきほど均実殿のところに共に別れを言いに行ったが、ここにも後で……」 そう言った瞬間、亮の顔が一瞬暗くなったのを庶は見逃さなかった。 「どうかしたか?」 「均実殿に、会ったのか?」 「ああ? お前は会いに行ってないのか?」 「……」 数度、純の様子を見にいったが、均実はその度にいなかった。 まるで亮を避けているかのように。 だが想定していたとはいえ、今回は敗戦であるのは間違いない。 兵の士気も落ちるし、不満をもっているものもたくさんいる。それを再びまとめる必要もあり、何より庶が請け負っていた仕事も引き継いでいる。 様子をもっと頻繁にうかがいたくとも、それは不可能だったのだ。 「……怪我などはないようだった。体調という意味では、お前のほうが大変なのではないか?」 確かに庶の言うとおりだ。ここにきて行軍の進行方向を変えることになったために、亮には必要な仕事が増えていた。さきほどその関係についての話を、数人かに指示したところだ。 そういえば前に休憩をとったのはいつだったか…… すこしめまいがしそうになった目を押さえ、長いため息とともに亮は口を開いた。 「江陵へ向かわずに、漢津に行くことになったからな。」 曹操がこちらを追い越し、江陵へ向かったという報告のせいもあるが、この変更は関羽がもたらした報せのためだった。 劉きは思ったよりもしっかり江夏を治めていたらしい。少ないが兵も集め、以前出した使者のとおり、呉を警戒していた。 そしてそんな劉きは関羽へ、劉備もこの江夏へくるようにと勧めていた。 江夏へ行くならば、このまま南へいくのではなく、東にある漢津へと進路をとり、水路を使ったほうがいい。劉きもそのつもりらしく、水軍を漢津にさしむけてくれるという。 新野にいたころから、落ち延びる先の候補として劉きのもと、つまりは江夏へということも考えられていた。だが江夏はもし曹操が南下してきた場合、曹操と孫権に板ばさみになる土地だ。ただでさえややこしい関係に陥るであろう江夏が、さらに火種となるような劉備を受け入れるはずがない。 よって、一旦江陵で体勢を立て直し、呉と結んで曹操と対し、こちらの陣営へゆっくりと劉きを組み込むというのが本来の計画だった。 そんなこんなで江夏へ行くことは、劉き自身が応じないだろうと踏んでいた劉備たちは、その劉きからの申し入れに一瞬戸惑った。が、話を聞けばわけもわかった。 呉から使者が来ているという。そしてその使者がぜひ、劉備に会ってみたいといっているのだ。 劉きとしては曹操が南下してきている今、呉に敵対をするわけにはいかないが、江夏の地は何度も呉によって侵された地でもある。 対応に困り、知恵を貸して欲しいというのが本音だろう。 「そうか……まぁ、頑張れよ。」 これ以上自分は従軍できない。 すこし寂しげな笑みで、庶はそう言った。 だが帷幕をでていこうとしたとき、ふと思いついたように足を止め、 「孔明、話しておくべきだと思うからやはり言っておく。」 といい、仕事に再び取り掛かろうとしていた亮は彼をみた。 数分後、庶は話を終えようやく帷幕からでてきた。その足取りは重くもないが、軽くもなかった。 全てを受け入れ、自らを知り、そしてその中で最善を選ぼうとする者。 彼はこの後曹操に仕え、その一生を過ごすことになる。
「均実様」 悠円の呼びかけに、口を開いて何かを応えようとしている。 ただ声になっていない。 最初はまさかと思った。 だが均実はその疑問を抱いた悠円に向かって、辛そうに顔をゆがめて頷いた。 だから悠円は確信した。 「声が、出ないんですね。」 戦場を逃亡するときから、奇妙なものを均実からは感じていた。 自分ですら目を背けたくなる世界。目の前で殺されていった人の中には、均実が親しくしていた人もいたはずだ。 均実はそれを見たとき、最初はその犠牲者の名を叫んでいた。自分を見失うほど、酷く取り乱していた。だが……徽煉という老女が死んだときも、友人である蔡封と別れる時も均実は何も言わなかった。 言えなかったのだ。 声がでなかったのから。 だから別れを言いに来た庶や広元に均実は、何も、言うことはできなかった。
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