曹操は報告を聞き、処罰を決めた。 「弟の愚行は私には何ら関わりあいのないことでして……」 これ以上ウザい話を聞いてやるつもりはない。曹操は眉をひそめると、とりあえず目の前の男には、劉備を追いかけることを命じた。 蔡瑁といったか…… 慌てて帷幕を出て行った男の名を、今更ながらに確認した。 捕虜を逃した罪は軽くない。その捕虜には価値があったのだから。 だがそれをやった者のほうが、あの男より堂々としているのは何故だろう。 今も縛され、処刑の時を待っているはずだ。だが曹操の前で、その青年は今回の行動についての釈明を一切せず、ただ一言だけ言った。 「自分のためにやった」 ヘコヘコの頭をさげるつもりはまったくないようだ。曹操の目をしっかり捉えてそういう青年を、小気味よく思ったのは気のせいではない。 殺す他ないが。 どうやら兄と名乗る者も、助命を請いにきたわけではなかったらしい。 そのことが彼のあの潔い態度の一因なのではないか、とは想像がついた。 憐れだと思わなくもない。救ってやりたいと感じなくもない。 だが均実や劉備の妻が、逃げた者たちのうちにあったのを皆が知っている。何人もの兵が、その逃亡を手助けしている彼の姿を目撃していた。そして再び捕らえた劉備の一子すら、捕虜たちの逃亡を知った兵の混乱している目をぬすみ、取り返しに来た趙雲に渡したのは彼だという報告もあった。 「状況が違えばな」 数年前、自分の決定に従わず、独走して関羽を仇なそうとした参謀がいた。 それを曹操は許している。 だがあのときとは状況が違いすぎるのだ。 まず彼の裏切り行為を知っている者が多すぎる。従軍している兵全て、とは言わないが大半のものは、何らかの形で今回の捕虜の逃亡の話を耳にしているはずだ。ここで罰を与えなければ、軍全体の士気に関わるのだ。 そして何よりあの青年の立場があった。 蔡家の人間。 地元の有力な力をもつ家の者であろうと、自分に逆らえばこうなるのだというある種の見せしめが欲しかった。 この遠征はここで終わりではない。ゆっくりと自分の統治しみこませる時間はない。 姑息な手段とはいえ、戦後で波立つ情勢を押さえるために、その見せしめの手は有効だった。 彼の命は救いようがない。あまりにも彼が逃がした魚は大きすぎ、彼を殺すことで得る益を無視できない。 そう考えた時、曹操は口元にひきつるような笑みをうかべた。 逃がした魚は…… 「大きすぎる?」 戦略的には……である。 曹操は自分の考えの源となる女を思う。 魚のうち、あの一匹をあちらに返すことは、逆に面白い。 「あの返答はな」 曹操はそうつぶやき、鼻で笑った。 関羽のことを明かしてやったときのことは、しばらく鮮明に思い出せるだろう。 氷は溶けずとも砕ける。 堅い氷が周囲を受け入れるには、溶けるか砕けるかしかない。 だから砕けるきっかけを自分が投じた。 均実には借りがあったのだ。 以前、彼女のいったてこの原理≠応用した兵器によって、危機を乗り切ったことがある。正直、あの兵器がなければ、ここにいることすら危うい。 だからそれの借りを返すために、曹操はわざわざ関羽の想いを明かしたのだ。 その反応に歓喜はなかった。あえていうならば……激しい戸惑いか。 『私は邦泉です。』 彼女が発したその返答の意味はわからなかった。だが凍った氷が砕かれる衝撃に驚いているかのように、しかしどこか安堵していたように見えた。そしてはっきりとした意思も感じられた。 「あれでは雲長殿は……」 曹操は苦笑して、息を吸った。 彼女が結局関羽には何と言うのかはわからない。だがそれはもう自分には関係のないことだ。 気持ちを切り替える。次の命令をださなくてはいけない。 「書簡を作れ。」 側にいた文官に声をかけた。 「単福、真の名を徐庶という者の母はこちらが預かっていると。」
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