あたりには先ほどの戦乱で主がなくなったのだろう、馬が何頭かいた。興奮しているそれをなだめ、怪我を負った者を優先して乗せる。 簡雍が残った兵をまとめ、あたりを警戒する。 糜竺が馬に乗ったまま、先導する。 先ほどの戦いの余韻がぬけず、呆然としている者たちを、無理矢理この場から引き離すように、それは淡々としたものだった。 純たちもとりあえず無事だ。それを均実は確認してから季邦の姿を見たとき、笑いたいような、怒りたいような奇妙な気分になった。だからどのような顔を自分がしたのかはわからなかったが、きっとぎこちないものになったに違いない。 劉禅がまた曹操に捕らわれた。 せっかく季邦は自分達を逃がしたというのに、それが全て無駄になってしまったようなこの状況で、一体何を感じるのが正しいのだろうか? だが季邦の表情にその疑問は隠れてしまった。 すこしの苦笑と、すこしの諦めと……何かの決意。 思わず均実が立ち止まると、季邦は馬から一旦下りた。この場にあった馬の数には限りがあって、均実も純も乗っていない。だが季邦は何故か乗っていた。 そのことにまず不可解さを感じた。 「木橋がこの先にある。 それを渡ればもう安全だ。」 進行方向を季邦は指差した。かなり遠くにだがそのようなものがあるように見える。 たしかに木製の、それほど大きくない橋が川にかかっていた。何人かの兵士がその橋を守っているが、その兵は敵ではない。 劉備たちに確実に近づいていた。 「だから、ここでお別れだ。」 ことさら明るめの声で季邦がそう言った。 次から次へと起こる事件のために、均実はその言葉の意味が理解できなかった。 「行け。」 トンッと背中を押され、均実が一歩前のめりになりながらも、前を歩く簡雍達のほうに近づいた。 「誰が逃げるよりも、曹操にとっては皇叔の子を逃がすほうが痛手だろう。」 均実は慌てて振り返った。意味を咀嚼する暇もなく、新野をでたときに感じた悪い予感が大きく増幅して心を占める。 上手く声がでない。 だが季邦は微笑んだ。 「お前との約束は守った。今の俺は蔡家の裏切り者だ。……ああ、別に卑下はしていない。むしろ誇らしいぐらいだ。 これまで自分の意思でここまで突き通したものなんてないからな。」 今までみたことがないぐらい、すっきりした笑みだった。 「だから最後の最後まで立派に裏切ってきてやるよ。 ……俺が俺でいるために。」 『お前の友人でいられなければ、俺は俺じゃなくなる。』 約束をしたときと同じ、強い、そして悲しい目を季邦はしていた。 その言葉が脳にしみこむ前に腕をつかまれた。 「月英殿でしたね。邦泉、頼みます。」 強い力で腕をひっぱられ均実がバランスをくずしそうになると、純がそれを支えた。 「それから孔明殿に、信じてくれてありがとう、と伝えてください。」 快活な声で、季邦はそう言った。 それに純は頷く。 腕を強く今度は純に引かれて、均実は季邦を慌てて振り返った。 離れていく。彼はそれ以上こちらに歩こうとしていない。 微笑んでいるだけ。 均実は目の前が真っ暗になりそうになった。 助けに行く気だ、劉禅を。 曹操ならば確かに劉禅と均実たちとを比べ、劉備の跡継ぎになるであろう劉禅のほうに追っ手を多く注ぐだろう。まだ裏切りが知られていない季邦なら、趙雲が武力によって劉禅を取り戻せなかったとしても、まず助け出せる。 友人である均実をより安全にするために…… もう一度季邦の姿を見ようと振り返ったときには、彼は馬に乗って踵を返していた。 卓越した馬術はあっという間に彼を自分から遠ざけるだろう。 酷く苦しく、そして心臓が裂けるかと思えるような痛みが均実を襲った。あえぐような息を無理矢理吸い込み、季邦の姿を目に映すために顔をあげる。 行ってしまう……蔡家の人間としての裏切りをなすべき場所へ。 隆中にいたころ、蔡家の決定によって自分の目の前から去ったころとは違う。 あのころとは全然、状況が違う。 今、蔡家の、曹操の下にあるものは何かぐらいすぐわかる。 これは裏切り。 彼の……命を奪うには、十分な理由。 均実は口を開く。だがそこからは空気の固まりしかでない。 行ってしまえば、彼は殺される。 遠ざかる彼にかける言葉も、彼の名前すらも声にならなかった。 「ヒト。季邦殿はもう覚悟してる。……私たちには止められないよ。」 諦めを諭すような純の声に、均実は顔をそむけた。 どうして…… どうして……自分の意義など……無くていいじゃない! 命を捨ててでも、存在意義を守る必要があるというの……? きっと季邦は「邦泉の友人」という自分の存在意義を見出さなければ戻りはしなかった。 見出させたのは……私だ。 均実は荒く息を吸う。 友人であるという約束を、季邦の求めていたものの重さも理解せずにした、私だ。 純の前進をうながす歩みが、あまりにも残酷に思えた。 季邦と……もうまみえることはないだろう。 『どうして……人が人を殺すのだろう。』 亮の声が耳に戻る。 『犠牲になるのはいつも弱い者なのに……』 その犠牲を選んだのは亮自身だというのに、その声はひどく悲しげだった。 季邦が犠牲になることを知っていて、それを止めようとはしなかったのに…… 『私の選ぶものの結果、君を傷つけたら――私を憎んでくれないか?』 だから憎む? 亮さんを? 「確か……均実殿といったか。」 つぶやくように言われて顔をあげると、張飛がこちらを見て呆然とした表情でつぶやいていた。だが空は暗雲に覆われ、その表情を均実が見極めることはできなかった。 「早く行かれよ。ここは俺が引き受ける。」 返答する暇もなく、純が頭をさげ急いで歩かされる。 いつの間にか地面の材質が変わっていた。木目がつま先に見え、ここが橋の上であることはわかった。 橋…… ここを渡れば…… もう自分達に危険はない。 それが、季邦の望み。 季邦の死によって、続く道。 「われこそは燕人張飛なり。勝負する者はおらぬかっ」 橋を渡り終わってから、背後でそんな声がしたが、均実は振り向く気がおきなかった。
均実はどうやってそのあと、劉備の軍と合流できたのかよく覚えていない。 橋を渡ったところまでは覚えているが、純にうながされるままに足を動かしていた。 何か、大切なものが壊れたような気がした。 無事に劉禅を助け出した趙雲が、単騎で戻ってきたり。 張飛の一喝で、追ってこようとしていた曹操の軍が進攻が止めたり。 いろいろあったと後で知ったが、均実はそのときは何も考えられなかった。グルグルといろんなことが情報の嵐のように次から次へと頭に流れ込んできては、それに対応することを考えるのは辛かった。 だからただひたすら黙々と歩き続けてると、一本の木が何故か目についた。 眩しいほど輝いているように見えて、一瞬目を細める。曇っていた空から、そこに一筋だけ光が漏れていた。 それはそれは綺麗だった。 均実は思わず見惚れる。 木の葉には時折降った雨粒が乗っていて、日光を反射してキラキラと光っていた。あたりが暗いせいで、余計にそこは別世界に見える。 そこに、亮はいた。 まるで……隆中で彼が仕官を決意したことを、均実につげたときのように。 その亮の姿をみとめただけで、均実は息が喉に詰まった。 『君とぉ孔明はぁ相容れない〜。』 何故か徳操の声が脳裏に浮かぶ。 『孔明の側にいればぁ、君はぁ無意識に無理をしてしまうということだぁ。』 ……一体何を? あの時はただ否定した。頭からの否定をすることによって、師の言いたかったことを、まともに汲み取らなかったような気がする。 未だに自分にとって苦痛となる場所には見えないほど、そこは――亮がいる場所は美しく感じられた。だが…… 「均実殿」 苦痛となると、言われた理由は……? 亮の言葉に均実は何も応えなかった。 一度だけ礼をし、彼らのもとから去った。 今はもう髭をつけていない。彼にも自分が女であることはばれただろう。 だがそんなことどうでもよかった。 戦は……とにかく終わった。 非礼に当たろうが、なんだろうが今は、今だけは笑みすら浮かべる努力をはらう気にはならなかった。 犠牲というものは、たった二文字で表すにはあまりに大きすぎるものだった。
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