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均しきさだめ 作者:奇伊都

第22回   合流のち戦いの果てに……

「いた。」
 そうしてどれほど歩いた時か、季邦がそう言った。
「邦泉、あれが趙雲だったよな。」
 季邦の声に顔をあげる。
 いつのまにか雨はやんだが、太陽がでていないために辺りはいまだ暗い。
 それでもこちらに必死の形相で馬を駆ってくる趙雲がそこにいることはわかった。
「そこに奥方様はおわしませぬかっ?」
 周囲の者が甘夫人を示し、趙雲は安堵の表情を浮かべる。
 鎧は傷だらけであるし、馬の疲労も濃い。だが彼自身はまったくの無傷で、槍をしっかりと握っていた。
 彼の部下だろうか、周囲をとりまく兵たちもほっとしているようだ。
 簡雍もそこにいた。共に甘夫人を探していたのだろう。
 趙雲と簡雍は馬をおり、額を地面に擦り付けるほど頭を下げる。
「それがしのいたらぬばかりに、このような目に……」
「いえ、いいのです。蔡封殿が助けてくださいました。」
 甘夫人がそういって頭をあげるように指示する。
 だが礼を言おうと趙雲たちが季邦を見たとき、彼は険しく顔をしかめていた。
「あれは……?」
 趙雲よりまだ向こう。季邦が見ているのはそこにあがる砂煙だった。
「糜竺殿っ」
 趙雲は驚きの声をあげた。
 単騎を駆り、必死の形相でこちらに近づいてくる男は、間違いなく糜竺だった。彼は趙雲とは別行動で甘夫人を探していた。だが駆けて来るその後ろには、兵を引き連れた一人の敵将が迫っていた。
 おそらく戦場をうろついている間に見つかったのだろう。
 彼は弓の腕は優れているが、それに比べると刀はあまり得意ではない。気付かぬうちに接近されれば逃げるしかないのだ。
「離れていてください。」
 趙雲がそういって再び馬に乗る。
 夫人達からすこし離れ、糜竺を部下に保護させると、きっと眼差しを敵将にむけた。
「我は常山の趙子竜。名を名乗られよ。」
「ほぉ……噂は聞いておる。わしは夏侯恩だっ!」
 言葉が終わるか終わらないかというところで、激しい打ち合いが始まった。簡雍は部下を連れて、夏侯恩の引き連れてきた兵たちとあたっている。兵同士の戦いは、夏侯恩に余裕がなく指揮ができないのに対し、簡雍は的確に指示しているので負けることはない。
 問題は趙雲と夏侯恩との戦いである。獲物は両者ともに同じく槍、しかし覇気に決定的に違った。威圧されたのか夏侯恩は、どこか粗雑な攻撃を繰り返す。
 趙雲とでは、夏侯恩は武将の格では敵わない。だが……
「助太刀いたすっ」
 淳于導と名乗る武将が、その戦いに割り込んできた。剣を抜き、夏侯恩の槍を受けている趙雲に斬りかかる。だがすばやく趙雲が身を引き、その攻撃は空を切った。
 一旦三者ともに馬を操り、間合いをはかる。趙雲は二人を相手にしなければいけない。
 危ういと思ったのは均実だけではなかっただろう。
「はっ」
 だから趙雲の気合の声が上がった一瞬、何が起こったかを理解できた者も少なかったに違いない。
 目にも止まらぬ素早さで、趙雲が淳于導の喉を正確に突き、勢いで淳于導の姿が馬上から消える。鈍い音とともに、小さなうめき声があがるが、仲間のはずの夏侯恩にも彼を心配している暇はなかった。
 趙雲は全く動きをとめずに、今度は夏侯恩へその槍をくり出す。
 しかし息をつがせない趙雲の素早さは、主のいなくなった元淳于導の馬にいらぬ衝撃をあたえたようだ。混乱したその馬は我知らず趙雲と夏侯恩の間に走りこんだ。それに趙雲の馬が戸惑うような足並みをみせている。そのため趙雲は思ったように槍をふるえずに、夏侯恩を落馬させることすらできない。
「ぬっ……」
 夏侯恩は苦しげな声をあげ、混乱している馬を盾にしながら防戦一方にまわっていた。
 合流できてホッとした気持ちがわく前に、起こったこの事態。いくらこちらに有利な状況であろうと、均実の神経は研ぎ澄まされる。ここが戦場であることを認識し、危険であることを本能で感じていた。
 趙雲の槍が疾風のごとき突きを加え、それを夏侯恩が防ぐたびに金属音が響く。
 私もついさっき、ああやって人に刃をむけたんだ……
 均実は薙刀を強く握り締めた。曹丕に捕らわれる直前まで、我を忘れてこれを振るっていたことなど嘘のようだ。
 さっき落馬した淳于導は……死んだのだろうか。
 目の前で起こっている戦いに、皆が目を取られている。
 そのとき、突然一人の家人が叫び声をあげた。何が起こったかすらも認識せずに、ただ巻き込まれないようにとそれぞれが動いたため、まとまっていた形がすこし崩れる。
「散るな。まとまれっ!」
 季邦は糜竺とともに彼らの混乱をおさめようと声をあげた。だが彼らも何が起こったのかを知った時、動きが止まった。
 数人の魏兵が、すぐ側まできていたのだ。武器を持ち、今にもこちらを斬りつけようとしていた。
 慌てて糜竺が弓に矢をつがえる。しかしもう兵はすぐ側にいる。それだけでは間に合わない。
 だが徽煉が薙刀を振るい、一人を叩きのめすのが見えた。均実も自分の薙刀をかまえたまま、純の側に寄る。
 だが……
 震えている。
 均実は自分の薙刀の先の刃をみて、そう思った。
 これは人の命を奪うためのもの。これを自分が振るうということは……
「ヒト?」
 均実の逡巡を見抜いたようなタイミングで、純の声がかぶさった。
 頬がひきつり、均実は歯をかみ締めた。
 私は……逃げるわけにはいかない。
 無理矢理指先に力をいれ、柄から手を離さないように意識を配る。
 すると魏兵が一人。徽煉のほうに駆け寄っていくのがみえた。
 均実は薙刀の刃の部分を翻し、柄のほうでその者の胴を薙いだ。
 重い……
 その重さに顔が強張る。しかしふいうちだったせいか、それほど力を必要とせずに、兵は宙をしばし飛び地に伏した。
 そうか……。刃の部分を使わなければいいんだ。
 均実はその兵に、遠目ではあるが怪我がないことを見て取り、安心した。それからは下手に戦おうとはせず、自分や純に危害が及びそうになったときだけ、それを払うように振るう。相手を無効化するには及ばないが、周囲から追い払う程度なら、もともと重みのある薙刀の柄だけで十分だった。
「そうです。均実、冷静にやりなさい。」
 均実があえて柄の部分しか使っていないことに、徽煉は気付いたのだろうか。だがそれについては何も言わず、今度は均実が自分を見失っていないことだけを確認すると、徽煉が薄く笑みを浮かべそう呼びかけてきた。
 その声によって心に落ち着きが生まれる。頭に血が上っていない状態で状況を確認すると、それほど切迫した問題ではないようだ。振るう薙刀の動きにも、余裕をもつことができる。
 そうやっているうちに徽煉と均実の周りには、警戒するように兵は避けようと動くため、薙刀を振るいやすいほどの空間ができた。
 戦える者が少ないとはいえ、雑兵だけだ。なんとかなる……と思えた。
 短く高い、その悲鳴が上がるまでは。
 均実も徽煉も悠円も陽凛も季邦も糜竺もその他の者たち皆が、その悲鳴のほうを向き凍った。
 甘夫人が兵に倒され、地に伏していた。徽煉の死角をぬって、彼女の後ろに他の兵がきていたのだ。
 徽煉が素早く彼女に駆け寄った。怪我はないようだ……が。
 誰もが目を疑ったことだろう。
 歩兵の一人の手には、彼女の抱いていたはずの劉禅がいた。
 糜竺が慌てるが、下手に矢を放てば劉禅に当たる。
 それをいいことに、兵たちは走り去るため、手際よく用意してあった馬に飛び乗ろうとする。
「待ちなさいっ」
 薙刀を構え、徽煉がそれを追った。
 まっすぐに劉禅と捕らえている兵へと走る。
 均実もそれを一瞬追おうとした。
 が、そのとき胸が痛んだ。反射的に手で心臓をつかむように押さえる。
 何故か先ほどの逡巡を思い出す。
 胸を押さえていないほうの手に持っている薙刀の重みが、ずんと増したように感じた。
 劉禅を抱いたままの兵を、今まで相手にしていた兵たちのように、これで弾き飛ばすなんてできない。劉禅まで怪我をしてしまう。追うならば、劉禅に危険のない方法であの兵の足を止めなければいけない。
 危険のない方法……、兵が足を止めた後も、自暴自棄になった兵が劉禅を傷つけない方法。兵の動きを完全にとめ……その意思を剥奪するには……
 より一層胸の痛みが増す。
 その方法は一つ。追いかけるということは、それを実行するということ。
 あの兵を……私は殺せるの?
「徽煉っ!」
 甘夫人の叫びが、その小さなささやきを散らした。
 均実は慌てて自らの視線を甘夫人のものと同じものへむける。
 劉禅を連れた兵は少しでも早く、この場から逃げようとしている。だから徽煉はその兵目がけて走っていた。
 自分の横にいた馬に、他の魏兵が乗っていたことを失念して。
 その時均実にできたのは、徽煉とその兵の間にできた繋がりが、生じ、そして解かれたのを目に映すことだけだった。
 馬に乗った男は、徽煉のほうを一瞥してその刀を突き出していた。勢いよく徽煉の胸を貫通した刃は、即座に彼女の体から抜かれ、赤い刀身を光らせている。
 均実は息を吸った。その息にすら、血の匂いが混ざる。
 徽煉殿が……
 うずくまるようにして膝を折った徽煉は、胸に両手をあて眉間にしわをよせた。
 徽煉殿が……
 酷薄な笑みを浮かべて、徽煉を刺した男はその場を走り去る。
 徽煉殿が……
 それを睨み、徽煉は薙刀を杖のようにして立ち上がろうともがくが、もう体には力が入らないようだ。
 柄を握る手が、それを濡らす血液で滑るように離れた。薙刀は大きな音をたてて倒れたというのに、徽煉はゆっくりとその体を傾いだ。
 その姿には重なるものがあった。
 ああ、どうして、徐康殿と、同じように、見えるのかな……
 息苦しさを感じつつ、均実はぼんやりとそう思った。
 同じだった。倒れ方も、そして結末まで同じ。
 白いもののほうが多かった髪がほどけ、徽煉の体を覆うように広がった。その白の内より染み出してくるのは……赤。
 徽煉は物のように、もう動かない。
 もう……二度と動けない。
 誰かがあげたのだろう叫び声が、戦場に響き渡った。



 慌しい攻防の中それを聞き、趙雲は顔をしかめる。
 くり出される攻撃を避けながら、そちらを見た。
 連れ去るのが人であるならば、男より女。そして女より……
「ぎゃぁああああ!」
「阿斗っ!」
 甘夫人は赤子の幼名を呼んだ。
 劉禅を連れている兵は、徽煉を殺した騎馬兵に泣き叫ぶそれを渡した。
 そして見せつけるかのように、騎馬兵が劉禅をもちあげる。
 劉禅の姿が趙雲の目にとまった。状況を理解し、目の前の相手に呪詛の言葉を吐きつけた。趙雲はいきりたち、槍をさらに厳しく突き出す。
「かはっ」
 夏侯恩はもろに胸をつかれた。数秒馬に乗ったまま、その胸から血しぶきが吹き上がるが誰も気にはしていない。趙雲の目すら、彼を見てはいなかった。
 赤子の声が遠ざかろうとしている。
「いやぁぁああ! 阿斗――!!」
「糜竺殿、簡雍殿。後はお頼み申すっ」
 甘夫人の絶叫を背に、糜竺は簡雍と合流し、趙雲の要請に頷く。
 それを確認した瞬間、趙雲の馬は去っていこうとする馬を追いかけるために走っていった。
「阿斗っ、阿斗!!」
「落ち着かれませっ」
 半狂に近い甘夫人のもとへ糜竺が駆け寄る。
 だが走り出そうとする彼女を抱きとめることで精一杯だった。
「奥方様!」
「阿斗っっ――っ」
 なおも暴れるようにして趙雲らの後を追おうとする甘夫人を、近寄ってきた簡雍は平手で打った。
 頬をおさえつつ、甘夫人は呆然として簡雍を見返す。そして糸が切れた操り人形のように、その場にくずれ、座り込んだ。
「行きましょう。」
 簡雍は言った。
 趙雲は必ず劉禅を助け出してくれる、と。

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