不快な風が吹いている。 空は曇天で、時折細かい雨が体をぬらした。視界が悪くなるほどではないが、微かに湿気を含む衣服が重い足をさらに重くする。ぬかるむ地面もさらにそれを悪化させた。 それでも前に出す足は止められない。 まだ争乱の傷痕が残る中、歩く。 あちらこちらに色んな死体があった。鎧を着ているものも、着ていないものも、大人も、子供も、男も、女も…… 近くの村跡は火事になった場所もあったらしい。煙が上がっているのが見える。 純はそんな光景に湧き上がる嗚咽をこらえ、歩き続けている。均実も陽凛も彼女を気遣っていたが、軒がないのだから実際に歩いてもらわざるをえなかった。 悠円は喬をおぶさり、無言でついてきている。彼がいてくれてよかった。少年から青年へなりかけの彼の力は、おそらく均実よりもあるだろう。 徽煉が励ましながら小さな影の側につきそっているのが見えた。甘夫人もきっと純とさして変わらない反応に違いない。 互いが互いを励ましあいながら、壮絶な光景の中をただ歩く。 目を瞑ってしまいたい、耳をふさいでしまいたい、座り込んでしまいたい、という思いが体内を荒らすように駆け巡り、気を抜けばそうしてしまいそうになるのを、均実はなんとか耐えていた。 きっと自分よりも顔色の悪い純がすぐ側を歩いていなければ、へたりこんでいたに違いない。 「邦泉、大丈夫か?」 それでも季邦がさっきから、均実の顔色が悪いと言っては、何度も問いかけてきていた。 「なんとか……」 生気のない声だと自覚しながら返事を返す。 均実は後悔していた。 留まることを決意した庶の母を、何故連れてこなかった。無理矢理引きずってでも、かついででも連れて行くべきだった。 歴史が変わることを、自分だけのことを考えて、判断を迷い、誤った。 そう、誤った。誤りだった。何故、どうして…… 彼女から手を放した? 季邦はもう一度均実の顔をじっと見てから、あたりを注意深く見回し、そして進むべき方角へ歩を進めた。 先導する季邦だけが、唯一曹操の陣営の中で動ける存在だった。途中、兵に何度か呼び止められそうになるたびに、季邦が前にでて何かと説明していた。誤魔化してくれているのだろう。 今は、ここから逃げなくてはいけない。でなくては彼の努力が無駄になる。 次に季邦が均実の様子をうかがいに戻ってきたときは、なんとか笑みをつくるぐらいはできた。 「ごめん。しっかりする。」 仕方がないとはいえ、季邦におんぶに抱っこ状態でなんとか脱出している。季邦に顔色まで心配してもらうのは、甘えすぎな気がした。 一度大きく深呼吸をすると、すこしはマシな顔になったような気がした。それに安心したようで、季邦は微笑んだ。だがすぐに真面目な顔になる。 「聞いて欲しい、ことがある。」 どうやら均実が持ち直すまで待っていてくれたらしい。 今ならまともな話ができる状態だと判断してくれたのだろう。 均実が頷くと、 「俺は蔡家に拾われた子だった。」 季邦はまるで日常会話の一節かのように、平然とそんなことを言い放った。 「拾われ……?」 この状況下でするような話題ではない気もしたが、内容が突飛過ぎて均実は何を言っていいのかわからなかった。 戸惑いを隠さない均実に季邦は構わずに続ける。 「母上が行き倒れていた俺を拾ったんだと。記憶を失っていて、拾われてしばらくのうちは意味不明なことを言っていたらしいが、母上は病で亡くした息子が帰ってきたかのように思え、献身的に介護してくれたのだという。」 こんな戦乱の世である。おそらくは家族と生き別れた上、何か恐ろしい目にでもあったために記憶が一時的に混乱していたのだろう。 別に珍しいことではない。 「精神が不安定なままではろくな治療も受けられず、日に日に衰弱していく俺を見かねた母上は、ちょうど流れてきた仙人と名乗る者に依頼して、俺が母上の息子である記憶を植え付けたんだ。だから俺は今まで、彼女が本当の母だと思いこんでいた。」 そんな重大なことをあっさり明かしてしまっていいのか。 均実が驚いていると、季邦は苦笑した。 「俺もいまだ、実感はないんだがな。」 季邦が新野に行くことに決まったとき、久しぶりにその義母を訪ねると、教えてくれたことらしい。 本当の子ではなかったこと、記憶喪失であったこと、自分の記憶が作られたものであったこと、それを季邦自身が知らないこと。 もちろん季邦もショックを受けたが、彼の母――養母というべきか――は泣きながら謝り、そしてもとから蔡家とは関係のない身であるのだから蔡家に縛られるなと、自らのために生きよと、本当の生みの母のように季邦を抱きしめて告げたという。 しっとりと季邦の乱れた髪を濡らしていた雨が、また降ってきた。 空を見上げるが、雲の切れ目は見えない。雨は降っては止み、止んでは降りを繰り返す。ただでさえ気分が暗くなる戦場跡に、さらに陰鬱な雰囲気を添えていた。 「自らのために、と言われても……と最初は思ったな。」 今までずっと蔡家のために生きてきた。それが当然で、別に疑問に思ったこともなかったし、記憶喪失になる前の自分の記憶を取り戻したいとも思わない。記憶喪失になるほどの過去だ。どうせ思い出してもいいことはない。 だが蔡家とは関係がないのだといわれ、根幹から自分を否定された気がした。 これまで信じて歩いてきた道が、全て間違っていたといわれたのだ。 養母を責めることなどできなかった。彼女は自分のために記憶を偽り、そしていままで蔡家の末っ子としての居場所を提供してきてくれたのだから。 しかし蔡家も母もない自分には、一体何が残るのだろうか。 自分というものを突き通したいと思えるほど、やりたいことは…… 一つしかない。 ゆっくりと、しっかり季邦は自分の気持ちを決めた。 その一つのためだったら、蔡家の人間として使える権利をいくらでも使うことも。 「お前の友人であり続けること。それだけをそのとき望んだんだ。」 必死な印象をうける理由はそれなのだろう。 蔡家のために季邦は生きてきた。ひいては母のために。 だが本当は血すら繋がっていないといわれ、その存在理由は脆くも崩れ去った。 残った唯一の自分は「邦泉の友人」として自分。 友人である均実を失ってしまっては、自分がなくなってしまうのだから。 「……だがお前の友人であるということは、蔡家の裏切り者になるということだった。」 すこし顔をしかめて、季邦がそう言ったのを均実は驚いた。 「どういうこと?」 「曹操は俺の示した場所に、兵力を集中させるだろう? つまりその地点の付近にいる俺も、かなりの乱戦に巻き込まれ、下手すれば命を落とすことになっただろう。」 実際その場にいた均実ならそれは理解できた。 次から次へと失われていく命を、目の前にしていたのだから…… 「って」 「そう。蔡家は――兄上は俺が死のうが生きようがどうでもよかったんだよ。」 兄に劉備のもとにのりこめと言われたとき、そのことが暗にほのめかされた。 だから彼の養母は新野に行く季邦に本当のことを告げたのだ。 死んでほしくなかったから。本当の息子でないとしても、もう失いたくなかったから。 「俺も無駄死にはごめんだからな。新野についてすぐ、皇叔と孔明殿に相談した。」 最初は季邦を信じなかった劉備を、説得したのは亮だった。 季邦はそう言って、周囲の人間に聞こえないように声を低めた。 「そして今回の計画が決まったんだ。 まず主要な将の家族がまとまって行軍しない。という嘘の情報を流した。」 本当はまとまって行軍していた。だが民をすこしでも安心させるために、ばらばらに隊列に組み込んであるということにした。 すると蔡家からの返信はこうだった。 『劉備の妻と子の居場所を教えろ』 もっとも人質にとりたい人物が、あちらからみれば彼女達だったのだ。 「では、ということで、曹操が追いついてくるころに、皇叔の奥方や孔明殿の奥方が他の将の家族達から離れることになっていた。」 甘夫人の軒が止まったために純も軒をとめた。 あれは前もって打ち合わされていたことだった。 「その地点を曹操に伝える。捕虜をださないことは不可能だった。ここまで追走されているからな。」 ならば最小限の人数を曹操に捕らえさせる。捕獲に曹操は時間をとられ、追撃の手を休めざるを得ない。 そうすると最悪な状況――劉備が捕らえられるという事態は生じなくなる。 とはいっても劉備の妻子や純たちが捕らえられた状態というのも好ましくない。 「そして俺がそれを逃がすことになっていたんだ。」 本当は趙雲が護衛の任をおびているので、夫人を警固するために一緒にとらわれていたはずだったので、彼と協力して……ということだったらしいが、そこは少々計画が狂ったらしい。 武力を行使する場面が生じなかったので、問題はなかったようだが。 「うまく人質をとることができたんだから……これからも蔡家の人間としていることもできたでしょう? 恩賞をもらうことだって……」 「そんなつもり毛頭なかったよ。 言ったろ? どう事態が転んでも、お前が死にさらされるような行動だけはとらないって。最初からこうするつもりだった。」 「……ああ」 そうだ。そう約束したんだ。 それが彼の、彼自身のための望みだった。 だから彼は劉備に蔡家から与えられた任務を明かし、そして…… 「……?」 均実は微妙に働きだしていた頭が、なにかに引っかかったのを感じた。 冷たい雨が、一滴二滴と妙にはっきり頬を濡らした。 その度に目が開かれていく。 ポツッ…… 季邦は曹操に情報を漏らすことが決まっていたと言った。 ポツッ…… そしてあの戦場で、劉備の兵はこちらを助ける様子を全く見せず、脱兎のごとく逃げ出した。 ポツ、ポツ…… まつげに雨がかかり、反射的に目を数度閉じた。雨粒が、数えることができないほど短い間隔になってきても、思考は止まらず、溢れるように加速する。 徐康や甘夫人の護衛の兵士達は殺された。 将の家族である者は曹操に捕らわれていた。 他にただ劉備についてきていた民は……? 周囲にある死体を思わず見回す。鎧を着ているものが戦場に関わらず、あまりにも少なくないか? あまりにも女子供の数が多くないか? 戦えない者たちは、戦う術を持たない者たちは…… 「最初から……切り捨てられるはずだったのか?」 喉の奥に何かが引っかかるような感覚が声を震わせる。均実の唐突な言葉に、一瞬季邦は戸惑ったようにこちらをみた。 だが詳細を聞くまでもなく、意味を理解し頷いた。 「曹操の足止めに使うためだけに、民を引き連れて行軍していた。」 ただ逃げるだけでは捕まる。 だから盾にした。人の命を。 長く続く、民の列。あれはまるで人の壁だった。 曹操も民衆の反感を買いたくはないだろうが、さすがにあれだけの人数が混乱し、行く手をさえぎれば、ここまで追いかけてきたというのに劉備を追い詰めることはできない。道を切り開くように、邪魔となる民は……殺すしかない。モノのように踏みつけるしかない。 すこしでもそんな曹操の足を遅らせるために 「それが必要だったんだ。」 「……」 「襄陽で民を引き渡さなかったのもそのためだ。」 季邦の言葉に均実は息を呑む。 言われてみればそのとおり。あのとき危険であるのは劉備とその配下であって、新野と樊城の民ではなかった。行軍から民を切り離せば、民は当陽の地で曹操軍に蹴散らされることはなかった。 襄陽でそれを決めた……? 違う。 均実は喉がつまった。呻くような声が、喉もとまであふれ出そうになり、その寸前で渦巻いている。 この計画が決まったのは、もっともっと前。 「少しでも多い人の壁で阻んだし、俺からも情報がいく。皇叔を曹操が追撃することはできないだろう。」 事実をつきつける季邦の声が、耳にはいってくる。 「俺は本来、邦泉、お前が捕らわれた場合、どんなことをしてでも逃がす、と孔明殿に言ったんだ。友人だから、な。 だがそのとき交換条件をだされたんだ。 友人を助けるのならば、他の捕らわれた者たちも逃がしてくれと言われた。その代わり、裏切ると主張しているとはいえ敵であることが明白だが、邦泉の側で行軍することを許可するし、蔡家を裏切ったことを自分で言うまで、周りには黙っていてくれることも約束してくれた。 だから俺はそれにのったんだ。」 曹操の足を止めるために、一旦家族を捕虜にさせ、民を足止めにした。 これが亮の選んだ道なのだ。 大きな犠牲を払う道。劉備を慕ってついてきた多くの民を切り捨てる道。 進む先で足をすくわれる可能性を、一つ一つ前もって除いていた。 あの新野の星空の下。彼が頭の中で予想していたもの。 その結果がこれ。今目の前に広がっている光景。 彼が言っていた犠牲は……これほどまでに大きかった。 めまいがしそうになり、目頭を押さえる。頭の中でおおきく銅鑼がなっているかのように、グワングワンと耳鳴りがする。 望んだのは、選んだのは人の死。 現実に目の前で赤い血の流れていた、今の今まで笑っていた、人の死。 歩けているのが不思議なぐらい、気分が悪かった。地面が揺れているように感じた。 そしてまた警鐘が大きくなってくる。 曹操の陣営から離れれば離れるほど……庶の母と別れたときのように。
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