「大丈夫でしょう。」 亮は言った。 「あちらには彼がいます。だから大丈夫です。」 劉備は何もいわない。だが亮は繰り返した。 ここはもう長坂の地。 報告を受けてからすぐに、何人かの武将に小隊を率いて、戦という嵐の過ぎた場所へ戻るように命令を発した。 今は待つしかない。 それは劉備もわかっていることだろう。 あえて言うことではないと亮はわかっていながらも、落ち着いた様子の劉備とは反対に、何か他に今からでも手を打てないかと考えてしまう。 「孔明殿、落ち着かれよ。」 劉備はすこし呆れたようにため息を吐き、微笑してみせた。 余裕すら感じさせるその笑みを、亮は信じられないもののように見返した。今まで何度も自分の妻を人質の危険にさらしているという事実からみても、その劉備の姿はあまりにも家族の情というものが見えない。 「彼のいう約束とは、彼の存在意義。だからけしてこちらを裏切ったりはしないと、孔明殿が言われたのだろう?」 劉備になだめられているということを亮は気付き、握り締めていた拳を開いた。 よほど力をいれていたのだろう。爪のあとがくっきりと残っている。 彼を……私は信じたはずだというのに。 亮はいつもと変わらないように見える劉備を見据えた。 劉備は最初、蔡家を裏切るという季邦を信じようとはしなかった。だが亮が熱心に勧めたために、劉備は季邦を今回の計画に組み込むことを了承した。純や均実たちを曹操に一時的に捕らわれることになる甘夫人の近くにおくことを条件に。 劉備も家族が捕まっているという点では自分と同じなのに、それほど取り乱していないのは、こんな状況に慣れているからだろうか。 本当の感情を示さない劉備の側にいるからか、自分の不安が誰よりも大きいような気がした。 存在意義を守るという彼の望みを自分たちに優位に働かせるために、関羽をわざと行軍から離し、夫人らの警備を趙雲一人に任せた。 人質として捕らえられそうになったとき、二人の武将がいれば奪還しようとやっきになるだろうが、一人ならばそれほど反抗もできないだろう。人質となるのならばあっさりなってもらったほうが、その後季邦によって脱出させる手筈は組んであるのだからより安全だったのだ。 実際には趙雲は一時的に夫人らのもとを離れていたため、彼はとらわれなかったらしいが。 大丈夫。 この状況を予想しての手もすでに打ってある。 それらの声に出さない独白も、自らの行動を見直すように幾度も行ったが、けして嘘ではない。 開いた掌から熱が逃げるのをこばむように、亮はもう一度拳を握った。 この手の中に守れる者は無限ではない。 代償もなしに守れる者もいるわけがない。 この状況での代償は…… 亮は今までけして崩さなかった表情を、苦痛にゆがめた。
均実殿はもう、私を憎んでいるころだろうか?
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