季邦は周りに気付かれないようあくびをした。 つまらない。 内陸にある荊州。長年戦禍を被ることがなかった、豊かなその地を治める州牧、劉表が住まう襄陽城。 季邦はここで、ありがたくもない、高い地位についている。 そう。劉表の臣下達が居並び、それぞれに政策についての協議をするこの場。周りを見渡しても、自分よりはるかに年上の者しかいない。 仕官した始めのころは、遠まわしに若すぎることを指摘されたり、冷眼視されたりした。今はもう、明らかにそれをする者はいないが、自分のことを好意的に思っている者もいないだろう。どう考えてもここにいる人間として、自分は異色だ。仕方がない。 この場で最も老いていて、疲労の陰の濃い人物――劉表は、季邦の協議への参加に対して否定的な態度をとったことは一度もない。それはある一つのことを決定づけていた。 州牧である劉表すら無視できないほどの蔡家の権力。自分はそれの象徴のように扱われているのだ。 本人の意思とは、関係なく…… 今、他の者を押しのけるかのように自分の兄である蔡瑁が、劉表に意見を述べている。礼を守っていないような、その横柄な態度が許されているのもその象徴の一つであるだろう。だが奏上している内容は、季邦の耳を右から左へと抜けていっていた。 認識する価値などないのだ……どうせ。 つまらない。 季邦はもう一度同じことを考え、頭の隅にあった思いを広げる。 友人であるアイツはどうしているのだろうか。 一緒に学んでいたころは楽しかった。けしてつまらなくはなかった。 ついこの前新野に行くという書簡を受け取ったが……。 北を曹操の領地に面するこの荊州で、新野の地はそれに対する防衛の要といえた。 そこには民衆からの支持も高い、皇叔である劉備がいる。 家のしがらみさえなければ、自分にも彼に仕官する考えがなかったわけではない。 自分にはない自由を持っている彼の友人を、季邦は心からうらやましがった。 遠くで高い鳥の声が聞こえる。 あの鳥は新野まで飛ぶことなど容易に違いない。 ああ、今日はいい天気だな。 「蔡封、お前の意見は?」 蔡瑁が聞いてきた。 ぼんやりしていたのを見咎められたのか。と思ったがそうではないらしい。 いつもと変わらないどこか小物の印象を与える皮肉そうな唇は、短く自分が言うべき言葉を音もなくつむいでいる。 この兄を季邦は好きになれない。 小さいころ遊んでもらった記憶も、勉強を教えてもらった記憶もまったくない。ただ自分は彼の駒として使われているような気がする。いや、使われている。 子供のころのことを思い出そうとすると、きまって季邦は母のことを考える。はっきり覚えていないのでかなり幼いころのことだろうが、熱か何かで寝込んでいたときに頭を撫でられた感覚は未だに鮮明だ。 ついで彼女の姿を思い出そうとしたが、うまくいかない。今にも消えてしまうのではないかと、彼女の姿はぼやけている。そういえば劉表に仕官してからは会っていない。 そのうち会いにいかないと…… 返答をせかすように蔡瑁が咳払いをしたので、季邦は小さく息を吐いた。渇いている口の中を湿らすように動かしてから、その言葉をつむぐ。 「異存ございません。」 意見を求められたわけではない。 同意しろ、という命令だった。 本当はもっと積極的な同意を望んでいたのだろう。不満げに鼻をならしてから兄は、再び劉表に向かってなにやら言い始めている。 つまらない。 この場所でやることは何もない。季邦は自分の口から率直なその言葉がでないように、努力するだけでよかったのだった。
「ちっげぇよ、こいつが先に」 「んだと。どこに目ぇつけてんだ、てめぇ!」 「うっせーやるかっ?」 「おお、上等だ。かかってこいやぁ。」 均実は呆れかえっていた。 唾を飛ばしながら相手をののしりあっているのは、どうやらここらへんでは名物の二人らしい。他の役人達は苦笑しながら相手にしていない。 けして彼らの口論が、手を出すまでに発展することはないのだという。 二人とも畑仕事で鍛えられたしっかりした体。だが一方は目が異様に大きく、他方は鼻が幅広かった。どちらも目を怒らせ、鼻の穴を広げ憤慨しているから仕方がないのかもしれない。 均実はちらっと手に持っていたGショックを見た。 目の前でこの二人の男が言い争いを始めてから、そろそろ二時間以上になるか。おさまりをみせずにいつまで経ってもわめき続けている。 当事者達がいきりたっているため、どうして諍いをしているのかを聞き出すのは困難だと判断して黙って聞いていたのだが…… つまりは道端で財布を落としたというのが事の発端だったようだった。拾ったのがでか鼻の男らしいが、それを返してもらったギョロ目の男が中身が足りないといいだしたのだ。 だがこれは本当にただの発端である。今ではその話題はまったく姿を現さない。次から次へと過去にあった事件を掘りかえしてはあれはお前が悪い、バカ言うなお前だろ、というのを繰り返している。 彼らは一週間に一度はここにきてこうやってしばらく争うと、気が済んで帰っていく。 放っておいてもいいのだが、凄い剣幕なためにいまひとつ彼らから離れる決心がつかない。本当に口をはさむ暇もないほどの迫力で、すぐにでも殴り合いが始まりそうだ。そうなればさすがに止めなくてはいけない。 だがセオリー通り、均実のGショックによるときっちり二時間半が過ぎたとき、どちらともなく謝った。 よく考えるとあれは俺が悪かった。いや何を言う、俺に失点があったのだ。いやいや…… そして仲良く帰っていった。 ……怒る気も失せるわ。 「お疲れ様です。」 悠円がそう言って均実の後ろで苦笑を浮かべていた。 ぐったりして机につっぷしながら、均実は手を挙げて答えた。 ここは新野。劉備が、劉表に任されている荊州北方の地。 『三顧の礼』が済み、隆中を出てからしばらく経ち、春も半ばを過ぎようとしている。ここに来た当初は引越しの片付けなどでゴタゴタしていたが、もうすっかり落ち着いている。 だから均実も働いていた。 「よくもつよなぁ。」 「あいつらの相手なんかお前以外、もう誰もやんねーぞ。」 「甘えられてんだろ。」 ようやく解放された均実をみて、同僚達が苦笑を含んで言った。 役所のような建物だが、規模は小さい。それほど人数もいないため、均実は数ヶ月の間に覚えられていた。 亮は劉備に望まれた仕官だったために劉備のすぐ側に控える参謀となったが、均実は自薦の人間に過ぎない。 よってとりあえず小さな役職についていた。警察のような仕事らしい。だが実際に荒々しい犯人追跡などをするわけではなく、そういうことをする人たちを統括する事務仕事だった。 奇妙なことだ。均実はもともと日本からやってきた、ただの女子高生だったのだから。 何年も必死に勉強したせいで、一応滞りなく仕事はできる。だがそれでも行き届かないところがあるので、悠円にもよく手伝ってもらっていた。 今も悠円は抱えていたいくつかの竹簡を、均実の机の横に優先順に並べてくれている。積み重なっているあれらは、今日処理する必要があるはずだ。 ……ちょっとためすぎたな。 「些事にまで関わっていると、体がもたないぞ?」 さきほどの二人にかかっていたために止まってしまっていたそれら、他の仕事にかかろうとする。だがその量にすこしゲンナリしていた均実のもとに、そう言いながら一人の男がやってきた。 年のころは均実とあまり変わらない。 それに誰かをよく彷彿とさせる、その笑み。 「徐康殿」 均実はその人物をそう読んだ。 彼は徐庶の弟、徐康。もともと徐庶とは仲が良かったのだが、ここに来て彼の弟と同じ役所に勤めることになり、初めて会った。 話は少し聞いていた。徐庶が潁川を出てから、ずっと家を守り、母を守っていたという。 そのせいかその年にしてはしっかりしているように見える。 「それ、すこしこっちにまわせ。 仕事をためると、こうやってツケを払わなきゃいけないってことをいい加減に覚えたらどうだ?」 そんなことを言いつつも、徐康はいつも手伝ってくれていた。 「あいつらもいい加減にすればいいのにな」 「安心してケンカできるのも、平和なしるべの一つだからいいんじゃない?」 「争いがないから争える、ということか。奇妙なしるべだな」 「う〜ん……確かに。」 どうでもいいことを話しつつ、手は確実に仕事をこなしている。 徐康の仕事は速い方だ。均実は時折悠円に話しかけたりしながらも、なんとかこなしていた。そうやってみるみるうちに積まれていた竹簡は処理されていく。 「ありがとう。」 なんとか終わり、均実がそういうと彼は気にした様子もなく帰っていった。 彼の仕事はとっくに終わっていたらしい。 その姿を見送っていると、均実に声がかけられた。 「そういえば均……」 「悠円。」 均実、と呼ぼうとした悠円の声を、均実は慌ててさえぎった。 おっと、と悠円は慌てて口を押さえた。 均実は自分を諸葛均と名乗っていた。亮の弟として、自分は新野で仕官しているのだ。普段の屋敷での生活と同じように、均実という名をここで呼ばれるのはまずい。 少し睨むように悠円をみると、口を押さえたままの悠円の姿が滑稽で、思わず笑いそうになったため、口元に手をやる。 そのときすこし硬い毛の感触が指にささり、均実は一瞬眉を動かした。 さすがに二十四になって、髭が生えていない男というのはおかしいと思って、付け髭をセロハンテープで作った。それを貼っているのだ。 感触は微妙に気持ち悪いが、まあ仕方がない。女であることを明かすつもりはないのだから。 「邦泉様。この後、行かれるのですよね?」 字で悠円が均実を呼びなおした。 ここに来てから、亮は与えられた屋敷に戻ることすらほとんどできず、ずっと劉備の屋敷に入り浸っていた。 しかし彼の妻であり、自分の親友である純が、今日出掛けに 「たまには帰ってきてって伝えて。」 と言っていたのだ。そして均実はその言葉を了承して屋敷をでた。 だからこの後は劉備の屋敷に行くつもりだと、悠円には言っていた。 「そうだね。さすがにそろそろ屋敷を空けすぎだろうし。」 純はもともとこの世界の人間で、黄綬。字は月英という。 養子にした喬と共に、均実も同居している屋敷で夫の留守を守っているが、さすがにずっと亮がいないのは寂しいのだろうし、不安なこともあるのだろう。 均実は日本の人間で、純はこの世界の人間。理解しきれないようなところもなくはないが、均実はできるだけ幼馴染である彼女の手助けはしてやるつもりだった。 ん?と思われるかもしれない。 だが二人は幼馴染というのは事実である。 均実が仕官しているということとともに、これは奇妙なことだといえるかもしれない。 だがその奇妙なことは突き詰めていくと原因は同じといえた。 『門』。日本とこの異なる世界をつなぐ唯一の手段こそ、それである。 子供のころ、純は『門』を通って日本にやってきて、均実と幼馴染になった。そして成長した純は、均実とともに『門』を通ってこちらの世界に帰ってきた。 純は現状で良いと考えている。だが均実は日本に帰ることを望んでいる。 純から『門』の話を聞き、均実は『門』というものが、歴史を変えないために開くのだと解釈した。 ならば日本に帰るために、歴史を変えてやろう。そのために軍師として名をはせる亮すらしのぐほどの出世してやる。 それがただの女子高生だった均実が、性別を偽ってまで仕官した理由だった。 そんなこんなで仕官を果たしたが、他の自薦の人間と比べて待遇はあまり変わらない。しかし均実には一つだけ優遇されていることがあった。 劉備と直接話すことができる。 簡単に均実の立場を説明すれば、新卒のペーペー社員。劉備はその会社の社長である。 優遇であるのは確かだった。 これは劉備と知り合いであるからでもあるが、亮がずっと彼の側にいるからということもある。仕事もあるため頻繁にというわけにはいかないが、いつでも訪ねてきてくれていいといわれていた。 『三顧の礼』を待って仕官をしたおかげだろう。 そんな均実でも新野に来てからは、前に亮自身に会ったのはいつだったか……ちょっと鮮明に思い出せない。 よほど屋敷に亮が帰っていないかわかるだろう。 まあ、今日は亮さんを連れ帰るだけのつもりだし…… 「先に帰ってくれてていいよ。」 均実は悠円にそう言って別れ、一人、劉備の屋敷へ向かった。
甘夫人はすこし不機嫌な顔をして、じっとりとした目で彼らを見ていた。 孔明という若者は、隆中からやってきてからずっと、劉備と話し込んでいた。 誰かが訪ねてきても大した用がないなら、今は話せないと追い返す。昨日も数人劉備に会いに来ていた。だがそれが有能だといわれる単福だろうが、劉封――以前の養子にした冦封――だろうが、やはり関係なかったようだ。皆、数刻も留まらずに退室している。 実をいうと彼らは追い返されたというか、あることを命じられたために慌てて出ていったのだが、甘夫人は知らなかった。 確かに事実だけみると、延々と二人が話し続けているようにしか見えない。 「ならばこちらのは」 「ああ。打診はすでにしてあります。先に礼をしておくほうがいいでしょう。」 「それなりの金品なら、先の分で十分ではないか?」 「では――」 こんな調子で二人の間での話題はつきることがないようだ。孔明が新野にきてから与えられた屋敷に帰れたのは数えるほどだろう。 それにしても……と甘夫人は思う。 次から次へと情勢についての情報が孔明の口からはでてくる。曹操、孫権らについてはもちろん、詳細に渡ってさまざまなことが流れるように。この若い男が、何故そこまで情勢に精通しているのか、薄気味悪い物を感じなくもない。 甘夫人は孔明というこの人物に、好感情を持っていなかった。 「――これでとりあえずは」 「そうだな。単福殿にも頼んだし、打つべき手は打った。 ……最悪の状態は避けられるだろう。」 疲れたように劉備はそう言った。そして額をつき合わせるように前かがみなっていた姿勢を伸ばすようにしてただした。 情勢への対応策。策を実行した場合の益と害。そして……具体的な行動。 それらを考えるために、彼らはほぼ不眠不休状態だった。二人ともあわせた様に大きく息を吐き、目の前の竹簡をまとめ始める。 視線を感じたのか、ふと劉備はその手を止めた。そして不機嫌な表情の中に、心配という文字が見てとれる甘夫人に微笑んだ。 「根を詰めすぎていると言いたいのか?」 「……おわかりでしたら、もうお休みになってください。」 苛立ちが声にでないようにするのは結構気を使った。昨日は先に休めと言われ、彼女はこの部屋から下がった。何日もそれが続いている。 必死でいろんなことを検討したり、論議したりしているのは知っているから、むげにやめさせることができなかった。 だがこんな無理をしていては、いつか体を壊してしまう。今だって少し目が赤い。 「孔明殿もお疲れでしょう。一旦、お帰りになってはいかが?」 甘夫人のその言葉に、孔明は柔らかく困ったように笑む。 その笑顔は魅力的なもので、屋敷の侍女数人が騒いでいるのを聞いたことがある。 だがそんなもの彼女には関係なかった。 「奥様も子供がまだ小さくては、夫が家を長く空けていると不安になりますよ。」 自分の子供は数ヶ月。最近首もすわってきたところだ。 初めての子供なのでいまいち勝手がわからないが、それでも乳母や侍女たちに支えられて何とかやっている。 一方、孔明が養子にとったという子供は、一応一人で歩けるほど大きいと聞いているが、子供は子供だ。彼の妻はこれまで育児の経験もなく、さぞや不安だろう。 それをまるで無視でもしているかのように働きつめている。 そのことだけでも、甘夫人は彼に対して良くない印象を持っていた。 「では玄徳殿、今日はここまでにしましょう。」 孔明がそういうと、劉備は引きとめようと手をあげかけた。が、甘夫人に睨まれ、それをやめる。 そして孔明のその礼に応じようとした。 「失礼します。」 そのとき、鈴が鳴るような声が部屋に響く。 劉備と孔明もそちらをみた。 一人の青年の姿が部屋の入り口にはある。 「おお、邦泉殿か。仕事は終わったのか?」 「はい。なんとか慣れてきました。」 劉備の言葉に均実は笑う。 自分の性別を劉備には話してあるし、事情もすべて知っている。劉備はそれを了解した上で、均実のことを諸葛均として扱い、仕官を受け入れた。 だから均実のことを邦泉と呼び、新しくやってきた参謀の弟として扱っている。 「とりあえず大きな問題はありません。」 孔明――亮はそう言った均実を微笑んで見ていた。 甘夫人はそれを見て、眉をひそめる。 彼は知らないようだが、均実は女だ。しかし男の格好をし、彼の弟として劉備に仕官している。 ……気に入らない。 甘夫人の結論はそれだった。 均実はお気に入りだった。何を着せても似合うし、着せ替え人形のようだ。 ま、それを均実があまり嬉しがっていないのにも気付いてはいるが、やめるつもりはない。 だが均実が男装していては、そう着せ替えて遊ぶこともできない。徽煉に再三、女として遊びにくるように彼女には何度も伝えさせているが、仕事が忙しいという返答を毎回返されていた。 女の格好をすれば、天女とうたわれるほど容貌を持っているというのに。 もったいない。 甘夫人はすこし腹をたてて均実を見た。 それに気付いたのか、均実がすこし首をすくめる。 「せっかく邦泉殿が来たのだ。もうすこし」 「殿!」 間髪いれない甘夫人の叱責に、今度は懲りない劉備が首をすくめた。 亮はそれに再び微笑んでから、均実の側に寄った。 自分がここにいては、劉備はいつまで経っても休まないに違いない。 「帰るところだったんだ。一緒に帰ろう。」 亮がそう囁き、礼をして部屋を出るのを均実は慌ててならった。
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