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均しきさだめ 作者:奇伊都

第19回   忘れていることが……あったのだ

 曹操に命じられた兵に均実が連れられていったのは、他の者たちがつかまっていた帷幕だった。入り口には数人の兵がいかつい顔をしてつっ立っている。
 中は小さくはないが、それでも広いとはいえない。肩を寄せ合って、人々は地面に座り込んでいた。
 そこで均実はようやく純と再会できた。
 純と、純と共にいた陽凛と悠円、そして甘夫人と徽煉。他にも知り合いではない人が数人で、総勢十人程度のなか……やはり徐康はいなかった。
 なめられているのか、荷物――均実や徽煉の薙刀すら、そこにあった。まあこの人数を守りながら逃げ出すのは、こんな武器だけでは確かに不可能だろうが。
「ここにいろ。」
 一人の兵士に押し出されるようにして皆の中に入った。その兵はもう仕事は終わったといわんばかりにさっさと帷幕の外にでた。
 それを見とめて純が駆け寄ってくる。悠円や陽凛もその後ろについていたし、甘夫人達もこちらを見ているのがわかった。
 付け髭がとれていたことにようやく気付いた。純にそこで指摘されたのだ。捕らえられた時に失ったのだろう。
 心配げに顔についていた泥を、純は払ってくれた。
「どこにいっていたの?」
 どこって……
 純の質問の答えは、大したことでないような気がするのに、説明する気はまったく起きない。口を開くのが酷く億劫だった。
「純ちゃんは……大丈夫?」
 無理矢理声をだすと、純は一瞬戸惑ったように黙ったが頷いた。
 それに安心した。
 均実は息を吐くと、自分が思っていたよりも全身が緊張していたことを知った。
 曹操の目は苦手だ。彼の前を去るとき、小走りになりそうになった。鋭さは針の如く、威圧するのは山の如く、あまりにも存在自体が自分にとって危険だと思った。
 本心を外にだすまいとすればするほど、暴かれる気がした。
 でもここは、大丈夫。
 周囲を見回し、皆心配げにこちらを見ているのをみて目を閉じた。
 ここには、暴く者はいない。
 先の質問に対しては何も答えない均実に、純はまた心配げに話しかけた。
「ヒト、これから私たちどうなるの?」
「……わからない」
 純の問の答えは、均実がようやく働き出した頭をフル回転してはじきだそうとしているものであり、まだ解はでていない。無軌道にいろんな方向へ飛んでいく考えを、なんとかまとめようとしていた。
 だから今は、何もわからないのと等しい。
 まとまってもいないような考えを、純に話しても仕方がないだろう。
 まだ何かを訊こうとしている純から目をそらし、周りを見ると一人、右足をかばうように押さえている老女が目に入った。
 捕まったときに負傷したのだろうか。
「……大丈夫ですか?」
 気遣って声をかけると、頷いた。
「お気遣いなく……もともと足が悪いもので。」
 なるほど……確かに目立った外傷のようなものはない。
 だが断続的に痛みが走るようで、時折眉間にしわをよせ、足に当てている手を強張らせる。話を聞くと、乗っていた軒から落ちた時に強く打ちつけたのだという。
 この様子ではきっと普通に歩くのも苦痛だろう。
「ここまで歩かれるのは大変だったでしょうに。」
 戦場から短くとも十分は歩かされた。
 片足をかばいながらでは、その疲労はかなりのもののはずだ。
 均実の気遣いに目を見張ってこちらを見ている老女は、ふっと表情を緩め
「ありがとうございます。」
 と礼を言った。
 すこし暖めでもしたら、マシになるだろうか。
 足をさすってみてもいいか、と聞くと老女は一瞬驚いたようだが受け入れてくれた。
 たっぷりと布地を使った衣服から考えて、彼女もただの老女ではないようだ。おそらくは劉備陣営の中でもそれなりの地位のある人間の家族だろう。その応対もどこか品を感じさせた。
 それでも年齢相応の張りがあるとはいえない足で、歩きはやはりこたえていたらしい。筋肉が膨らむようにして、老女の足をはらしていた。それをゆっくりと、彼女に苦痛をあたえないようにさする。
 百%善意とはいえない。何か、何でもいい、とにかく体を動かしていないといけないような強迫観念が、均実を動かしていた。
 誰とも口をきかずに、ただ老女の足をさすっているうちに、だいぶ考えもまとまってきた。
 均実も純も捕まっている今の状態は、けして良いものではない。だがそれほど悲観しなくてはいけない状態でもないのかもしれない。
 何かが起こる。
 均実はそう確信していた。
 曹操の話では自分はとにかく、純は間違いなく亮への人質となる。だがここで亮が曹操に投降するわけがない。『三国志演義』ではこれから、呉で孫権に曹操との戦の必要性を説くのだから。
 ならきっと純が人質として使われることはない。
 そして純がそうであるならば、この老女のように他にここにいる者たちもなんとかなるはずだ。
 だいたい劉備は人材を大事にしているのだ。まだまだ逃亡を続けなくてはいけないというのに、こんなところでその人材を失っていたのでは、けして三国のうちの一国などつくれない。
 逃げ出すチャンスは必ずくる。
 そんなことを考えて、均実は誰にも見えないように苦い笑みを浮かべた。
 これは『三国志演義』の内容からの推測だ。つまり均実が知っている歴史によって、自分達の安全は保証されている。
 皮肉、といえば確かにそうだ。歴史を変えたいと思っているのに、歴史通りになってもらわないと困るなんて。
 まるで庶が劉備に単福として仕官したときのようだ。
 しばらくそんなことを考えていると、小声で老女が言った。
「あちらの方はお友達なのでしょう?
 お話をされなくていいのですか?」
 均実がそれに対して老女の顔をみると、彼女はチラチラと純のほうをうかがっていた。
 老女は純との会話を聞いていたのだろう。確かに不自然なほど唐突に、自分は話を切り上げていた。
 でも純ならきっと、あれでわかってくれているはずだ。
「ええ。彼女は私の親友ですから。」
 話さないのは話したくないわけではなく、話す必要がないのだということを。
「親友ではなく、私のような赤の他人とは話すのに、ですか?
 奇妙な話ですね」
 なんだかホッとする。
 均実は足をさすっていた手の動きを、すこしゆっくりにした。
 懐かしいような、なんだか身近に感じられるような暖かさを、彼女の言葉から感じたのだ。
「しかし大事な人だからこそ、話さなければならないときもあるのですよ?」
 老女がそう言った時だった。
 話し声が聞こえてきた。
 誰かがこの帷幕を訪れたようだ。
 外で兵士と何か話している。
 それが別段特異なこととは感じなかった。
「では、人払いを頼む。」
 その声以外は。
 均実は老女の足にあてている手を止めた。息がゆっくりと肺に吸い込まれるのを感じられる。
 この……声は…………
 帷幕の外にいた兵士の気配が、いくつかの足音と共に消え去ったとき、均実は帷幕に入ってきたその人物をまじまじと見た。
 戦場にいたというのに、彼はまったく衣服が乱れていない。
 それどころかきちんとした身なりをしていて……
「季邦……お前がなんで」
 帷幕の中にいる人間を見回していた季邦は、均実のその声を聞きこちらを向いた。
 そしてすこし困ったように笑った。
「本当に女だったんだな。」
 奇妙な言い方だった。
 髭のない均実を見て、女だったということを驚くのならばわかる。だが季邦はまるで均実が女であることを、誰かに聞いてきたかのような言い方をした。
 劉備陣営でそのことを知っている人間が、季邦に教えるわけがない。
 そのとき理解した。
 曹操の陣営への情報漏洩が誰によりもたらされたのか。
「……蔡家の人間としての行動というのは、そのことだったのか。」
 曹操側と連絡を取り合っていたならば、均実の性別も知っていておかしくない。
 責めるつもりはなく、ただそれは確認だった。
 そして季邦は否定をしなかった。
 周囲の人間は、皆息をすることをやめてしまったかのように静かだった。ただどうしていいのかわからない、困惑を含んだ視線がいくつも感じられる。
 季邦はこちらに近づいてくるが、彼から逃げようとは思えず、均実はやはりただその姿をみていた。
 老女の横に座り込んでいた均実の前で、季邦は立ち止まる。すこし暗い顔をしてこちらを見下ろした。
「俺は蔡家の命で、皇叔のもとで行うべき任務があった。」
 今までいくら言っても教えてはくれなかったそれを、季邦は淡々と明かした。
 彼の任務はやはり新野の、劉備の勢力の詳細を蔡家に漏らすことだった。劉備が逃亡してからは、そのルート。また行軍の構成。それらを追撃してくる曹操軍に内通することに移行したという。方法は簡単だ。劉備は民を連れ歩き、望むものは際限なく隊列に組み込んでいたのだから、情報を渡す連絡係は簡単に季邦と接触できた。
 亮は劉が曹操につくだろうことはわかっていた。そして蔡家も曹操が南下してくれば、劉備が逃げるのをわかっていたのだ。
 蔡家は次に荊州を支配する曹操に恩を売るべく、季邦を遣わし情報を得ようとした。そして……
「有益な人質となるような者がいるところを、追撃してくる曹操軍に知らせもした。」
 均実の目の前から姿を消し、彼女らの居場所の情報を手に、曹操のところへと走ったのだという。
 ……そんな説明、どうでもいい。
 均実は顔をしかめる。
 また息苦しさが戻ってきた。
 そんな真実など知らなくて良かった。結局曹操に捕らわれている事実は変わらない。季邦だってわざわざ知らせにくる必要なんて……
 均実は無理矢理息を吸い込んだ。
 そう必要なんてない。
 裏切ったのだというのなら、裏切ったままにしておいたらいい。
 何のために……
「何を、言いにきたんだ?」
 なんとか発したその問いに答えたのは、
「……俺たちは友人だよな?」
 すがるかのような声だった。
 脈絡の見えないその問いかけに、均実は即座に答えを返さず黙って続きを促した。
 立ったままの季邦は、均実を見下ろしているのに、どこにも高圧的な態度はなく、それどころか今、均実が裏切りを知った怒りで会話を打ち切ってしまえば、土下座でも何でもして謝ってきそうだった。
 それほどまでに彼は……必死に見えた。
「俺はお前がうらやましかった。
 しがらみもなく、自らのやるべきことをまっすぐにみつめているお前が。」
 季邦は均実から目をそらさずにそう言う。
 書簡が届くたびにうらやましさが募っていた。自らの境遇を不幸だとは思わないが、だからといって翼のある鳥の自由がうらやましくないわけではない。
 どこへでも好きなところに飛んでいける。
 誰にでも、好きなところへ仕官できる。
 具体的にそれが何なのか聞いたことはなかったが、均実にはいつも何か目標を持っているような強さがあった。
 それがなく、そしてそれができない自分にとって、その姿はうらやましく……
「だが不思議と妬んだことはない。」
 それが本当に不思議だった。
 妬んでもおかしくないと自分でも思った。
 いっそ妬んでしまえば楽だったのかもしれない。
 翼がないことを諦めてしまえるから。自由な空を飛ぶ夢を見なくてもいいから。
 しかし妬まなかった。
 季邦はぎこちなく口の端をあげた。せめてそんな自分でもより良く見えるように。
 それが何故かといわれれば、理由は一つしかない。
「お前は俺の友人だから。だから……」
 声は情けないほどに弱弱しい。
「俺はお前の友人か?」
 均実はその問いに突き放すことも、拒絶することもできた。
 季邦の行動が自分への裏切りであるのは確かなのだから。
「……当たり前なことを、何度も言わせないでくれないかな。」
 だが、約束があった。
「季邦は私の友人だ。」
 均実ははっきりと頷く。
 この世界の友人。共に学び、笑い合った。
 それはけして幻ではないはずだ。
 季邦は微笑み、そしてより真剣な顔をした。
 それに均実は、友人であるという約束をしたときを思い出す。
 どこか……悲痛な光の宿ったその瞳は……
「逃げろ。俺はお前を逃がすために来た。」
 さすがにその申し入れには驚いた。
「……逃がして、くれるのか?」
 思わずうわずる均実の言葉に、季邦は頷いた。
「お前は約束を守ってくれたからな。」
「季邦」
 驚きでどうしたらいいのかわからない。
 しかしやはり逃亡のチャンスが訪れたのは確かだ。
 だが頭のなかに生まれた小さな引っ掛かりが、何かを警告する。ぐるぐるぐるぐる、絡まりながら渦巻いている。
 ……何だろう? 大切なことを忘れている気がする。
 説明のできない不安。それがひどく大きい。
「っ」
 均実は胸を押さえる。
 痛い。
 覚えがあるそれを、無視することはできなかった。
 これは不安ではなく恐怖?
 一体何に対しての……?
 そんな均実をおいて、彼は他の捕虜になっていた人達に声をかける。
「お前たちも逃げるなら今だ。ついでに逃がしてやれる。
 ここにいては曹操に利用されるだけだ。
 早く行かないと、皇叔にも追いつけなくなるぞ。」
 事情を知らない者は、季邦が味方か敵か判断がつかない。だが促され、彼らは反論もせず従う。季邦の言うことが真実であれば儲けもの、虚言であっても捕虜であるという事実は変わらないのだから。純たちも均実のことを気にしながら外にでていく。
 だがその中で一人、動こうとしない人がいた。
 さっきの老女だ。
 混乱のおさまらない頭で、彼女を置いていくわけにはいかないと均実は思った。座り込んだままの彼女の腕をとり、ゆっくり引き上げようとする。
「一緒に行きましょう。」
「……私には無理よ。この足ではね。」
 穏やかな笑みで、きっぱりと首を横に振り、彼女はそう言った。
 確かにこの足で逃げ出すのは足手まといになる。
 だからといって彼女をここに置いていくということはできない。純が亮に対してそうであるように、彼女もきっと劉備陣営の有力な人物に対する人質になりえる人に違いない。そんな人物を曹操の下においておくことなど……
 だけど――
 均実は顔が強張る。
 私は今、何を考えた?
「あなたはお行きなさい。」
 均実の困惑に気付かず、しっかりした声で老女はそう告げた。
 しかし均実はつかんだ老女の腕を離せない。しかしそこに意思はなかった。自分の手首から先が硬直しているように感じられる。
 連れて行かなくてはと思っているのも本当だ。でも……
 彼女をここに置いていけば、歴史は変わるんじゃないか?
 置いていけば劉備の配下の、おそらくは有力な者が彼女によって曹操に奪われる。
 悪魔の声の魅力的な提案。
 歴史が変わりそうになれば、日本に帰る『門』が開く。
 純はもう外にでている。この場に『門』があるかを均実が知る術はない。
 相反する考えが頭の中で争っている。
 連れて行け。彼女をここに置いてはいけない。
 置いて行け。『門』を開きたくないのか――日本に帰りたくないのか?
「邦泉、急がないと見張りの兵が戻ってくる……その方は?」
 均実がなかなか外にでないので、いつの間にか季邦が戻ってきた。
 老女と均実を険しい表情で見比べる。
「どうか私をおいていってくださいませ。」
 はっきりとした、その強い意思。
 季邦もうろたえたようで、小さくあえぐような声をだした。
「しかし……」
「あなた様がどなたかは存じませんが、あなた様が逃がしたいのは、私ではなく彼女でしょう? 私を無理に連れて行けば、それすらも叶わなくなりますよ?」
 冷静に諭すような老女の言葉に、季邦は逡巡したが了解し、一度だけ頭をさげた。
 季邦が老女を置いていくことを決断したことに、均実は呆然としていた。そして今度は均実が二の腕を季邦につかまれた。強引に引きずられるようにして外へ向かおうとしている。いくら歳はこちらのほうがすこし上だといっても季邦は男だ。抗いようがない。
 置いて……いく、の?
 私はこの人を……見捨てるの?
 ダメ……ダメだ。
 彼女を置いていくことは、大きな損失のように思える。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。
 しかし意思と反して老女の腕をつかんでいた指が、ぎこちなく開かれる。自分の指ではないようなほど機械ばった動きに思える。
 手が……離れた。
 自由になった老女は優しく微笑んだ。その笑顔が誰かによく似ているような気がして、余計その警鐘は大きくなる。
 均実はつんのめりそうになりながら、一人残ろうとしている老女から視線だけが離せなかった。
 外に自分だけを連れ出そうとしている季邦の力に抗うべきだと思っているのに……力が入らない。
 他の者はすでに外に出ている。彼らを、甘夫人を、純を、ここに留めておくわけにはいかない。一刻も早く逃げ出さなくてはいけない。
 ………………だけどっ!
「ただ置いていくのが苦痛だというのならば、伝えてください。」
 老女の言葉に、均実は目を見開く。
「庶に、私に惑わされるなと。今のまま、自慢のできる息子であろうとせよと。」
「邦泉、行くぞ。」
 一層強く引かれ、帷幕からだされた。
 そう、彼女は……
 何度も振り返りながら、均実はようやく理解した。
 曹操までもが名前を挙げた、劉備の有能な参謀の……
 徐庶の、母だ。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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