曹操は報告を受け、示された場所に向かった。 すでに何人もの武将がそろっている。劉備の軍を襲ってから、それほど時間は経っていないが、大半がもう帰還している。 それらによって作られた円のうちに、曹丕が一人堂々と立ち、座らされている人物の横で曹操を待っていた。それをみて、曹操は笑みを浮かべた。 「久しぶりだな、邦泉殿。」 うなだれるように首を折っていた均実が、ゆっくりと顔をあげた。 それを見て曹操は笑みを皮肉げなものに変えた。 曹操の風貌はあまり変わっていない。すこし痩せたかのように思えるが、それでも射抜くような鋭い目つきは全く変わっていなかった。 その目つきを以前均実は恐れたはずだ。だが今はまっすぐと目をそらすことなく、こちらを見ていた。 これは…… その変化に曹操は驚いていた。 さっと彼女の正面に動き、頭から足まで眺めた。 「男装をされているが、何故かな?」 「……皆はどうなったのですか?」 質問に答えなかったことを不敬だと騒いだ奴が数人いた。だが凍ったままの表情で均実がそれを見回すと、その騒ぎもおさまった。顔に泥がついていたり、衣も乱れていたりするが、その風貌に皆が黙らされたのだ。 かつて許都中を巻き込んだ噂の持ち主。さすが、と言いたいところだが。 曹操はその反応を見渡して、すこし息を吐いた。 周囲の将達は均実に見惚れているというよりも、まるで凍ってしまったかのように顔が強張っていた。 美しくないわけではない。だが…… 片膝をつき、目線を座り込んだままの均実に合わせる。 「……会わぬうちに様変わりされたようだな。 以前は涼風を運ぶ水のようなところがあった。だが今は……」 「私と共に捕らわれた者がいるはずです。どうされたのですか?」 言葉の終わりを待たずに、均実は苛立ったような声をあげた。 曹操はじろじろと均実の顔をみてから、その目を余計険しくした。 より美しくなったとは思う。化粧で誤魔化していた幼さは抜け落ちている。だがその美しさが隠されるほどの冷たさが周囲に漂っていた。 そしてその冷たさには心当たりがある。 「氷のようだな。」 曹操の観察する目がやわらぐことはなかったが、 「皆をどうされたか……お答えください。」 均実が焦っているのが伝わってくるほど、切迫した声で問いが繰り返された。 それが今一番彼女の求めている情報なのだろう。 曹操の言葉にまったく興味をもたず、均実は曹操を睨み返した。 どこまでも問いの答えを求める、その頑ななまでのその態度に、曹操は均実から目をそらし、肩を鳴らすようにして周囲を見回した。 戦場で彼女のような冷たさを感じさせる反応を持つ者を、曹操は何人か知っている。 極めて事務的に、必要だと認識できた問題だけをひたすら解決しようとする。応用が利かず、妄信的にただ一つだけを思いつめる。 目の前で生まれた死から目をそらすように。 恐ろしがるほうがまだマシだ。怯えるほうがまだ良いだろう。 恐怖というのは現実から目をそらしていないからこそ起こるのだから。 だが……と再び曹操は均実をその鋭い目を見つめた。 やはり恐れる様子もない。 均実のこの反応は戦場に最も向かない人種のものだった。 感じていたはずの恐怖を、感じようとしていない。 それは受け入れていたはずの現実を、受け入れていないということだった。 良い悪いは別に、変化は常に起こる。良将とされる者は変化から活路をみいだそうとする。 だがその変化を受け入れないということは、つまり刻々と変わる戦況の中で最初に自滅するタイプなのだ。 もし曹丕が均実を見つけ、部下を止めなければ今頃彼女は死んでいただろう。 不可侵の氷の結界。北方のさらに北方に広がる永久凍土。 それを思わせる、今の均実は。 そして均実の氷はやるべきことはやっているという大義名分がたつだけに、堅固な盾であり、そして自らもそのことに気付けないほど自然なものだった。 だが全てから自らを守ろうとしているということは、全てから逃げようとしていると同義だ。 曹操は均実が死ぬには、あまりにもつまらない理由だと思った。 しかしこの氷のままでは、それも遅からず実現する未来だろう。 美しく、聡明で、優しく、どこか奇妙で、暖かかった彼女。氷となったこれを溶かすものなど……存在するのだろうか。 すくなくとも、自分には無理だ。 そんな考えを持ってから、曹操はようやく均実の問いに答えてやる気になった。 「将の家族をどうするか。戦では当たり前のことだ。」 「……人質とされると?」 「まさに。」 より凍る。 何も表情は変わらなかったのに、また何かが一つ凍った気がする。 なるほどな…… 均実の堅い表情に、曹操は納得する。 曹丕が怪訝そうな顔をしてこちらを見ているのはわかった。 だが曹操は、まるで均実を凍らせることを楽しむかのように言葉を続けることにした。 凍てつけばよいのだ。凍てつけるところまで、凍てつけばよい。 氷の結末は、溶けるだけではないのだから。 「例えば劉備のもとには、単福という有能な参謀がいると聞いている。本当の名を徐庶というのだろう。 この前こちらの軍を破ってくれたのは、その者とはまた違う新しい参謀らしいな。 その他にも武将でいえば趙雲やら関羽やらと、何故か劉備は人によく慕われる。 それらが脅威だといえばそうだ。」 もう調べはついているということを、けして驕らずに淡々と明かす。 「そんな劉備の下につく有能な者を減らすことは有益だろう。」 「……ならば私は殺されるのですね。」 状況がわかり、彼女の心が再び閉ざされたのがわかった。 相変わらず頭の回転は速い。いや前よりも、もっと速くなった。 均実はこう認識したに違いない。 曹操達は……敵だ。それも彼女にとって最悪の。 だがその認識は間違っている。 「何故?」 その理由をわかっていながら、曹操はわざと訊いた。 「私を人質としても、得る者はありません。私の存在は邪魔にこそなれ、有益ではないでしょう?」 もし曹操が亮を得たいのならば、純を人質にすればいい。 自分に価値がなく、殺されるのが当たり前だと理解できると、均実はどこか落ち着いてきていた。 死を望んでいるわけではない。 死にたくなどない。 だが目の前で徐康の命があっけなく失われた今、命というものが思っていたよりも軽いもののように思えていた。 人は簡単に死ぬ。 今の今まで話していた存在だとしても、数秒後にはわからない。 自分だってさっきの戦場で死んでいてもおかしくなかった。 生と死の垣根はそれほどまでに低く感じられた。だからあえてその垣根の側に自分がいることを認識したとしても、騒ぎたてたいと思えなかった。 だが均実の言葉への答えは、笑みが含まれていた。 「いるだろう。」 曹操は笑っていた。 見つけたのだ。 溶けない氷へ無理矢理にでも変化を受けとめさせる方法を。 「もしかすると、劉備の奥方と並ぶほど重要な人質となるかもしれん。」 均実は眉をしかめた。 自分はもともとこの世界の人間ではない。 家族など……ここにはいない。 劉備陣営にとって重要な人物の弱点になるような存在では…… 「美髯公だ」 「……雲長殿が?」 いつまでも要領を得ない均実にはその意味も理解できないらしい。 黙っていてやる義務はない。 むしろ教えてやるべきだ。 その反応はどのようなものになるか。 「いまだに彼の心を知らぬようだな。」 より凍るだろうか? それとも――? 「雲長殿が邦泉殿を愛しているのは、誰もが知っていたことだ。」
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