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均しきさだめ 作者:奇伊都

第17回   再会と捕縛

 徐康を助けることは、できなかった。
 それだけでも呆然としそうになった。
 だが現実が呆然とするわけではない。均実は自分を叱咤する。
 やるべきことを、やらなくては。
 馬が走り回る。
「抵抗せぬものは殺すなっ。捕らえるんだっ!」
 この辺りにいる兵たちの隊長だろう。上背のある後姿が、疾走する馬の上でせわしなく弾んでいる。
「ここらにいる者は使い様がある。身なりのいい者はけして傷つけるなっ!」
 均実は自分の後ろにいる純をみた。そしてすぐ横の軒にも目をむける。
 ただ行軍に従った民に使いようがあるか……いや、ない。
 ならば将の家族を捕らえようとしているということか?
 確かにそれは可能かもしれない。本来なら、そういった者は固まって行軍していたはずだから。
 だが……だが自分達は立ち止まっていたためにここにいるが、それに該当する人間のほとんどは、もうかなり先にいっているはずだ。
 しかしこの隊長らしき男は、確信をもって指示しているようだ。
 確信を持っている?
 ……ここにいる者がそうだと情報を流した者がいる?
 混乱する頭が思考をそこまで進めると、ふいに頭の隅が冷えてくるのを感じた。
 高く低く、叫びや呻きが耳にはいる。阿鼻叫喚の地獄絵図。
 そんな世界がはっきりと見えるようになってきた。砂埃はひどいが一陣の風がそれを巻き上げ、晴らしたらしい。
 その光景を均実は一瞬見覚えがあるように思えた。
 だがそんな感覚を一掃するかのように、激しい嫌悪感が沸き起こる。
 世界の果てまで見えるような気がした……がその惨状は見るに耐えないものだった。
 視覚が与えられていることを、嗅覚が与えられていることを、後悔するほどの光景。真っ二つに裂けた肉片、光を宿さない瞳、息苦しくなる砂埃には砂の粒一つ一つに血臭がまとわりついている。鉄臭く、土臭い。鼻の奥で何かがひっかかっているような気がした。
 吐き気が喉元までこみあげてきて、思わず均実は飲み込むように口で息を吸った。
「ヒト……」
 不安そうな声がする。
 自分を呼ぶその声を、均実は自失した状態で聞いた。
 ああ……純ちゃんを即座に軒にいれて正解だった。
 こんな光景、見ないほうがいい。
 だがそんな考えが驚愕とともに変化し、まさか、という思いだけが頭に広がった。
 前方のある地点から、綺麗切り離したように人の固まりが離れていく。前のほうにいる、紅い一群は兵のはずだ。
 兵は今、襲われている人々を助けずに前進している。
 民を……見捨てていく。
 何故、何故、どうして……?
 思考は澄んでいる。澄んで、澄みすぎていて……冷える、冷える、冷えて、凍る。
 表情が、感情が……涙が、凍る。
 頭の中すら凍りついたようになり、思考が止まった。
 結論を出すことを拒むように。
 純を……守らなくてはいけない。
 均実の頭に残ったのはそれだけだった。
 目の前で趙雲の部下達が戦っている。だが多勢に無勢。あたりにはすでに濃い血の匂いが漂っている。
 次から次へと人間から肉片へと変わる目の前の光景。
 軒に入っている純や甘夫人には見えないだろうが、均実の目の前でそれは行われていた。
 目の前に霧がかかっていく……
 ここには死が溢れていた。
「その軒にのっているのはナニもんだっ?」
 純の軒を守るようにして立っている均実に、一人怒鳴るように声をかけた男がいた。
 兵だろう。胴体を守る鎧に、抜き身の剣を携えている。だが劉備の兵の赤褐色や赤銅色のような鎧とは異なり、どちらかといえば黄土色が全体の印象としては目に残る鎧。その姿は先ほどからあたりを馬で走り回っている兵たちとおなじものだ。
 魏の兵。
 働かない頭でようやくそう認識した均実を、その兵は薄気味悪そうな目で見た。
 じっと睨むわけでもなく、おびえるわけでもなく、観察するように見てくる均実が自分の問いに答えないことに対して苛立ち、その口からは命令が発せられた。
「乗ってる奴、下りろ。」
 その声に純は軒の中で顔を強張らせた。腕のなかにいる喬をより強く抱きしめる。
 抗おうとしたわけではない。体が恐怖で動かないのだ。
「早くしろっ」
 どうしようが敵うようには思えない、屈強な男が、無遠慮に軒から純を引きずり出そうと近づいてきている。抗うことはこの状況では……
 だが男が乱暴な足取りで軒のすぐ前まできたとき、ふいに均実の体が動いた。
 薙刀を男と軒との間に差し込み、均実はその柄で思いっきり彼を弾き飛ばしたのだ。
「均実っ!」
 徽煉の声だろうか。鋭い声が耳を打ったことしか均実はわからなかった。
 だがそれが何だというのか。
 守らなくては
 守らなくては
 守らなくては
 その思考にのみ囚われている今の均実には、外の刺激への反応があまりにも緩慢だった。
 気持ちが悪いような気がする。激しく嘔吐感が沸きあがっている……のかもしれない。断言はできない。それほど、それらの感情は薄かった。ただ……
 守らなくては、純を――
 それを訴える声だけが強く頭の中で響く。
 弾き飛ばされた男は衝撃で尻もちをつき、均実を呆けるようにして見た。それまで抵抗のそぶりすら見せなかった者が、瞬時に何をしたのか理解できなかったようだ。だが周りにいた彼の仲間は何をしたのかしっかり見ている。
 そしてそれを許さなかった。
「こいつ!」
「はむかう気か。」
 何を彼らが言っているのか、やはり均実にはよくわからない。
 背後で純の声がした気がするが、内容すら認識できない。
 ただ威嚇するために薙刀を構えていた。そして彼らの動きだけが、脳に事務的にインプットされ、白刃が踊り、金属のあわさる甲高い音が響く。
 全てが遠く小さい。顔の筋肉が奇妙な形にひきつっている。それはまるで笑っているように見え、余計兵たちはいきりたった。
 だが均実は、自分が戦っている、薙刀を振るっている。そのこと自体、認識できていなかった。たとえ認識できていたとしても、それは……無謀な行為に違いなかった。
 均実は実戦を経験したことなどない。
 振るう薙刀も無意識にだんだん切先が落ちてくる。手に馴染んだそれの重さは感じないのに、振るえば振るうだけ理解するという作業ができなくなっていった。
 どれほどの間、そうしていたか。もしかすると、たった数回打ち合ったあとかもしれないし、数時間薙刀を振るい続けていたのかもしれない。
 突然、足をすくわれた。
「っ」
 顔が地でこすれた。倒れたのだとわかったのは、目の前に誰かの足があったから。
 体が強張っている。上手く自分の体を動かせるような気はしなかったが、反射的にぐっと顔を持ち上げた。
 すると目の前に剣が光っていた。その光は……赤い。
「手こずらせやがって……」
 さきほど純を軒からひきずりだそうとした男が、忌々しそうにこちらを見ている。
 不思議と恐怖がなかった。
 殺されるということが頭になかった。
 ただ赤い血がその剣を伝って地面にしたたり落ちる。
 ああ……この剣は誰かの命を摘み取ったものなんだ。
 均実はどこかうまく動かない頭でそう考えた。
 だがその命に自分が加わる。その実感はわかなかった。
 男はどこまでも冷めたような目で剣を見つめている均実を薄気味悪く思ったのか、再び声を荒げようとした。
「覚悟し」
「やめろ!」
 一際響く声が、感覚の麻痺した状態である均実の耳にも届いた。
 目の前にあった剣がひかれる。剣の持ち主を見上げると、慌てて拱手をしていた。
 徽煉も驚愕のあまり、目を見開いて小さく呻いた。
 どちらの視線の先にも一人の馬があった。よくよく見ると驚きの表情をした男が、その馬に乗りこちらを見下ろしていた。
 さきほど抵抗をしない者を殺すなと声をあげながら、この近くを通り過ぎた隊長だ。
 均実はぼんやりと思った。
 この人は純を害さない。
 構えかけていた薙刀を地面に下ろした。
 純を守れるなら……彼女に戦う必要などなかったのだ。
 蹄を鳴らし、馬を近くによせたその隊長は、しばらく黙っていた。
「あなたは……」
 ようやく信じられないというように、驚きに満ちた呟きがその男から漏れた。均実は顔から何かが落ちた感触がしたが、それにかまわず声の主を見上げる。
 曹操……?
 声にはならなかったが、一瞬均実はそう思った。
 記憶にある曹操の姿が目の前に……違う、曹操じゃない。
 曹操より若い。
「邦泉殿」
 熱のこめられた声で、こう呼ばれたのは初めてではない。
 凍りついた頭が、ようやく彼を認識した。
「子桓、殿」
 曹操の息子、曹丕。
 彼は均実の記憶より背も伸び、顔も大人びていた。
 均実に自らの字を呼ばれ、一瞬うろたえたような顔をしたが、曹丕はすぐに表情をひきしめた。
「……他の者は確保。この者だけ別にして連れてこい。」
 曹丕はまわりにいた兵に指示した。
「ヒト!」
 切実に自分の名を呼ぶ声がする。
 均実はきつく腕をとられた。抵抗しようとしたが、力が入らないような向きでとらえられているし、首もとには冷たい感触がある。
 見えないが、おそらく刃物が押し当てられているに違いない。
「抵抗はされませんように。」
 均実の腕を掴んでいる兵が、そう落ち着いた声で言った。さきほど均実と戦った兵とは階級が違う。腕前も……。
 だが均実は首に傷ができるのも構わず、純の声が聞こえたほうを振り返る。
 彼女は自分のように拘束はされていないが、軒から下ろされていた。周囲の光景に吐き気を覚えたのか、口元を押さえているのが目に入った。
 守れなかった。彼女を、この光景からは。
 そう思った瞬間、肩にこめられていた力がぬけた。
 目端に徽煉がゆっくりと甘夫人の手をとって軒から下ろすのがみえた。
 周囲は敵ばかり。
 抵抗は無意味と、徽煉は判断したに違いない。
 その判断に従ってより不必要な力を抜くと、北に向かって引きずられるかのようにして、均実は歩かされた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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