現在の軍の構成はというと、軍とはいい難いものがある。 兵は数千。関羽に半数を分けたためにもともと多くないものが、余計少なくなっている。これに民衆、つまり非戦闘員が十数万。前方に兵は固められていて、その後に劉備たち将の家族、それからついてくることを望んだ民達が続いている。 均実はその将の家族達に分類されるところにいた。 亮の妻である純を守れと言われているのだから当然だろう。数人の家人――悠円や陽凛たちも側にいる。 その純の軒のすぐ側に甘夫人の軒もあった。その軒には劉備の子である劉禅も乗っているらしい。それの警護に趙雲があたっているため、一応少数の兵もいる。兵たちは皆赤っぽい胴垂れや胸当てをしている。前方の兵たちのほうもなんとなく赤が目に付くから、この色が劉備の陣営の象徴なのだろう。 均実つながりか、それとも亮つながりか。いつの間にか甘夫人は純と仲良くなったようだ。この行軍中も彼女達が時折話をしているのを均実は知っている。年は違うが子供がいるということで、互いに共感するところがあるのかもしれない。 均実はその話に参加したいとは思わないのでしていないが、徐康が近くにいたので彼と話すことは度々あった。彼の母がここの近くにいるらしい。 亮や庶はさすがにもっと前方、もしかすると劉備と共にいるのだろうが、そんなこんなで気がつけば、あたりは知り合いだらけだった。 なにげに私って知り合い多かったんだなぁ。 と考えていると、 「おまっ殺されてぇか!」 「っざけんな、この根性無しがっ」 「それはてめぇだろっ」 ……ああ、なんか聞き覚えのある口げんか。 均実は思わず苦笑した。 歩き続けのこの状況下で、けんかする元気のあるやつも珍しい。いやこの状況だからこそ苛立っているのか。 あたりを見回すと、声の発信場所は結構遠い。馬に乗って視線が高くなければ、みつからなかっただろう。 そこにいたのは、やはりあのでか鼻とギョロ目だった。 「趙将軍っ、手を貸して下さい!」 なんとかおさめようとしていた兵の一人が、悲痛な声で趙雲に助けを求めてきた。 見慣れていないと、あの二人の争いは口だけだというのに激しい。その上何人たりとも、どうやろうが止めることはできない。いつか手が出るのではないかと、均実も最初は気が気でなかった。が、 ほっとけばいいのに……。そしたらそのうち終わるし。 悟っている均実のそんな考えなど知るわけもなく、趙雲は顔をしかめて甘夫人にことわると、二人の場所に駆けていった。 そしてやはりというか、何というか、聞こえてくる罵声は一向におさまらない。 どうでもいいか。 均実がその事件から目をそらすと、今度は横にいる季邦があたりをキョロキョロと見回しているのが目にはいった。 「どうかした?」 「……ちょっと、はばかり。」 ただトイレがしたかっただけらしい。 手綱を操り馬の向きを変えると、季邦は均実から離れる。 「すぐ追いつくから待ってなくていいぞ。」 「迷子になるなよぉ」 「なるかっ!」 軽口を叩きつつ、季邦の姿があっという間に見えなくなった。 彼の乗馬はなかなか上手い。巧みな手綱さばきは、不器用な均実にはまねできないものだった。コツを教えてくれと頼んでみたこともあるが、やはりあそこまで上手くはならなかった。 季邦の馬の蹄の音が遠ざかると、逆に近づいてくる音があった。均実がそちらに顔を向けると、徐康がいた。 「襄陽を出てから、人が増えたせいか余計に行軍が遅くなったような気がしないか?」 そうだろうか? 徐康のその言葉はただの杞憂であるようにも思えた。 均実は周囲をみる。最初から人は多かったので、増えたといわれても実感がわかない。しかし人が増えれば列も伸びる。進んでいないように思えても仕方がないだろう。 「ここはどこらへんになるのかな?」 横手に小さな村のような集落がある。だが進行方向からして、寄る予定はないのだろう。 徐康もその村をみた。 「当陽だな。」 「ああ、じゃあもうす……」 「ぎゃ〜〜、あ〜〜!」 もうすぐ長坂、という均実の言葉にかぶるように独特な破壊的音楽が聞こえてきた。どうやら劉禅が泣いているようだ。赤子にはこの強行軍は確かに辛いかもしれない。こういうことは度々あった。 舗装もされていないような道で、軒に乗っていると伝わってくる振動。それに酔ってしまうらしい。 甘夫人の軒が止まる。 純の軒も止まったので均実も、そして付き合うように徐康も歩みを止めた。 「赤ん坊って元気だなぁ。」 「周りは大変だがな。」 苦笑しながら彼女たちの軒を見た。劉禅は酷いかんしゃくを起こしたようだ。純が自分の軒を降り、喬とともに甘夫人の軒を訪ねている。きっと甘夫人と一緒になって、劉禅をあやしているのだろう。 それでもなかなか泣き止まないので、すぐ横をどんどん人が追い抜かしていく。趙雲の姿もいつの間にか無い。列を乱すのは不本意だが、この場合仕方がないだろう。 喉がいい加減かれるのではないかと思えるほど、劉禅の泣き声は続いた。 歩いていく人は皆一様に疲れた顔をして、一瞬その泣き声の聞こえてくる軒を見るが、興味なさげに目線をそらす。 そのうち泣き止むだろう。 均実は彼らと同じくそんなふうに思っていた。 「邦泉殿は孔明殿の本当の弟じゃないんだよな?」 そのとき突然徐康が均実にそう訊いた。均実は一瞬驚いたが、周りがこちらの話を聞いていないのを確認して頷いた。 まあ彼もそれを確認してから訊いたのだろうが…… 「どうして?」 今更、といった感じだ。 均実が弟どころか男ですらないことを、彼はすでに知っているはずだ。 「新野での宴、抜け出した孔明殿と話していただろう?」 「聞いて……?」 「孔明殿が宴の席を立ったのが見えたから、後をつけたんだ。何となく話しかけそびれて隠れていると、邦泉殿がきた。」 全然気付かなかった。 均実は驚きつつ、徐康の顔を見返した。 「結果的に盗み聞きをすることになったのは謝る。」 「はぁ……まぁ別に大した話をしていたわけではないからいいけど。」 記憶をたどってみたが、それほどおかしなことを言ってはいなかったと思う。 だが徐康は顔をどこか苦くしかめて、再び口を開いた。 「聞きたいのだが……」 彼はこう続けた。 「孔明殿を兄として見ているか?」 「は?」 質問の意図がわからない。 均実が怪訝な顔をしていると、徐康もすこし気まずそうな顔をした。 「あのとき、まるで邦泉殿は孔明殿を……」 徐康の言葉は最後までいかなかった。 突然、後方から地響きが聞こえてきたのだ。 後ろを振り返ると、砂埃がまいあがっている。 曹操に追いつかれたのだ。 均実は顔をしかめた。 遅かれ早かれ起こるだろうと想定されていた事態だったが、今はすこし状況が悪い。趙雲がこの場におらず、彼の少数の部下だけが甘夫人の護衛にあたっている。 逃げ切るのは不可能だ。 安全をまず確保しなきゃ。 均実は肝をすえると、馬から下りた。速く長距離を動く必要がないなら、下手に馬にのっているほうが行動は制限される。 純を守るのが、今の自分の仕事だ。それに一人でいるよりも人と固まっていたほうが、実際に安全だろう。 薙刀を握りなおし、純に走りよる。 「純ちゃん。大丈夫だから落ち着いて?」 「う……ん」 砂埃を見つめたまま喬を抱きしめて、顔面蒼白な純がいた。パニックにならないだけマシだろう。とりあえず軒に乗せてやり、外界から隔離した。 いつのまにか劉禅の泣き声はおさまっていた。ショックでいすくんでいるだけかもしれないが、素直にありがたい。 この軒は甘夫人の軒の横にある。趙雲はいないが、彼の部下である兵たちは甘夫人を守るように、つまりは側にある純の軒も守るかのようにしてあたりを警戒した。 甘夫人の側ということは……とチラッと確認したが、やはり徽煉もそこにいた。彼女の薙刀の腕は確かだ。それに何度も危機的状況を脱してきている。下手な兵よりも頼りになるだろう。 「均実、無理はいけませんよ。中途半端な無理は、大きな危険になります。」 こちらに気付いた彼女から、落ち着いた声がかけられた。 均実はそのことにすこし安心し、もう一度あたりを観察した。 辺りは曹操の兵たちが暴れまわっているようだ。逃げ惑う者や、それを追う者によって砂埃がたち、視界はすこぶる悪い。 徐康はどうしたのだろうか? そう考えながら均実は薙刀を構えたまま、純の軒を後ろにして立っていた。 「母上っ」 その徐康の声が聞こえた。目を声のほうに向けると、駆けていく彼の後ろ姿があった。 砂煙に覆われ見難かったが、彼が倒れた軒に向かっているのはわかった。おそらく兵たちが突然現れ、軒を退いていた馬が驚いたために軒が倒れたのだろう。だが軒の倒れ方がまずかった。騎馬兵のちょうど走行しようとしていた直前にふさがるように倒れていた。 数人の騎馬兵が馬からおり、軒を取り囲んでいるのはわかった。そしてその人垣の中に見え隠れする小さな人影がある。 「母に手をだすな!」 あれが彼の母なのだろうか。 それほど離れていないところで徐康が持っていた剣の鞘を払い、何人かの者にむけた。 だが徐康は武将ではない。武芸が優れている話はきいたことなどない。学問に偏っているというのは庶のお墨付きだ。 案の定、振り払われた手であっさり地面になぎ倒された。 下卑た笑みを浮かべた男達が彼の前に立っている。それに立ち向かうために素早く徐康は体を起こそうとした。 助けに、と一瞬思ったが、均実は純の側から離れるわけにはいかない。 起き上がった徐康は、明らかに不慣れな構えで剣を再び男達に向ける。 威嚇の声と共に、見た目より重い剣に振り回されているような動きで彼は足を動かす。 「あれでは逆に危ないっ」 徽煉も徐康を見ていたらしい。 均実が驚いて徽煉を振り返ると、酷く焦っている声でこう言われた。 「戦場にいる兵は血に酔っているのですよ。下手な手をだせば……」 「っ」 均実が徐康を止めようと声をあげかけた瞬間、彼の姿が赤く染まった。 対峙していた男のうちの一人が、徐康に剣をふりおろしていた。 「っっっっっ徐康殿!」 思わず均実の口からは叫びが飛び出した。 砂が舞い上がり、視界は良好とはいえなかったはずなのに、それははっきりと見えた。彼の体はまるで重力に抗いたいと思ったかのように、不自然なほどゆっくりと、ゆっくりと倒れた。 戦において、多く失われる命の一つ。 それを、それが……これなのか。 均実の目の前で、徐康は死んだ。
もうハチャメチャだった。 耳をふさいでも、後方からいくつもの叫び声が聞こえる。 斬られた者、馬に踏まれた者、家族とはぐれた者、知人が目の前で死んだ者……それぞれの叫びに悲痛な思いが込められた、酷く悪趣味な不協和音。 それほど近くないはずなのに、それはまるで脳が切り刻まれるかのような苦痛をともなった。 しばらく忘れられそうにないな……。 「孔明殿!」 劉備の声が聞こえたので、亮はその考えをわきに置いて頷く。 魏軍が行軍の後ろのほうを飲み込むようにやってきている。ここから見える分では、だいたい半分ぐらいは飲まれている。 正規軍は前のほうにいるので、彼らの救済は間に合わない。 「ここですね……」 劉備は亮のその言葉に表情を変えなかった。だから亮も……変えないように努力した。 ここにいるのは劉備の参謀。 指し示す道は、冷静かつ適格であり、感情に走ってはいけない。 たどりつかれるのは予想の範囲。だから次の行動は…… 「切り捨てましょう。」 亮の言葉に、重く劉備は頷いた。 民を連れて行くと決めたときに、想定していた事態。 そうすることで、こちらの兵におよぶ被害は最小限のものになる。 「兵を急いで前進させろ。」 そう近くの兵に声をかけながら、劉備は息苦しさを感じていた。 亮の提案したこの策に許可をしたのは自分だが、納得するのには時間がかかった。 だが劉 が曹操に降伏した時点で、自分が一勢力として生き残るにはこれしかなかったのだ。 「大きな犠牲だな」 亮はその劉備の呟きには何もこたえず、ただ戦場となっている後方を見つめていた。 きつく拳を握り締めて……
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