危うかったな。 襄陽が見えなくなってから、劉備はそう思った。 民達は本当に自分を慕ってくれている。 襄陽でのあの小合戦の混乱のすきをついて、襄陽からもいくらかの民が加わった。これは新野での劉備の好意的な噂が、襄陽にまでしっかり届いていたためだった。 民の数が増え、新野を出発した時以上に足が遅くなっている。 簡雍や孫乾といった部下たちは、この進行速度ではまずい。行軍から民を切り離し、少しでも急ぐべきだと進言してきていた。 「民は国の基。わしのもとに集まってきている者をどうして見捨てて行ける?」 だが劉備はそう言っては、その進言を退けていた。そしてその言葉は従っている民達にも伝わり、より一層劉備への支持は高まる。 彼についていけば間違いない。彼ほど民のことを考えてくれる者はいない。 ――……。 劉備は暗くなろうとした思考を振り払う。顔をどうにか無表情に保ち、目の前にいる頼りの男をみすえた。 彼の計算上、このままで行けば長坂では関羽の迎えと合流できるだろう。そして要害である江陵に行けば、とりあえず兵を建て直し…… そんな計画は立っている。 だがそこまでいけない。 このままでは―― 「当陽だな。」 劉備はつぶやいた。 「速度も評判も、計画通りですね。」 亮はそう応えた。 この進行速度でいくと、長坂よりも手前にあるその地で曹操に追いつかれる。 何も言わずに思案し始めた劉備から、亮はそっと離れた。 自分を英雄視する評判を劉備が重く感じていることを、亮には知っていたのだ。 確かに見当はずれな賛美だ。 このままでは曹操に追いつかれるのは、劉備が最もよくわかっている。そしてこのままならば…… だが最悪なのは、ここで劉備が曹操に殺されること。それを防ぐためにはこの状況を、どんな策をめぐらしてでも切り抜けなくてはいけなかった。 そして季邦との策により強化されたこの計画は、九割がた成功するに違いない。 動き出した歯車は、もう止まらない。 巧妙に組みたてた計算ずくめの歯車を、組んだのも、回したのも劉備の許可あってのことだが、その責を自分も負う覚悟はすでにできた。 だから亮はその選択が間違っていないと信じることにした。 一度だけ後ろを振り返る。 多くの民が自分達についてきてくれているのが、誰に聞かずともわかる。 握り締めていた手を開いてそれに目を落としてから、もう一度握りなおした。 自分のやるべきことは…… 顔をあげ、南を見、進むべき道を示す。 迷う暇はもうない。 全ては……計画通りに進んでいる。 まるで流れる川のごとくに。
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