だが襄陽では入城すらできなかった。 皆に動揺が走る。 軍勢だけでなく、ひきつれてきた民も中には入れなかったのだ。 城壁にずらりと並んだ旗やそこに武器を構えて立っている兵たち。外に掘られた壕を囲むように、逆茂木という尖った木の棒を連ねたものが据えられている。 臨戦態勢。誰もがそう思えるほど物々しい雰囲気が襄陽からは伝わってきた。近づくと容赦なく矢が降ってくるために、行軍はかなり離れたところでその歩みを止めた。 数度の受け入れ要請も却下される。 劉備が声をあげ、民だけでも受け入れるように説得しようとしているのが聞こえるが、どうも状況はかんばしくないようだ。 隊列の前のほうで起こっていることは実際に目で見ることができないが、 「劉そうは民を見捨てるの?」 均実は憤った。会ったことがない劉そうに苛立ちを抱く。 「当然……でもあるがな。」 並ぶようにして側にいた季邦が、苦い顔をしながら襄陽のほうを眺めた。結局先に行くことを承諾しなかった彼は、均実とともに行動していた。 隊列の中ごろより少し前ぐらいであるここからでも、襄陽の姿は遠い。いつもと違うところといえば、城壁に旗が立っているぐらいしか見えない。だが緊迫した空気は伝わってくる。 冷静に考えれば、そのとおりなのだ。 今、劉備を城にいれてしまえば、せっかく曹操に恭順をしめしたというのが、疑われる可能性もある。 それを劉そうは恐れているに違いない。 それはわかっている。だがそれで民を見捨てようとするのか。 均実の苛立ちをおさめさせるつもりもなさそうに、淡々と季邦は続けた。 「劉そう殿は蔡家の後見あっての州牧就任だ。蔡家、つまりその現当主である兄が、応といえば応。否といえば否。どうしようもない。」 「でもっ」 「兄上は皇叔が嫌いだからな。」 「……個人的感情なのか?」 「おそらく」 季邦は目を細めた。それもきっとあるだろう。あの兄に器の狭さではけして敵わない。 そんな彼を均実は見、そしてもう一度襄陽のほうへ顔を向けた。 「季邦だってここにいるのに……」 均実のつぶやきに季邦が答える前に、突然城門が開いた。吊り橋も下ろされ、城壁の上では兵同士が剣をあわせて混乱しているらしい。それに巻き込まれ、何人かの兵が突き落とされたようだ。 皆が息を呑んで状況の変化を見つめる。一体何が起こったのか。 そのとき城壁に囲まれた襄陽に町中から、一騎だけが飛び出してくる。 「皇叔っ、入られよ。義によってお迎えするっ!」 魏延という武将だった。 開け放された門から十数メートルのところで、馬を止め彼はそう叫んだ。均実たちからはそこに馬に乗った人物がいるというぐらいにしか見えないが、確かにその声は届いた。 迎え入れるという申し出は願ってもないことだ。 だが罠……ではないのか? 申し出に喜んで飛びつけないほど、その光景はおかしかった。 劉備ほどの重要な人物を出迎えるならば、本来なら兵たちがわきを固め、城壁の上にも歩兵が規則正しく礼を守って並んでいるはずだ。現州牧である劉そう本人が出迎えないのは仕方がないとしても、それなりの重臣がねぎらいの言葉をかける。 だが魏延はとてもそんな地位のある人間には見えなかった。城壁の上でもまだ争いは続いている。 しかも…… 「魏延、おのれ雑兵の分際で何をしておるっ。」 「文聘殿。ならば皇叔を門前払いすることの、どこに大義があるのですか!」 「ええいっうるさい!」 襄陽からそう叫び、魏延をののしる男――文聘が飛び出してきた。 互いの部下たちまででてきたため、城門の前では小合戦が行われ始めている。 民達は皆その異様さにどうしようもなく、ただ黙り込み、不気味な沈黙だけがその場を支配していた。 魏延の申し出を罠だとすれば、今はある程度の距離をとっているため弓も届かないだろうから、こちらから近づいてこさせて攻撃しようという考えだとも考えられる。 たとえ罠でなかったとしても今の状況では、この開門が襄陽にいる者たちの総意であるとは考えられない。 だから他に考えられるとすれば、魏延の一存であるということだ。だが彼の一存で開いた門になど余計入ることはできない。あの門の中には、劉備に対して敵対心を持つものがたくさんいるのだ。入った途端、攻撃される可能性もある。 何よりあの小合戦の中を抜けて襄陽へはいるのは、無傷というわけにはいかなさそうだ。 民の伝達能力は素早い。静かでありながらも、そんな情報が広まっていく。 「季邦はどう思う?」 新野で作り上げた民とのパイプは、確実にこういうときには役に立った。 均実はそれらの情報を聞きながら、横にいる友人に話を振った。 「さあ……とりあえず言えるのは、蔡家にとって別に大きな問題ではないだろうってことだな?」 「なんで?」 「真相はどうであれ、皇叔は民を襄陽にいれることはしないだろ。」 「そうか……危険だもんな。」 「――まあな。」 すこし切れの悪い答えに均実は怪訝そうな顔をしたが、季邦はそれ以上何も言わなかった。 結局季邦の言うとおり、あの誘いにのるのは危険すぎるということになった。 数人の者が民に事情を説明する姿が見える。そして誰もが納得し、誰もが劉備は民の安全のためにそう考えたのだと疑わなかった。 そう、疑わなかった…… 劉備は新野に平和をもたらした英雄。曹操に蹂躙されるだろう民を見捨てられなかった徳の篤い仁侠。 疑うはずなど、なかったのだ。 追い討ちをかけるように曹操がさらに南下してきているという情報が、そのときはいった。 再び曹操からの逃亡が始まる。 歩き疲れた体に皆が鞭をうち、隊列が南へゆっくりと進み始めた。 「皇叔っ!」 それを見た魏延の絶望の声が襄陽の空に響く。 だが劉備の軍は南へと進む。 この状態では彼も襄陽にもどるわけにはいかない。邪魔をする文聘をなんとか退けると、劉備の軍の姿はもうなかった。追いつくことを諦め、魏延も襄陽から落ち延びることにした。 彼は後に劉備の配下となるが、それはここで語られることのない話である。
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