宴の余韻が覚めやらぬ間に出された布告に、新野中から驚きの声がでた。 だが驚くほど民は冷静だった。皆それぞれに判断し、従軍する者はすぐに旅支度を整えようと、身の回りを片付け始めた。 闇に姿を隠すように辺りの明度を見計らって出発したが、そろそろ物の輪郭がはっきり見えるほど明るくなってきている。 白々としてきた空をみて、均実は息を吐いた。 夜に移動したほうが、追っ手がつきにくいという判断なのだろう。だから今日は貫徹だ。体の節々がすこし凝っている。 しかしそれは自分が属しているこの列の者、皆にあてはまることだった。とるものもとらずに逃げ出したのだから。 均実は長旅になるにしては軽装だった。 自分の荷物といっても均実はピンとこない。だから純にもらった巾着と、新野に行ってからあつらえた小柄な薙刀以外は今持っていない。悠円に書簡や衣類の取捨選択を任せたし、その荷も実際に見ていなかった。どこかの荷車に乗っているはずだ。 均実はふと今姿の見えない季邦のことを考えた。結局彼はそんな義理はないはずなのに、この行軍に参加している。 先に襄陽へ帰るように劉備は説得したらしいが、季邦がどうせ襄陽へ行くのなら一緒にいくと主張したという。劉備のもとに留められ、今も説得が続けられているらしいが、きっと折れないだろう。 それにしても一体、季邦は何をしに新野へきたのだろう。 そんなことを考えつつ、日の落ちていたころは確かにいた新野の方向を振り返る。 出発したときは暗くてわからなかったが、ずっと向こうまで続く人の頭に、チラホラと馬がみえた。荷車に様々な物がつまれ、ガラガラと音をたてている。色んな人間が入り混じり、その足音も凄い数になっていることは夜半には気付いていた。 均実は後ろに続いている人間の数を数えようとして、……諦めた。 不可能だった。あまりにも多すぎる。 そんな馬上で後ろをチラチラと見ていた均実に、声をかける者がいた。 「何を見ているんだ?」 趙雲がこちらも馬に乗ってこちらをみていた。辺りは涼しいというより寒いぐらいだが、彼の額には汗が浮いていて体からは湯気が立っている。 均実はその姿をみとめ、すこし安堵したように息をはいた。 「追いつかれたんですね。」 「ついさっきな。それから奥方様の護衛を仰せつかった。」 そういわれ後ろばかり見ていた目をもっと近場にむけると、結構近くに甘夫人が乗っているのだろうと思われる軒があった。そのすぐ近くには関羽の姿がある。二人で甘夫人らを護衛するということなのだろう。 新野へ救援に趙雲は来ていた。樊城に駐屯していた兵をひきつれて。 先だっての戦いには間に合わなかったが、疲労がもっとも少ない部隊だったため、劉備が一つの任務を与えた。 南下するにしても、ただ南下してはすぐ追撃されるだろう。曹操に劉備が逃げ出したことが報告されるのは遅ければ遅いほどいい。 ならば曹操の目を劉備ではなく違うものにそらせばいい。そのために劉備は、趙雲に魏軍へのちょっかいをかけさせていたのだ。 そして彼は前方のほうにいる劉備にその報告を終え、合流したところだという。 「凄い数だなと思ってたんですよ。」 もう一度後ろを振り向き、均実は言った。 何の変色もない、ただの感想。 劉備の統治を慕った人間がこんなにもいるということか。 民の事情には精通しているつもりだったし、確かに劉備が慕われているのは知っていたが、ここまでとは正直思っていなかった。 「これほど人が多いと、行軍が遅くなりませんか?」 「ああ……そうかもしれないな。」 実際、魏軍と矛を交えてきたというのに趙雲は簡単に隊列に合流できた。それはつまり大して新野から離れることができていないことを示していた。 趙雲はそう言ってから、しかし首を振った。 「いや、あまり変わらんかもしれん。」 均実は、その言葉に疑問を抱いて趙雲を見かえす。 手に持っている槍を軽くまわして肩におき、趙雲は行軍の後ろのほうを示した。 「新野を引き払うということは、我々の陣営に属している人間の家族達を連れて行かなくてはいけない。無関係の民を引き連れなくてもな。」 劉備は新野を追われれば、安住の地などない。 家財道具や何やら一式全て持ち運び、また家族親族も連れて行かなくてはいけない。 根無し草の悲しさだな、と趙雲は笑った。 「どちらにしろ、それほど速くは動けない。なら慕ってくる民をわざわざ突き放す必要はないとでも考えたのではないか?」 「そう、でしょうか?」 すこしひっかかりを覚えつつ、均実はまた後ろを向いた。 亮が言った犠牲とは……なんなのだろうか。 それが頭の中で渦をまいている。 結局あれ以上何も聞けなかった。 亮はもっと前方、劉備と一緒にいるはずだ。だが下手に列を乱すことは、混乱のもとになるし、均実は純を守ることを頼まれているのでここを離れられない。 だから現在、均実は物理的にも亮に聞くことはできない。 民とともに曹操から逃げることの一体何が……危険なのだろうか。 なんだかいやな予感がする。 いつもなら論理的に客観的事実を積み重ねた上で結論をだすが、珍しく説明できない第六感で均実はそう思った。
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