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均しきさだめ 作者:奇伊都

第10回   大きな犠牲の、その意味は?

 どこいったんだろう?
 均実は亮の姿を探していた。
 距離があったために、あっさりと見失ったのだ。
 こっちであってると思うんだけど……
 均実は自分の進行方向に目的の人物がいることに対しての自信が持てなかった。
 酔っ払いは性質が悪い。兵の中でまだマシだろうと思える者に、亮がどちらにいったか聞きながらここまで来たのだが、絡まれそうになったり、酒を飲まされそうになったりしたので逃げるように急いだ。よっていまいち自信がないが、屋敷の外に亮が向かったのは確かなようだ。
 屋敷からでても、戦勝に酔った民がこの夜中でも出歩いていたために、彼らを捕まえつつ歩いていた。
 そうやって何人に亮の行方を尋ねただろう。
 すぅーっと夜風が頬を撫でた。それに促されるように振り返ったが、宴の開かれていた屋敷すらもう見えない。
 そのことを知り、関羽を放り出すようにして亮を追いかけてきたことを、今更ながらに礼を失し過ぎていたかと思う。
 でもなんだか居心地が悪かったし……
 均実はそう思い、そしてそう思ったことに驚いた。
 許都で過ごしていたときは、彼といると穏やかな気持ちになった。泣き顔を見られ、愚痴のようなものまで言ってしまい、取り繕う必要もなかったから。
 だけれど今、どこか彼との間には壁のようなものがある。アクリル板のように透明で、あることにも気付けないほど存在は希薄だが、確かにそれはあった。
 関羽が言った均実の思案の内容が、微妙にずれていたのはそのせいだろう。
 均実は小さくため息をついた。
 確かに亮をよく思っていない将がいるのも知っていたし、それを案じていた時期があったのも事実だ。
 だがさっき考えていたことは、そのことではない。
 均実は今回の戦で自分が功をたてることを、全くできなかったことについて考え込んでいたのだ。
 亮は曹操を宛城に追いやることを成功し、確実に劉備陣営での地位を上げていっている。自分はその上へ行かなければいけないのに……
 しかしそれを正直に関羽にいうのを迷った。
 それを言ってしまえば、劉備に力を貸すために仕官したのではなく、日本に帰るための足がかりに仕官したことがばれてしまう。皆、命をかけて劉備に仕えているというのに、どこか不謹慎な気がしたのだ。
「なんであんなに……」
 雲長殿は私のことを考えてくれているのだろうか。
 亮の姿を目で探しつつ、均実はそんなことを思案していた。
 気にかけてもらえる価値などない。日本に帰ることを望んでいる自分に、後に大きく名を残す関羽ほどの立派な将に心配してもらえるような資格などないというのに。
 そろそろ人の姿も見つからなくなったために、当てずっぽうに歩き続けてしばらく経つ。焚かれていたたいまつの明かりもここまでは届かない。Gショックのバックライトをつけるが、最近電池がなくなってきているのか、光量が少ない。
 暗いし諦めて、一旦屋敷に帰ろうかと思ったとき


  ……三墳有り

  累々とし……に相似たり


「……梁父吟?」
 微かに聞こえてきたのは、間違いなく亮の声だった。途端頭は亮のことだけに占領される。
 隆中にいたころはよく歌っていたが、この新野で聞いたのはこれが……初めてじゃなかったっけ?
 耳を澄まし、どこから聞こえてくるのか見当をつけ、再び歩き出すと、前方から見慣れた姿が現れた。
「何でここに?」
 均実の声を聞き、うつむきがちに歩いていた季邦は顔をあげた。
「……邦泉か」
「そういえば季邦は宴の席にいなかったな。」
「ああ、孔明殿に呼ばれたから……」
 季邦はそういって、息をはいた。


  問う 是れ誰が家の墓ぞ

  田疆に古冶子


 風に運ばれ、梁父吟が届く。間違いなく季邦よりも向こうから聞こえてくる。
 季邦は均実がそれに気をとられていることを察し苦笑した。
「孔明殿はこの先だ。」
「ありがと」
 均実は礼もそこそこに、季邦が来た道を戻る。
 彼がどんな表情をしていたかなど、見る余裕もなく。


  力は能く南山を排き

  文は能く地紀を絶む

  一朝 讒言を被れば

  二桃 三士を殺す


 いた……。
 歌が終わりにさしかかったころでようやく見つけたのは、一人で星空を眺めている亮だった。
 かなり外れのほうまできている。梁父吟が聞こえなければ、来ることはできなかっただろう。
「亮さ」


  誰が能く此の謀を為す

  国相斉の晏子


 均実の呼びかけをさえぎる形で、最後の節を歌いきると、亮は大きくゆっくりと息を吐き出した。
 右手を顎にやって思慮深げな瞳を、ただただ空に向けている。
 均実は驚いた。
 その悲しげな横顔に。
 思わず近寄ろうとした足を止めるほどに。
 こんな亮の表情を均実は見た覚えが……
 いや、見た……?
「綺麗な星だね。」
 亮は均実がいたことに気付いていなかったわけではないらしい。そういってゆっくりとこちらをみた。
 そのどこか沈んだような声が、ひどく記憶を刺激する。
 いつだったっけ……同じようなことが、前に、あったような……
 均実の思考が混乱していると、亮はまた空を見上げた。
「星は運命を見るためだけでなく、ありのままの美しさも愛でないともったいない。」
 ……思い出した。その奇妙な理由。
 均実は小さく、鋭い息を吸った。
 遠い、遠い昔のことのように感じる。日本から来てまもなく乗馬の練習を始めたころのことだ。
 下邳に行く前に、今とよく似た表情の彼と話したのだ。
 今のように星空の下で、今のように二人きりで。
 あの時も星を眺めていた。
 しかしあの時とは明らかに何かが違うような気がした。
 何が……?
「……季邦とそこで会いました。」
 答えの出ない均実は話題を転じることにした。
 亮は笑みをその顔に浮かべた。悲しげな顔をそのままにして浮かぶその笑みも、確かに以前見たはずだ。
 だけどそれでもやはりどこか違う。
「話があったんだよ、彼に。」
 亮の声を聞きながら、もっとよくその表情を見たいと思い、均実はその側に寄ろうとした。
「そして今のは、彼のために歌っていたんだ。」
 亮の言葉をどういうことだろう。と均実は訝しがったが、
「……でももう二度と梁父吟は歌わない。晏子のような決断を、自分にできるかどうかを考えるだけの時は終わってしまったから。」
 亮がそう言ったために、均実は再び立ち止まった。
「できずとも選ばなければ、いけないんだ。」
 振り絞るような声で、亮は言った。
 ああ、わかった。何が違うのか。
 均実はその顔を凝視しながらそう思う。
 以前、均実に亮は死なないことを約束させた。死の町と思えた下邳へ向かう、その命が消えないことへの保証を均実自身から得た。
 あの星空の下で亮は、均実は頭がいいと誉めた。それは最も亮が望んだ約束だけを選んだから。
 亮はこういった。
『ただ……約束してくれないか? 危険を冒さず、生きて必ず戻ってくると。』
 提案された三つの約束事。その中で実際に約束したのは、危険を冒さないことではない。戻ってくることでもない。
 生きること。ただそれ一つ。
 そして他を除外されても、その約束が最も亮の望んだものだった。
 だが劉備の参謀としての選択をするときがきたという。そしてその選択によって、死地にむかう命の保証は誰からも得ることはできない。
 自らの指し示す道で犠牲になる命の重みを背負い、その保証を切望する心を持ちながらも、誰からもそれを与えられることがない。それを誰よりもわかっているために、亮の表情は以前とは異なったのだ。
 そしてそれはきっとあの時よりも……辛いに違いない。
「さきほどまでここに徐季がいた。もうすぐ玄徳殿のもとにも同じ情報がもたらされるだろうね。」
 均実は頭の中に何度か会ったことがある、その痩身の男のことをうかべた。徐季というのは亮が情報を収集するのを頼んでいる男だ。
 通常時もそうではあるが、戦時下においては信用のおける情報は重要である。彼が来たことを知り、亮は宴から抜け出したらしい。
 そしてその徐季がもたらした情報を、亮から聞くと、わざわざこんな人気のないところにまで来たことにも納得がいった。
「劉そう殿が、曹操に下ったんだ。」
 均実は思わず息を吸い込んだ。
 劉表が死んだ後、州牧の任を継いだ劉そうは曹操と戦っている劉備に何も言ってこなかった。戦争の激励の使者も、停戦を促す使者もこれまで来ていない。
 その降伏を知らせる使者すらも。
 それはあちらに劉備と行動を共にする心積もりがない、敵にまわるという意味だった。
 つまり荊州は劉備を排斥しようとするだろう。
 こんなこと、誰に聞かせてもいい話ではない。下手をすれば大混乱になる。
「そんないきなり……」
 均実の言葉に亮は星空を見上げたまま、険しい顔をした。
「予想はしていた。劉表殿ならばまだしも、劉そう殿は曹操に敵対はできない。」
 蔡家の力が強すぎる。
 彼が州牧として立てるのは、背後に蔡家がいるからだ。
 蔡家は荊州で力を維持できるなら、それで満足。降伏すれば劉そうが曹操に捕らえられようが、家臣はほとんど罰もなく既に持っている権力を保持することが可能なのだ。
 劉表が健在ならば、もしかすると曹操の南下に対して徹底抗戦の構えをみせたかもしれない。だが運命は皮肉にも、曹操の南下と劉表の死を同じときにあわせたのだ。
 曹操と敵対しても、主要な軍を掌握している蔡家の協力が得られないのならば、けして勝つことはできない。いや協力があっても勝率はかなり低い。
 それほどまでに曹操の軍は大きかった。
 だから蔡家の選択、つまり劉?の選択は曹操への投降。
 これは予想がついていた。
「……できればはずれてほしかったのだけどね。」
「え?」
「これで選ぶ道は決まってしまった。
 大きな犠牲を、払う道に。」
 亮の声は、まるで痛みを耐えるかのような苦しげに、そしてわずかに震えて聞こえた。
「……どんな道なんですか?」
 均実の言葉に、亮は自分が劉備に示した道をもう一度頭の中で思い描く。
 何度も考えた。
 何度も何度も。荊州の州牧が劉そうでなくとも曹操との戦いは、いずれ起こることだったから、そのとき劉備が置かれる状況と打開策を。
 その考えの一つが今現在の状況と符合している。その打開策は……一つしか思いつかなかった。そして劉備が最終的な決断はするとはいえ、現状ではこれ以外進む道はない。
 そのことは劉備自身もわかっている。そう、自分がその道の先にある未来を示したとき、そのことに驚愕と嫌悪を示した劉備でさえも。
 だからきっと……
「明日から民を率いて南下することになる。」
 以前から劉備にこのことを進言していた。
 劉?は曹操に下った。
 もう新野にいるわけにはいかない。曹操だけならともかく、襄陽の兵まで抑えるには新野は小さすぎる。
 南。襄陽よりもはるかに南。軍備の備わる江陵の地。
 そこに落ち延びることだけが、今残されていた道だった。そして江陵で、江夏にいる劉きと協力体制をとり、その後のことに備えるためにはできる限り有利な状態で、その道を進まなければいけない。
 だから明日になれば、新野中にこういう布告をだす。
『この新野の地は曹操を防ぐに足りず、我らは放棄しなくてはならない。
 されど曹操の統治は残虐非道と聞く。
 劉備についてきたいと思う者は、荷をまとめ夕刻より出発する軍に追従せよ。』
 新野の民は劉備を慕っている。少なくない数が自分達についてくるだろう。
 曹操から逃れるために。劉備の徳を慕うがために。
 だから……有利になる。
 進むために払うものが大きかったとしても。
「均実殿は薙刀が扱えたはずだったね。」
 均実がこちらをみていることを確認して、亮は続けた。
「万一の時、綬と喬を守ってやってくれないかな。」
「守る?」
「危険な……ことになるかもしれない。」
 亮の言葉に均実は目を見開く。
 大きな犠牲とは何なのか、南下することがどうして危険に繋がるのか。
 きっと均実には理解できていないだろう。
 しかし具体的なことを亮は教えまいと思った。
 口に出してしまえば、そのあまりにも辛い決断をする気持ちが揺らいでしまう気がした。そして何よりも……
 知れば均実は止めようとするだろう。
 だからけして言うまいと強く唇を結んだときだった。
「……大丈夫、ですか?」
 全く予想と異なった、その均実の言葉に亮は思わず力が抜け、口から息が漏れた。
 もちろん均実は亮の予想したとおり、問い詰めるつもりだった。だが亮の先ほどの表情があまりにも辛そうに見え、均実は質問の内容を変えたのだ。
「どうすれば、私は亮さんを支えられますか?」
 まっすぐ亮の瞳をみすえ、その問いを発する。
 何を選んだのかを聞くよりも、亮の背負うモノを軽くしてやりたかった。
 日本では兄が苦しんでいても、助けることはできなかった。守られていることだけが、自分にできることだった。だが……ここでは自分はきっと無力じゃない。
 たとえ亮が約束を破棄したとしても、自分が彼を支えたいという気持ちは変わっていない。話すことが辛いのならば、話さなくてもいい。他に支えること方法があるというのならば、話すことは絶対不可欠なことではない。
 今まで自分に向けてくれた優しさに、ただ報いたかった。
 均実の言葉に驚いたような沈黙を保っていた亮は、顔をしかめ言葉をつむいだ。
「どうして……戦なんてあるのだろうね…………」
 胸の前で手を真白くなるほど握り締める。
「なんで人が、人を殺すのだろうね…………犠牲になるのはいつも弱い者なのに」
 こんなことを言う亮は、とても遠い目をしていた。その目に映っている光景は一体何なのだろうか。
 均実はゆっくり息を吸いながら、まぶたを閉じた。
 思い浮かんだのはひどい砂埃のたちこめている、視界がよく効かない広い場所。
 亮がそんな場所で、自分のすぐ横にいることが簡単に想像できた。
 砂埃が舞い上がると、鮮血に染まった人々が点々と倒れ伏していることがわかる。つい今まで戦場だったような雰囲気の夕暮れ時。真っ赤な夕日が、全ての物へ漆黒の影を与えている。
 そんな場所には行ったことないはずなのに、どこまでもそれはリアルだった。
 目を開くと、すぐ前に亮はいるのにとても遠い場所にいるように思えた。ここでないところを見ているように見えた。
 あの光景のいたるところに転がっていた人の死体を見つめ続けているかのような……
 お願いだから……彼を傷つけてくれるな。
 見えない死者に、均実は祈る。
 亮は死に捕らわれている。均実がこの世界にやってくる、ずっと前から――そんな気がした。
「手、冷えてますね。」
 均実はゆっくりと彼に近づき、堅く握られたその拳に自分の手を重ねた。
 驚くほどそれは冷たかった。
 痛む心。それは亮がなくしたくないと思った心。人の心。
 それを失うまいとするかのように、拳が堅いことに均実は悲しくなった。切実にそれを望み、人を死に追いやることを苦しむ亮を支えてやりたかった。
 大きすぎる犠牲。それが何を指すのかわからないが、おそらくは人を死に追いやるそれを選ぶことは避けられないのだろう。
 だからせめて彼が望む人の心だけは、自分が守ってやりたい。
「……私は情けないね。」
 亮はそういいつつ、思っていたより強く握っていた手をゆっくりと開いた。それを柔らかく均実の手が包む。
 その暖かさに強張るほど入れていた力が緩まる。
 ほぐれていく……手の冷たさとともに、心の弱さが。
 亮は数度大きく息を吸っては吐いた。
 こちらが約束を果たさないというのに、均実は確かに約束を守ってくれている。
 自分を支えようとしてくれている。
 そのことが純粋に嬉しく、その助けは優しく……悲しかった。
「ありがとう。」
 かすれたような声で亮がそう言うと、手をとったまま、均実ははにかむようにして笑った。そして亮をしっかり見上げた。
「恐怖を感じるということは、立ち向かおうとしているということです。亮さんは決断を恐れていても、逃げてはいない。」
 この優しさがきっと後を押してくれる。
 亮は均実の言葉を黙って聞きながらそう思った。
 慈しみに満ち、全てを包み込む暖かさと……残酷さを秘めた声。
「きっと選んだものは、全てを考えつくした上でのものなんでしょう?
 だったら亮さんは――つまりその決断は、間違ってませんよ。」
 やはり均実は自分の心の底で欲していた答えをくれた。
 誰かに自分は間違っていないのだと、言ってほしかったのは確かだった。
 だがその答えを聞いて、漏れでた息は落胆だったのだろうか。安堵だったのだろうか。
 卑怯者。
 声に出さず、心の中だけで亮はつぶやいた。
 これから進む道は、自分ひとりで進むべき道だ。憎まれるだろうことが……わかっていても。
 不自然にならない程度に、ゆっくりと均実の手から自分の手を取り戻した。
 礼を言った口が謝罪の言葉をつむぎだしそうになるのを、必死で止めながら。
 今謝れば全てを知った後でも、均実は自分を憎まないだろう……憎めないだろう。それは憎むことができる対象がなくなる、ということだ。
 苦しいときに誰も憎めなければ、その憎悪は自分に向かうしかない。
 それは……亮の経験則だった。
 昔、弟を守れなかった自分の。
 均実には自身を憎むようなことはしてほしくない。
 だから亮はこれ以上均実に謝ることも、頼ることも自制した。
 均実の視線を避けるかのように、顔をそむける。自分を純粋に支えようとしてくれるその視線に、もう耐えられなかった。
 これから起こるだろうことは、この視線を憎しみに変えるだろうから。
 均実は知らない。
 梁父吟とは……葬送のための曲であることを。

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