〔5〕
浩美はほっと息をついた。あとはソバをゆがけばいい。店の片付けを済まし、二階に上がってきたのは十一時過ぎ。そこからすこしだけ大掃除と、年越しソバの準備をしているとあっという間に十二時前だ。 台所から居間に戻ると、父も弟もテレビの前のコタツで、まったりしている――と思っていたのだが、いつの間にか二人ともに寝ていた。疲れているのだ、きっと。毛布を二人にかけ、浩美は一旦自分の部屋に戻った。 暗い部屋。それでも親しみ慣れた空気に落ち着く。浩美は電気も点けずに、そのままベッドに仰向けに倒れた。 静かだった。耳を澄ましていると、キーンと小さな音がするような気がする。 「死にたいなぁ」 そんな時ポツリと出た独り言。それに浩美は思わず苦笑いを浮かべた。 これが卑怯者の証拠。 卑怯者と言われ、酷く容易にその言葉を受け入れられた自分に、浩美は正直驚いていた。しかしそれは、自分がそうであることが真実なのだからだろう。 必死に生きることから、逃げて、逃げて、逃げ続けてきた。そんな自分を示すのは、きっとこの言葉が適切なのだろう。 浩美はそう思い、目を瞑った。 そのとき、窓をコツンコツンと何かで叩く音がした。浩美は目を開ける。ここは二階だ。人なわけがない。 人なわけが…… 浩美はその音にベッドから飛び起きた。 人でないなら…… カーテンを思い切りよく開けるとそこにいたのは、 「ミチコさんっ!?」 浩美は思わず彼女の名を叫んだ。その黒い全身は間違いなく彼女のもの。 心の奥底から何かが沸きあがってくるのを浩美は感じた。 窓の外の小さな柵に、よじ登ってきたのだろう。浩美が窓を開けると、ミチコさんは当然のように部屋に入ってくる。 「たくもぅ、ここに登るの疲れたわぁ」 尻尾を振ってカーペットの上でこちらを見ているミチコさんに、浩美はすこし泣きそうになる。そんな浩美の表情にミチコさんは呆れたような声をだした。 「何、泣きべそかいてんのよ」 「……もう、会いにきてはくれないと思ってた」 「呆れはしてるけどね。これはあたしの役目だから、やっぱり放り出すわけにはいかないのよ」 そう言うと部屋の中でミチコさんは顔を洗った。 「そうだ。おすそ分けがあるの。ちょっと待ってて」 浩美はふと思いついて、部屋を飛び出した。台所に戻り、小皿を一枚手にとり戻ろうとすると、居間では弟が起きていた。すこし眠たそうな顔をして、こちらを見ていた。 「姉貴、ソバは?」 「ちょうどいいわ。もうダシはできてるから、あんたゆがいといて」 浩美の頭には部屋に戻ることしかなかった。 「先に食べてていいわ。お父さんの分もよろしく」 そう言って居間を後にした浩美は、さらに後ろで弟の問う声が聞こえたが、自分の部屋に飛び込むとそれはまったく頭の中に残らなかった。それよりも小皿を見せると、ミチコさんは舌なめずりをした。 「今日はいつもより煮干がたくさん食べれるのよ。みんな年越しソバでダシを煮出すから」 「年越しソバをあげてもいいんだけど、それじゃ火傷しちゃうでしょ?」 「そうね。あたし猫舌だから」 ミチコさんは嬉しそうに小皿から煮干をくわえると、前両足を使って煮干をおさえつけるようにして食べ始めた。 黒いその姿。どれほど見ても、ただの猫に見える。とても900年の間、生き続けてきた存在には見えない。 「ねぇ」 「ん〜?」 呼びかけると、ミチコさんは一心不乱に煮干を食べつつ返事を返した。 「生きてきて、良かったって思ったこと、ある?」 浩美はミチコさんに聞いた。 聞いてみたかった。 この人生の先にあるものは何もわからない。ただ漠然とした失望だけがあって、それがあの独り言に繋がっているような気がする。 その失望を少しでもなくしたかった。 しかしミチコさんは、とりあえず食べるのはとめたが、首をひねった。 「良かった、ねぇ……」 浩美との話より、煮干のほうに未練があるらしい。ミチコさんはちらりと残っている煮干に目をやった。しかし未練を打ち切ると、しっかりと答えてくれた。 「小さなことなら結構あるわ。大きなことも少しはあるわ。でも良くなかったことだってたくさんあったわ。 穢れを失くしたくないっていうあんたたちの考えが、わからないこともない程度にね」 浩美はわかった。そのときミチコさんが笑ったのが。 「でもあんたに会えた」 ミチコさんはそう言い切った。 「あたしがこの役目を続けているのは、まだ会ってないモノに会えるからよ。 そして例え別れがきても、また会えるかもしれないから」 浩美は、そうか。と思った。 ――理由が欲しかったんだ。 『死にたい』と思っているということは、生きているということだ。死にたいと思い続けることで、自分はなんとか生きてこれた。自分の穢れを失くしたくないいと思ったのは、穢れを失くし、『死にたい』と思わなくなっても、生きていても良い理由が欲しかったからなのだ。 浩美はゆっくり、そしてはっきりと彼女に聞いた。 「今更だけど、頭撫ぜていい?」 「もちろん」 その問いに、ミチコさんは快く応じた。 ミチコさんの頭は小さくて暖かかった。浩美は撫ぜても何かが変わったような気はしなかった。しかし自分が卑怯者ではなくなったような気がした。 「……一年、お疲れ様」 浩美が手を話すと、ミチコさんはそう言った。そして窓に飛び乗ると、ここは二階のはずなのに、軽やかにミチコさんは外に飛び降りた。慌てて窓の下を覗くと、コンクリートの塀の上でこちらを見上げているミチコさんと目があった。 「浩美、空をみてごらん?」 優しい声でミチコさんが言う。 「あっ雪だ……」 窓から手を伸ばすと、冷たい氷の粒が手にあたり溶けた。 「雪もね。全てを浄化する力があるんだよ。すべてを真っ白に染めるだろう?」 ミチコさんのその声に、浩美が再び彼女を見ると、何かが始まっていた。 それはそれはとても不思議な光景だった。 ミチコさんの体に雪があたるたび、そこがまるで水面に水が垂れたかのように波打ち、そして色が淡くなっていく。 外灯に照らされ、ゆっくりと白くなっていくミチコさんを見つめながら、浩美は自分の心が温かくなっていくのを感じた。 「姉貴ぃ! 年があけるぞ〜?」 部屋の外から弟の声がする。だけどそれすら気にならないほど、浩美は色の変わっていくミチコさんに見入っていた。 「白いあたしも美人でしょ?」 完璧に真っ白になってくるっと回って見せてから、変わらない口調でミチコさんは言う。 「人じゃないでしょう?」 「ま、口の減らないこと」 浩美の指摘に、ミチコさんはすこし怒ったような口調で言った。だがすぐにあらたまるように、前足を揃えてきっちり座りこちらを見上げた。 「あけましておめでとう、浩美」 「……あけましておめでとう。ミチコさん」 猫の笑みがあるとしたら、きっとあの表情なのだろう。 浩美がそう思っているうちに、ミチコさんはそのまま雪の降る町の中に姿を消した。 きっとまた来年の年末まで、いろんな所で穢れを吸い取り続けてくれるのだろう。 そう思って、浩美は窓を閉めた。
今年はあなたがミチコさんと一緒に年を越すかもしれない。
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